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「記憶を持たない民族には未来もない」ーーアジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか。「文藝」夏季号の緊急特集を無料公開。日本在住の中国ミステリ作家・陸秋槎「神話の終わりと忘却の始まり」

「記憶を持たない民族には未来もない」ーーアジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか。「文藝」夏季号の緊急特集を無料公開。日本在住の中国ミステリ作家・陸秋槎「神話の終わりと忘却の始まり」

4月7日に発売された「文藝」夏季号での緊急特集「アジアの作家たちは新型コロナ禍にどう向き合うのか」。発売前の公開が話題となった、閻連科さん厄災に向き合って――文学の無力、頼りなさとやるせなさに続き、中国の陸秋槎さん、韓国のイ・ランさん、台湾の呉明益さん、タイのウティット・ヘーマムーンさん、日本の温又柔さんの特別寄稿を連続無料公開します。

閻連科さんの手記を無料公開 河出書房新社がネットで(2020年3月30日 共同通信)
コロナ禍、文学に何ができるのか 閻連科、パオロ・ジョルダーノら海外作家の声(2020年4月15日 朝日新聞)
https://book.asahi.com/article/13302395

アジアの作家、新型コロナ禍で発信 未来志向の言葉 日本の読者に(2020年4月18日 日本経済新聞)

神話の終わりと忘却の始まり

陸 秋槎
(稲村文吾 訳)

嘘を千回繰り返したとして真実になるとは限らないが、神話になるには充分だ。神話が人々の心に入りこめば、それは迷信となる。中国の社会制度の優越性についての喧伝は、そうした一つの神話だった。制度を弁護する人々はだれしも、そろってこの神話を口にのぼせていた。まとめれば一言に尽きることでしかない――力を集中させ、大事を成す〔集中力量辦大事〕と。

あたかも月に到達したアメリカは大事を成せず、通貨を統一したユーロ圏も大事を成しておらず、社会主義中国だけにそれが可能であるかのように。信徒たちにすれば、〝力の集中で大事を成す〟というのは社会主義制度の優越性であり、この制度を維持する正当性だった。1998年の水害救援に始まり、2003年のSARS、2008年の汶川地震と北京オリンピック、そして2010年の上海万博に到るまで、得失の両面を考えず結果だけを見るならどれも〝力の集中で大事を成す〟考えの全面的な勝利のように思え、この神話もさらに人々の心に入りこんでいった。

チェルノブイリの事故へのある言及を聞いたことがある。あの災厄を作りだしたのはソ連の社会制度だが、ソ連の社会制度があったからこそ人手と物資を編成して救援活動を行い、最悪の事態に到るのを食い止めることができたという。人権を軽視するソ連だったからこそ数十万のなにも知らない民衆を動員し、放射線の曝露下で現場の処理を行わせられた、ということらしかった。突発的な災厄を前にしたとき、大局を優先にできる、強力な政府こそが、自分たちを導いて困難をしりぞけ勝利を迎えられるのだと、中国人のすくなからぬ数が考えたがっている。そういった人々は同様に、大局のためにはいくらかの犠牲を出すことも避けがたいと考えたがる。〝国は一つの盤面〟〔全国一盤棋〕で、どこかで捨て駒は出るもの。より賢明な一手によって犠牲を避けられるか気に留めることはなく、駒を動かす側も気に留めない。

そして私たちは、またしても災厄を迎えた。2003年のSARSに勝るとも劣らない国難だ。しかし今回は〝力の集中で大事を成す〟という70年のあいだ膨らまされた風船が、現実によって無情に穴を開けられた。

感染症の拡大が、チェルノブイリの事故と同様に社会制度の暗面が作りだしたものかは、ここでは問題にしない。最低限の判断力を持つ人ならだれであれ、最初の症例から武漢封鎖の報せまでをざっと整理してみれば、同じ結論に到ってもおかしくない。そもそも人災の予防は〝力の集中で大事を成す〟考えの得意分野ではなく、本領は救済のほう─すくなくとも信徒たちはそう考えていた。

しかし結果はどうだったか。武漢と周囲の都市を封鎖しながら、物流の機能を確保できずに物資の欠乏を招いた。武漢の支援にあたる医療関係の人員は防護服や医療用のマスクを手に入れられず、民間に寄付を請う必要に迫られた。赤十字社を通じて民間から寄付された物資はなかなか出回らなかった。医療人員は女性が大多数を占めていたが、生理用品は政府が一括買い取りする必需物資リストに含まれていなかった。市民は助けを得られず、みずからネットに書きこんで〝自力救済〟をするしかなかった。一時期は、武漢市民がネットに書く数々の情報を見て、この地は無政府状態に陥ってしまったとでもいうような錯覚すら覚えた。思うに〝力の集中〟は結局のところ粗雑さと低効率でしかなく、人災を沈静化させるという〝大事〟についても思うように成せないらしい。そのなかで一矢報いたと言えるのは火神山医院や雷神山医院、臨時病院〔方艙医院〕群の建設だけに思えるが、とはいえこれも、周囲には大量の悪いニュースがつきまとっている。

では〝力の集中で大事を成す〟神話が破られて、中国はなにかが変わるだろうか? 私はあまり期待が持てない。その理由もごく単純──私たちがすべてを忘れようとしているからだ。

いつからか、かつては発展した史学で知られていた私たちは、記憶を持たない民族に変わってしまっている。日本に来てから、テレビでは戦後日本のさまざまな天災人禍を振り返る番組をたびたび見た。そういった番組を中国ではだれも作っていないし、作ろうとはしない。要するに、彼らが切望しているのは私たちが一刻も早く忘れること、願わくはひとつ残らず忘れること。ここ最近の出来事も同じだ。神話がすでに破れていることをだれも覚えていなければ、〝力の集中で大事を成す〟は揺るぎない神話でありつづける。現在では、感染症が全世界を範囲に拡散していくにしたがって、外国の対応の至らなさをあざ笑う中国人がどんどん増え、ふたたび同じ神話の喧伝を始めている。一方、感染症の全世界への拡散について中国の咎は逃れがたいこと、私たちの咎は逃れがたいことはきれいに忘れている。

記憶を持たない民族には未来もない。そして民族が記憶を持つ手助けをするのが、書く人間の責任だ。

(初出=「文藝」2020年夏季号)

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著者

陸 秋槎(りく・しゅうさ)

1988年、中国・北京生まれ。現在、日本在住。著書に『元年春之祭』『雪が白いとき、かつそのときに限り』など。
Twitter ID: @luqiucha

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