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「感染症の危機下で、政権内部の人々がしっかりと肥えている」アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか。「文藝」夏季号の緊急特集を無料公開。タイの作家、ウティット・ヘーマムーン「剥がれたマスク」

「感染症の危機下で、政権内部の人々がしっかりと肥えている」アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか。「文藝」夏季号の緊急特集を無料公開。タイの作家、ウティット・ヘーマムーン「剥がれたマスク」

4月7日に発売された「文藝」夏季号での緊急特集「アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか」。発売前の公開が話題となった、閻連科さん厄災に向き合って――文学の無力、頼りなさとやるせなさに続き、中国の陸秋槎さん、韓国のイ・ランさん、台湾の呉明益さん、タイのウティット・ヘーマムーンさん、日本の温又柔さんの特別寄稿を連続無料公開します。

閻連科さんの手記を無料公開 河出書房新社がネットで(2020年3月30日 共同通信)
https://www.47news.jp/news/4665010.html
コロナ禍、文学に何ができるのか 閻連科、パオロ・ジョルダーノら海外作家の声(2020年4月15日 朝日新聞)
https://book.asahi.com/article/13302395

アジアの作家、新型コロナ禍で発信 未来志向の言葉 日本の読者に(2020年4月18日 日本経済新聞)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO58177850X10C20A4MY5000/

剥がれたマスク

ウティット・ヘーマムーン
(福冨渉 訳)

世界中に広がったCOVID-19が、タイ政府を揺さぶっている。マスクと消毒用アルコールを必要とするこの感染症が、プラユット陸軍大将とその内閣からなるタイ政府の非効率的な国家運営のマスクを引き剥がし、2014年の軍事クーデターから蓄積された病原菌を洗い流そうとしている。ほとんどの市民が、彼らへの我慢の限界に達している。この絶望的な危機のただ中で、彼らはウイルスよりも悪質にふるまうだけでなく、市民の暮らしに寄生している。

COVID-19は、政権を支持する人々にとっての最後の藁だった。国に破滅をもたらしたクーデターに肩入れし、そのあとは、軍事政権を引き継いだ国民国家の力党を支持してきた人々。彼らは、善行と寄付と布施を重んずる国家とその大地、そして、そこに「国民」がほとんど存在しないネーションに庇護をもたらす、軍の威光を信じ切っていた。格差は広がっている。エリート層と上流階級は、富と、平穏と、安全を得てしかるべきであるとされている。いっぽう、中産階級と下層階級の人々は、口を塞がれ、汚名を着せられ、言葉を封じられ、その暮らしぶりは悪化している。「民主派のやつら」が、侮蔑語として使われる。「トゥーおじさん*1は、国家と、宗教と、国王陛下のために働いているんだ」が、すべてを守る呪文になる。PDRC*2とともに街に出てホイッスルを吹き、クーデターを支持した、政権の支持層、保守派の人々。民主派は、彼らのことを「サリム*3」と呼ぶ。彼らサリムは、「政治に飽きた」と口にしては、世の出来事などどこ吹く風で、どんなに黒いものでも、政権が白と言えば白になるのを野放しにしている。政権のおこないはますます俗悪なものになり、これまでにこの国が経験したことがないくらいに、あらゆる面において最悪の状況になっている。だが、その影響を受けずにいたサリムたちは、なにも感じずにいた。景気と暮らしぶりの悪化が、自分たちに迫ることはなかった。景気の悪化は世界中で起きていることだと思っていたし、COVID-19に関しても同じだった。1月にこのウイルスが流行をはじめたときも、「世界中誰でもかかってるよ」という認識だった。

このサリムたちが、2月の終わりになって狼狽えはじめた。

2月の頭に、憲法裁判所が、新未来党*4の解党と、党幹部の政治活動禁止を決定した。これを受けた大学生たちが、フラッシュモブ式デモで、プラユット政権へ抗議の意思を示した。このデモは毎日のように続き、近年まれに見る大規模な学生運動になっている。新世代の人々によるデモが、サリムという言葉に、社会的に広く、嫌悪のイメージを与えた。この新しいイメージが、サリム自身に、これまでのふるまいを恥じるように促した。クーデターを呼び込んで国を破壊させたこと、プラユット政権の狷介固陋な支持層になったこと。

彼らの動揺は、政権への信仰という固くこびりついた澱と、市民を守るために政府があらゆる方策をとってくれるという幻影を剥ぎ取ることになった。政府のCOVID-19対策が効率を欠いているだけでなく、ウイルスが社会階級を選ばずに蔓延したことで、サリムたちは戦慄した。社会階級を明確に区別する国家運営をすり抜けて、ウイルスは彼らのもとにやってくる。それが、彼らの気づいた真実だった。政府のうかつな対応で、特権階級も既得権益層も汚染されてしまった。それだけではなく、政府は、政策の抜け穴を利用したり、マスクを密売したりした閣僚たちを野放しにした。プラユット政権は、彼らの面を汚す存在になった。かつては政権を支持していた人々も、嘆きと、失望と、あきらめの声を上げはじめた。

いくつかのハッシュタグが生まれた。#ผนงรจตกม(リーダーがバカだと全員死ぬ)から、#อตอห(トゥーのクソ野郎/未来は死んだ、未来は消えた)、そして最新の#อหตพมตมรจลอ(トゥーのクソ野郎、いつになったら辞めるんだ)。現政権のトップに向けられたこうしたメッセージが、派閥を問わず、ほとんどの市民から発されて、広がっている。

政府は、COVID-19の感染者対応にもたついた。その場しのぎの対応をくりかえした。厳しい態度で国民に命令を発した。服従と、介入と、手続きの省略ですべてを処理する、軍人らしい性質によるものだった。さらに、資本家たちへ利益供与がなされた。脅迫的な汚職がおこなわれるようになった。あらゆる方面で、情報が隠蔽された。保健相がフェイスブックに投稿する内容が、たびたび、保健省の公式発表と食い違った。政府内における方針の不一致を示していた。確証の得られない状況が続き、不信と不安が生まれた。政府の情報が信頼できなくなれば、市民はよりどころを失い、自ら情報を集めはじめる。自分たちで生き抜く方法を見つけようとする。それが、市民の中に混乱と無秩序を生み出した。ついには、市民が互いを恐れるようになった。韓国に不法滞在するタイ人労働者たち、「ピー・ノーイ」が、タイに帰国しはじめた。彼らの中に、14日間の自宅待機の指示に従わず、さまざまな場所を移動してまわる人々がいた。すると、彼らに憎悪が向けられた。人々は、ピー・ノーイがCOVID-19に感染しているというレッテルを貼った(感染していないかもしれないのに)。ピー・ノーイは歩く病原菌だというイメージが広がった。

市民が互いを監視し、疑い、なじる中、政府は、感染危険国からの観光客を入国させ続けた。観光客には体温測定だけをおこない、14日間の待機指示は出さないというダブルスタンダードが適用された。すべての運用に、階級がはっきりと反映されていた。下層階級、労働者階級、一般市民に対しては、すべてを死にものぐるいで適用する。禁錮と罰金の罰則が規定された法律が施行される。いっぽう、閣僚や名望を集める富裕層は、感染危険国からの帰国後も自宅待機はせず、議会に通常どおり出席し、何食わぬ顔でイベント会場に現れて、しゃなりしゃなりと歩き回る。意識と法律は、口実に使うため、もっと下にいる人々を脅すために存在していた。

マスクの品切れが、1ヶ月以上続いていた。手指消毒用のアルコールジェルも影響を受けはじめた。薬局に「品切れ」の紙が掲示され、いつ入荷されるかも不明だった。全国の病院で、医療従事者たちのマスクすら確保できなくなった。生産工場は、出荷を政府向けに制限するよう指示された。そのあと、関係機関がマスクを配布するというわけだ。だがある日、忍耐を続けていた工場から告発があった。軍人が工場を監視しており、製造したマスクを持ち去っていると。政府は廉価での製造を命じながら、密かに価格をつり上げて、転売をおこなっていると。警察は、マスクを高く販売する薬局や個人を摘発した。かたや政府は、適正価格を越えた金額でマスクを販売し、さらに中国へ輸出することで利益を得ていた(これもまた、ネット上で市民からの告発があった)。いっぽうのタイ国民や病院は、大地をひっくり返さんばかりにマスクを探し回っている。ここまで来てなお、政府は厚かましくも市民からマスクの寄付を求めはじめた。市民から安全というマスクを引き剥がしたのだ。「力を合わせて、COVID-19と闘おう」と。

もっとも最近では、閣僚と懇意の人物がマスクを密かに輸出している、とのスキャンダルがあった。数百万枚というその数をこの時期にどうやって集めたのか、市民の心に疑念を生んだ。市民が政府に向けた視線をあざ笑うかのようにマスクを転売し、それを批判されれば、政府との関係をしどろもどろに否定しようとする。この感染症は、腐りきった政府の国家運営を明るみに出した。単に仕事ができないだけではなく、危機的状況においてすら、「おともだち」を優遇する。それを、天地に恥じることなく、あからさまにおこなう。誰かが口を滑らせてしまえば、口をふさぐよう命じて、身柄を拘束する。かつて政権を支持していた人々のほうは、戸惑い、傷つき、なにも言えずにいる。

だが、市民の中から、動きが生まれ、不満を示す声が上がっている。愛国心も、王室への忠誠も、病原菌から私たちを守ってはくれない。道徳的善行は、階級を選ばず感染を広げる病原菌が近づくのを防ぐ免疫にはならない。なにより大切なのは、COVID-19がもたらした感染症の危機下で、政権内部の人々がしっかりと肥えているということだ。そう、これでわかった。彼らこそ、病原菌だったのだ。

 

*1 プラユット首相のあだ名。

*2 二〇一三年後半から大規模な反政府デモをおこなった、保守・王党派の団体。バンコクの主要交差点を封鎖する「バンコク・シャットダウン」を実施し、軍に、二〇一四年五月のクーデターを起こす口実を与えた。デモ会場では、参加者がホイッスルを吹き鳴らしていた。

*3 二〇〇〇年代の政治対立の中で、自身の「中立」を主張しながら、民主主義の手続きを否定し、保守的な言動をくりかえす人々を指すために用いられた言葉。さまざまな色をもつタイ菓子「サーリム」が由来と言われている。

*4 二〇一八年に設立された政党。軍政から民主主義に移管していく時代の希望として、若年層を中心に大きな支持を集めた。

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著者

ウティット・ヘーマムーン

1975年、タイ・バンコク生まれ。2009年、『ラップレー、ケンコーイ』(未邦訳)で東南アジア文学賞を受賞。著書に『プラータナー 憑依のポートレート』。

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