単行本 - 自然科学

【特別公開】なぜ人間は、生存にも繁殖にも役立ちそうにないことを行うのか:海部陽介『人間らしさとは何か──生きる意味をさぐる人類学講義』(河出新書)はじめに 

【特別公開】なぜ人間は、生存にも繁殖にも役立ちそうにないことを行うのか:海部陽介『人間らしさとは何か──生きる意味をさぐる人類学講義』(河出新書)はじめに 

はじめに 人間は人間をどう捉えてきたか

人間らしさとは何か。あるいは、人間とは何かーー古代から問われ続けてきたこの問いは、近寄りにくい永遠の難題のようにも思えるかもしれません。ただ、ある視点からたどれば、これはとても親しみやすく、かつ私たち一人一人にとって有益な問いです。本書を通して、そのことを伝えたいと思っています。

この問いは伝統的に哲学や倫理学の中心課題とされてきました。それを「古典哲学的人間論」と呼ぶことにしましょう。高校までで私たちが学ぶその内容は、おおよそ以下のようなものだったと思います。

古来より、人間を人間たらしめているものは発達した知能あるいは理性であるとされ、その理性から生まれる人間としての特質や規範が問われてきました。そうした議論の始祖として教科書に登場するのは、約2500年前の古代ギリシャの哲人たち。例えばソクラテスは「人間の卓越性とは徳であり、それを磨くため、そしてよく生きるために、人は真理を追究すべきである」と説き、アリストテレスは「人間は良き共同体の形成を目指す存在(ポリス的動物)」だと述べました。

一方、春秋戦国時代の中国では、人として正しい生き方とそれを実現する統治システムのあり方をめぐる思想が展開され、孔子を祖とする儒家や、老子を祖とする道家が現れます。その中で人間の本性を思索した孟子は性善説を語り、荀子は性悪説を唱えました。

「人間らしさ」の問いを「人はどう生きるべき存在か」に拡張すれば、宗教の教義も人間論を語っていることになります。釈迦も、イエス・キリストも、ムハンマドも、信仰の必要とともに説いたのは、「人はこうあるべきだ」という個々人の生き方でした。ただし宗教は総じて教義を超えた自由な思想を禁じてきたため、中世においてその支配力が強まると、人間の本性を探る思索は停滞しました。例えばヨーロッパの中世キリスト教社会では、創造主である神の視点で世界を理解することが奨励され、神から神性を付加された人間は宇宙の中心にいると信じられ、それに異を唱えれば火あぶりが待っていました。

15世紀以降、ルネッサンスが興って科学が誕生し、ヨーロッパにおけるこの風向きが変わります。ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレイら卓越した自然の観察者たちが現れて、地球は宇宙の中心でないことが示されるとともに、宗教を至上とする価値観は次第に崩れはじめました。やがて17世紀にルネ・デカルトが、神から離れ人間の視点で徹底的に真理を探究する近代哲学を創始し、人間が人間を理解しようとする下地がつくられるようになります。そうした流れの中で、「人間は考える葦である」として人の思考する能力の崇高さを説いたパスカル、そしてホッブス、ロック、ルソーらが、それぞれの人間観に基づいた社会論を展開していきました……。

私自身はかつて学校でこういった人々の思想を学んだとき、哲学の歴史の重みを感じるとともに、2つの素朴な感覚を抱いたのですが、もしかすると皆さんも同じことを考えなかったでしょうか?

1つ目は、「人間らしさ」は歴史上の偉人たちが向き合う崇高な問いなのであって、自分などが容易に手を出すものではないという畏れの感覚です。しかしかつての私のそんな意識は、大学で生物人類学を学び、卒業後にその専門家となって大きく変わりました。

生物人類学(あるいは自然人類学)は、霊長類学、考古学、文化人類学、民俗学などと並ぶ人類学の一分野で、人類の身体・遺伝・進化などを主な研究対象とします(日本におけるその中心組織は日本人類学会)。私は現在その一研究者として、過去200万年におよぶアジアの人類進化史を解明すべく、各地を調査してめぐる日々を送っています。専門としているのは原人からホモ・サピエンスまでの化石骨の研究ですが、祖先たちの実像に迫るため、例えば日本列島へ最初に渡ってきた旧石器人の大航海を再現する、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」(国立科学博物館 2016-2019年)を実施したりもしました。そのような経験を重ねるうちに、次第に考えが変わってきたのです。

そもそも「人間とは何か」は、見方を変えれば「自分とは何か」ですから、誰にとっても遠ざけるべき問いではないでしょう。生物人類学は証拠を手掛かりに一歩一歩議論を進める自然科学の一分野ですが、高度な論証能力を要しないこのアプローチで問いに向き合うと、自分についての意外な発見が次々と出てきて、足元が固まっていく感覚を覚えるようになります。まさに「地に足がつく」という感じなのですが、少し大袈裟に言えば、「人としてどう生きていくべきか」へのヒントが得られる気がしてきたのです。

古典哲学的人間論について感じた2つ目は、人間らしさに対する偉人たちの答えはさすがにどれも的を射ているが、結局のところ答えは多様で、人間の本質的な理解に導かれている感じがしないというモヤモヤ感でした。

人間らしさを一義的に決められないことは、次の例からもよくわかります。私たちヒトの正式な学名は、ラテン語で「賢いヒト」を意味するホモ・サピエンス(Homo sapiens)で、1758年にカール・フォン・リンネが命名しました。リンネは現代的な生物分類法をつくったスウェーデンの博物学者で、その定義では属名と種小名を連記します。この場合は、ホモ属(=ヒト)とサピエンス種(=賢い)を連記して、ホモ・サピエンスとなっています。

あくまでもこれが国際的に承認されている正式名なので、ホモ・サピエンス以外は学名として認められません。しかしリンネ以後も、人間らしさの様々な側面にスポットライトを当てたい哲学者や歴史家らが後を絶たず、比喩としてその別名を幾通りも提唱するようになりました。比較的有名なものとしては、ホモ・ファーベル(工作するヒト)、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)、ホモ・ロークエンス(ことばを操るヒト)、ホモ・ポリティクス(政治するヒト)、ホモ・エコノミクス(経済活動するヒト)などがありますが、ウィキペディア英語版で「Names for the human species」と検索してみたところ、そうした別名がなんと60以上も掲載されていて驚かされました。

さて、本書は偉人たちが語ってきた人間論に、私たち自身が向き合おうという大それた試みなのですが、そんな提案をするのは、それなりの勝算があるからです。ここで大きな鍵を握るのは生物人類学、霊長類学、考古学ですが、その背景を説明するために、再び哲学史に戻りましょう。

デカルトやパスカルらの時代の哲学は、人間論に向き合うにはまだ大きな弱点を抱えていました。それは18世紀までの古典哲学的人間論では、理性や精神だけが議論の対象となっていたことに加え、「精神を宿す人間は他の動物とは異なる特別な存在」であるとか、「人間の心と体は別の実体(心身二元論)」と考えるなど、自然の本当の姿についての理解がまだ未成熟だったことにあります(ただしアリストテレスは動物としてのヒトの特徴について若干の考察をしています)。

そんな状況が、過去200年ほどの間に大きく変わってきました。ここで登場した新しいアプローチを、「科学的人間論」と呼ぶことにしたいと思います。科学的人間論の発展に貢献した土台として、私は次の5つを挙げます。最初の3つは18〜20世紀に、4つ目は21世紀への変わり目に確立され、5つ目は現在進行中の動きです。

1つ目の土台は、生物学におけるヒトの分類の確立です。前出のリンネは、1758年の『自然の体系 第10版』において、ヒトにホモ・サピエンスという学名を与えるとともに霊長目(サル目)に分類しました。つまり私たちはサルの仲間だと宣言されたわけですが、その正しさは、現代の解剖学、化石形態学、遺伝学などの各種データから裏付けられています。ここで人間らしさを探るにはサルたちとの比較が必須という指針ができ、20世紀中頃から霊長類を集中的に研究する霊長類学が発展するようになります。本書では、第1・2章で、サルの仲間たちと比較した私たちの特性について見ていきます。

2つ目の土台は、進化論です。1859年にイギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を世に出して、地球上の生命体の相互関連性が理解されるようになりました。それまで全ての生物は神の造作物とされていましたが、実際には共通の祖先から枝分かれを繰り返し、各々が独自の進化を遂げて多様化してきたということです。リンネの時代には似た者同士をグループ分けしていたにすぎませんが、進化論の登場によって、それらが共通祖先を介して互いに結ばれていることが理解されました。さらにダーウィン以降の研究により、生物が進化する基本メカニズムが解明され、これにより、それぞれの種の特徴が、進化を通じてどのように生まれたかを、検討できるようになりました。進化論の基礎については、本書の第3章で扱います。

3つ目の土台は、生物人類学です。進化論が正しいとなれば、自然な流れとして人類の進化についての研究がはじまります。人類はいつ、どこで誕生したのか? 初期の人類は、どのような姿をしていたのか? その後どのような変遷を経て人間らしさが生まれたのか? 人類の化石骨を見つければ、その謎に迫ることができるはず││そんな熱にかられた研究者たちにより、19世紀末から野外での化石探索が開始され、現在までに膨大な発見が積み重ねられてきました。その甲斐あって、現代の生物人類学者は、「人間らしさ」の進化史についてかなり歯切れよく答えられるようになっています。本書の第4・5章では、ホモ・サピエンス以前の人類、つまり猿人や原人たちにおける人間らしさの表出について、見ていきます。

4つ目の土台は生物人類学の1つの成果なのですが、あえて独立に記すことにします。それは現生人類のアフリカ単一起源説の確立で、簡単に言えば、「ホモ・サピエンスは30万〜10万年前頃のアフリカで誕生し、10万〜5万年前頃から世界各地へ広がったことによって今の世界が生まれた」というものです。この説の登場により、人間らしさのルーツについての古典的なヨーロッパ中心思考が大きく修正されました。そんな革命的理論が、本書の第6章のテーマです。

そして最後の5つ目の土台は、生物人類学と考古学と歴史学が合体した人類史、あるいはグローバルヒストリーの登場で、これは現在進行中のホットトピックスです。人類史の定義は様々ですが、ここでは文明の発展にフォーカスした古典的世界史描写法から脱し、文明以前あるいは非文明社会も含めて全ての人類社会に配慮した、10万年スケールのホモ・サピエンス総史と捉えることにします。その先駆的著作には『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイヤモンド著)や『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)がありますが、どちらも現代を理解するためにホモ・サピエンス史を切り口にしたことが特徴でした。

私自身は、今後、人類史は人類学のより広範囲な諸分野(化石形態学、集団遺伝学、霊長類学、考古学、文化人類学など)や歴史学、社会学、経済学、心理学、哲学なども含めて、人間理解の推進のために文理融合で強化されるべき新しい分野だと思っています。本書の第7章では、その試論の1つとして、「ホモ・サピエンスは見かけこそ多様だが、中身は多様でない(ヒト多様性のパラドックス)」という不思議な実態について、説明することにします。これは最近わかってきた人間の重要な特質で、まさに今、社会問題となっている差別やダイバーシティの問題に対する、生物人類学からの1つの回答でもあります。

以上の土台から生まれ、これまでに数々の論考を生み、さらに発展しようとしている科学的人間論とは、人間らしさを科学的に解き明かす試みです。科学では1つ1つの仮説に対してデータや証拠を示し、根拠を与えます。そこで誤りがあれば仮説は再考あるいは却下されますし、証拠に十分な説得力があると認められれば、それは正しいと受け入れられていきます。この単純明快なアプローチのおかげで、賢者の仲間に入らなくても、誰でも証拠を吟味して議論に加われるようになりました。つまり手の届かぬ領域にあった命題が、科学によって私たちのもとへ降りてきたとも言えるでしょう。

一方で、複雑な人間という存在は、検証可能なテーマのみを対象にする科学的議論だけで捉え切れるものではありません。むしろ、科学が与える情報を私たちがどう解釈し、どう理解するかに、大きな意味があるはずです(ある意味そこで現代科学と哲学は融合するのだと思っています)。そこで最後の第8章では、それまでの議論を基にした私自身の人間観を紹介した上で、科学的人間論が社会にどう貢献できるのか、私なりの答えを示したいと思います。

古来より哲学者や思想家たちはそれぞれの人間観に基づいて、人の生き方や、社会のあるべき姿や、君主にとっての合理的な統治法を提案してきました。例えば古代中国で、性善説を唱えた孟子は仁義に基づく王道政治を唱え、荀子による性悪説は、人を法律と刑罰で矯正する法家の思想に受け継がれたとされます。仏陀が「欲望や煩悩を捨てなさい」と諭すのは、私たちはそうしたものに取りつかれる存在だという人間観が読み取れます。

19世紀に共産主義を唱えたマルクスとエンゲルスの思想の裏には、「文明以前の原始共同体に存在した平等主義的な人間の本性が、資本主義下における利潤追求で歪められたので、共産制に移行することによりそれが回復され平和が訪れる」との人間観と期待があったといいます。しかし20世紀に誕生した共産主義政権は、リーダーたちの変節により、平等で健全な社会を生み出すことはありませんでした。これは理想社会の実現を目指す上でも、現実に即した人間観が必要であることを教えてくれます。

人類学が導く科学的人間論は、こうした政治・経済・社会論、さらに個人の生き方を考える上でのベースとなる、より確かな人間観の醸成に貢献できるはずです。今はまだその途上ですが、本書の議論が、これをさらに推進するきっかけの1つになることを願っています。

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