単行本 - エッセイ

『戦時の手紙』をめぐって 鈴木創士

  8月に原智広氏の訳によるジャック・ヴァシェの『戦時の手紙』が刊行され、これに私は推薦文を寄せた。刊行から2か月を経たところで本書を推薦した者としてここで少しばかり私の見解を述べさせて頂きたい。本書の訳文は破格どころではなく、この訳が極めて特異であることは原書と対照すればたちどころに了解されることである。訳者の「創作」の部分がふんだんに織り込まれていたのは軽い驚きであったが、それを越えて巻末に付された訳者による「死後の自伝」は異様な魅力を放っていると私は感じた。これは訳本と言えるのか。確かに、私もまた外国文学を翻訳する者の端くれであり、私と原智広氏の翻訳のやり方は全く違うが、それでも現実の問題として翻訳者が百人いれば、百通りの翻訳があるのだと私が考えているのもまた本当である。もし「表現」のレベルにおいて、自分でやったわけではない人の「誤訳」を徹底的に指摘するようなことをすれば、失礼ながら、我々の先輩である名だたる翻訳家たちを何人も告発しなければならなくなるだろう。完璧な仕事というのがない以上、それがどこまで行っても空しいことであるのは翻訳者なら誰もが知っていることである。

 我々の時代と接していたはずの革命思想であるダダやシュルレアリスムは実際に世界の方々で死闘が繰り広げられた「生きた運動」だったし、深く我々の「生」との関わりを何をおいても重要視する思想である。それは「学問」ではなかった。当時、シュルレアリスム運動の主導者であるブルトンの心に長きにわたって深く消し難い刻印を残したジャック・ヴァシェとはいったい何者であったのか。どんな「侮蔑的告白」をブルトンという偉大な人物にもたらしたのか。ヴァシェは文学者ですらない。この文学ですらない「存在」しただけの人をいかにして紹介すればいいのか。一種の「憑依」であるようにも思える本書の強引なやり方は、それでもヴァシェを「読む」一つのやり方であると私には思われた。実際、言うところの憑依は我々の時間のただなかで生起する。そうすることで、訳者に強い影響を及ぼした彼の考えるヴァシェ像を強度とともに浮かび上がらせるという手法があるのだと私は知らされた。ヴァシェは架空の人物ではないのだから、どのように彼の生きた苛烈な「歴史」は生起したのか。それを知るために学問的努力というものがあることもまた私は承知している。しかしながら、あえて言うなら、この本は資料や研究書としては参照されてはならないだろう。その意味で本書はヴァシェの本というより原智広の本なのだ。

鈴木創士

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