単行本 - エッセイ

最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』試し読み

最果タヒさん、待望の初エッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』が刊行になりました。収録された、著者厳選の45本の中から、「友達はいらない」「宇多田ヒカルのこと」「最初が最高系」の試し読みを公開します。

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友達はいらない

 7月は小学校の時の友達の誕生月で、ふとした時に思い出すけれど、その子とはすっかり縁が切れてしまっている。人とながく付き合うというのはそれだけでも大変なことで、奇跡だって言えるのかもしれないけれど、ぶつんと切れた縁だって、それはそれでいいものだと思うのだけれどどうなのだろうな。彼女の性格だとか顔だとか、もうすっかり忘れてしまって、あのへんに家があったとか、それぐらいしか思い出せない。寂しいという言葉をここにあてはめるのは、なんだか傲慢だとも思う。もう会うことも話すこともない、友人だったひと、という存在は、閉館した故郷の美術館みたいに、私の中できらめいている。

 ひとというのはさようならしていくのが自然の流れだと思うし、永遠になかよくしていられるというそういう勘違いで得られるのは安心でも、平穏でもないような気がする。しんどいよ。一人で生きていけるとかそういうことは別に思わないんだけれど、かといって、たくさんの人にやさしくされながらじゃなければ生きていけないとも思わない。美味しいものを食べる日もあればそうでもない日もあるぐらいに、人間に対しても気まぐれでいいとか思うんだよな。尊重するべき、って散々言われるんだけれど、でも、私はやっぱり他人のことを自分と同等の存在としてみることはできない。だって、自分と違って内面も聞こえないし、感情すら表情で読み取らなくちゃいけないし。疲れるよ。なんだあの生き物、っていつも思う。人間は、人間ですらちょっと消耗品として触れている所があると思うよ。だから、遠くなっていくことも、近くなっていくことも、好きな分量で決めてしまっていい。私は今はそう決めている。とても親しいと思う友人とは、本当に2年に1度ぐらいしか連絡を取らずに、最後にあったのは3年ぐらい前だった。その子とはたぶんまだ切れてないけれど、まあそんな態度だし、そのまま切れてしまう縁というものに、さみしさなんて感じるのは身勝手だな、と私の場合は思う。っていうかさみしさなんて別に、そこにはないな。そもそも。そういう関係性は薄っぺらいっていう人もいるけれど、薄っぺらいのがちょうどいい人もいて、それがたぶん私。みっちり、ずっと一緒に居なきゃいけないなんてただの地獄じゃないですか。

 「さみしい」という感情に、だれかがそばにいるかいないか、なんていうのはたぶん、まったく関係がない。自分が楽なリズムで、孤独になったり、孤独をやめたりできるのかっていうことのほうがずっとずっと重大だと思う。自分の都合の良さみたいなものを、どれぐらい保てているかっていうこと。冷たいこと書いているって言われそうだけれど。私が一番さみしいと思ったのは学校に通っていた時だったし、やっぱりそれは疲れ果てたからだった。クラスメイトと毎日顔を合わせて、何人もの友達がいて、親しくしていたし、なんの問題もなかったけれど、掘り起こされていく孤独みたいなものはあった。家に帰っても、眠っても、どこまでも誰かとの関係性っていう揺れ動く水面みたいなところにしか立つことができなくて、「私」が日に日に曖昧になった。そんな状態で一人で考えたりしてみたって、結局他人から切り離した結果の「一人」として存在するしかなくて、なんか生まれたころとは違っている。明らかにニュートラルではなくなっていた。自分というものがもっと大きなものの一部分としてしか機能していない感覚。それなのに、私は私を中心にしか見たり聞いたりできないしさ。そういう自分が他人のものになってしまったような気持ち悪さが、当時「さみしさ」として身体中にはりついていて、ああ、友達いらない、と本気で思った。いらないって言ったって、0にしたいわけじゃないんだけど。
 人にどれぐらい近づいていられるかとか、一緒に居られるか、というのは本当に、ただの性格の問題だと思う。私はほっといてほしいと常に思っているし、そういう態度が心地よいと思ってくれる人じゃないと友達にもまずなれない。ということで、学校の友達とかほとんど縁は切れているし、まあそういうものだよね、とどうしてか冷静でいる。「さみしくない?」って言われることはあるんだけど、昔に比べて、さみしさを感じることなんてほとんどない。人付き合いが悪い、とか、あの人は人間嫌い、冷たい、みたいな扱いをされることもあるんだけれど、別に人間と一緒にいることすべてが辛いわけでもないんだよなあ。めんどくさいときはめんどくさい、というだけだった。他人はそうでもないのかな。人とずっと一緒にいるのが平気っていう人ばかりなんだろうか。たぶん、私は、だれとも接点がない、孤立した生活、というのをしたことがないから、ひとりぼっちというものに対して恐怖心がないんだろう。そのぶん、必要以上に誰かと一緒にいるのがめんどくさい。それだけの話。「冷たい」という言葉はたぶん価値観の不一致によって生じていて、だとしたら私もこの人のことを「冷たい」と今思っているんだろうか。まあ思っているからこそ「めんどくさい」なのかもなー、とか考えたりする7月です。


宇多田ヒカルのこと

 私は宇多田ヒカルのことをちゃんと、一度書いておくべきだ。AppleTVのSiriに「宇多田ヒカルをかけて」と伝えて、それから5分後に急にそう思った。宇多田ヒカルがデビューしたとき私は小学生だった。音楽なんてそんな詳しくなくて、ツタヤというシステムもまだ把握していなかった。流行を追うことにほとんど熱心ではなくて、スキー旅行だとかそういうもののときにバスでかかる音楽を聴いて、今はKinKi Kidsという人が人気なんだ、とか、SMAPという人がクラスメイトの話題になることが多いとか、そういう把握のしかたをしていく。宇多田ヒカルという人は、そんな私の子供時代に登場した。そして私が初めてアルバムを買ったアーティストだった。

 私が書いた詩のなかに、こんな一文がある。

「宇多田ヒカルを聴いて、思い出すのが校庭の匂いなら、きみの幼少期は最高なもの。」 (詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』収録)

 たぶん、ここに書くべきひとは、他のどんなアーティストでもなく宇多田ヒカルしかありえなかったんだろうな、と私は思う。彼女の歌は商店街のスピーカーにかかっていたって、大学生の一人暮らしの部屋にかかっていたって、おばあさんのラジカセからかかっていたって、馴染んでしまうなにかがあった。あのとき、あの時代。みんなそれぞれのそのときの記憶とともに彼女の歌を覚えている。それぞれの人生の一部として、それぞれ、違う形で残っている。社会現象だとか、若者の代弁だとか、そういう「共有される歌」ではなくて、聴く人それぞれの個人的な体験として彼女の歌は聴かれ、だからこそ、聴く人によってその記憶はまったく違っている。そしてだからこそ、どこかの誰かが嗅いだ校庭の匂いと、彼女の歌が直結していたってよかった。その誰かにとってはそれだけが事実なんだから。私にとっては、小学校の友達とおこづかいを出しあって行ったカラオケルームだとか、自然学校のバス。大人もたくさん、彼女の歌を聴いていただろうけれど、それは私には関係がなかった。私はまだ反抗期ではなかったし、ひとりぼっちで音楽にすがることもなかった。自分のどこかに穴があいていて、それを埋めるために必要とした音楽ではなくて、周りを彩る花みたいに、あらわれた音楽だ。まるでそういった季節が訪れたのだというような、そんな必然性があった。だからこそ私は、そのとき見ていた運動靴だとかランドセルとともに彼女の歌を記憶した。同じ瞬間、みんながみんな違うものとともに、彼女の歌を記憶した、というのは、なんだろう、とんでもなくポップだと思う。そのバラバラかげんが、むしろその「ポップ」の強度を示しているように思う。おもしろいよね、ポップなのに、その消費自体はだれとも共有されず、極めて個人的な形で行われる。他人がどう聴いているかなんて、そんなことはどうだってよかったし、私にとって歌を消費する上では、彼女の人生すらどうだってよかった。

 私は彼女の歌をとても好きになったけれど、彼女に詳しくなりたいとは思わなかった。彼女はただどこかで生活をして、そして歌を作って、それを私が手に取っている。彼女の中で歌はたぶん、人生と密接しているんだろう、とは思う。きっと、彼女のそのときそのときのことを歌っている。それなのに、私は彼女の人生まで歌を通じて消費したいと思わなかった。彼女の歌は、私の子供時代とどこまでもくっついていて、私にとってはどこまでも、私の人生の一部でしかなかった。彼女自身すら関係がなかったんだ。友人にどんなに親しみを感じても、友人が自ら告白しない限り、彼女に起きた不幸や幸福をわざわざ知りたいと思わないことによく似ている。変な話だけれど、友達だろうが家族だろうが、他人という存在を、自分の人生の一部分としてしか人は把握することができない。自分と対等の存在に見ることは、本当の意味ではできるわけがない。だから、利己的で身勝手な消費に彼らを晒し続けるしかなく、せめて、彼らが喜ばない形で消費することのないよう、気を配らなければならなかった。彼らが望まない限り、彼らの何かを知りたいと望むことは愛があろうが優しさがあろうが傲慢でしかない。ともに映画を見ることや、食事をすることや、そこで自分が話したいこと、相手が話したいことを、交換していく、それだけでよかったし、それが最上でなければならなかった。それ以上を望んだ瞬間、簡単に相手の尊厳を踏み潰してしまうのだということ。そんな危うさ。それは、作者の人生が染み付いた作品に触れるときにもあると思っていて、それでも、宇多田ヒカルの曲に対して、その背景を知りたいと思うことはなかった。彼女の歌は、たとえ実際には彼女の人生そのものであったとしても、私にとっては私の人生の一部分でしかなく、あまりにも深く深くそこに根付いているため、彼女のことすら、どうだっていい、関係ないと思えてしまっていた。

 他人と接することは、結局人生と人生がすれ違っていくことでしかなくて、そこへの干渉はできないから、触れてきたすべてを自分の人生の一部として大切に保存していくしかない。宇多田ヒカルは子供のころの私にとって本当に離れた、遠い遠い存在で、ライブのチケットだって取れなかったし、テレビでやっている宇多田ヒカルのワイドショー的な情報もよくわからなかった。彼女の年齢をショッキングに思うような年齢じゃなかったし(私の方がはるかに年下だったから)、両親のことだって世代的に知らないし、インターナショナルスクールなんて知ったこっちゃない。それでも私の人生の一部として彼女の歌は残った。すれ違ったんだ、と思う。「歌の力」「音楽の力」みたいなものがあるのかどうかなんて知らないし、そんな大げさな物言い、好きじゃないけれど、でももし、そんなものが存在するなら、すれ違えたというそのことこそが、「歌の力」がくれた奇跡だったんだと思う。


最初が最高系

 メガクリームフルーツパンケーキは、食べに行こうと出かけた瞬間が一番おいしい。たまごつきのラーメンも多分同じ。ピザは注文した時が、唐揚げは目にした時が、ざるそばは食べ終わった時が一番おいしい。食べ物によっていつが一番おいしいかは違っていて、基本的に、食べ終わった時に一番おいしいのが、人として「好物」になるはずなんだけれど、でも食べる前、空腹で何食べようって思っているときは、「あー、パンケーキ食べたい」とか思うんだよね。食べたら別に「ああこんなもんだったな」と思うんだけれど、でも食べなかったら食べなかったで「パンケーキ食べたい病」は治らないのだよね。なんだよそれ、中毒かよ。たぶんこれは、パンケーキとか何枚でも食べられるOKだった昔の記憶が残っていて、「おいしいはず」と脳が言ってるんだろうな。もはや胃もたれするのでよろしくおねがいいたします、My胃。ちなみに食べ終わった瞬間が一番おいしい食べ物を除いてそれ以外は「一口目が一番絶品」となるので、もうどうせだったら、一口サイズレストランとかやって、いろいろつまみたい。幸せを継続させたい。

 なんの話だ。
 でも実際に、こう、やろうと思った瞬間こそが楽しさ最高潮であって、実際にやってみたらたいして楽しくなかった、なんてことは結構ある。インターネットも私にとってはその類です。ネットの良さといえば、世界中と一瞬で繫がれるということ、世界って広い、と実感できるということなのかもしれないけれど、私が通常ネットで見ているものなんて自分のサイト関係だけだし、世界の広さなんてまったく実感できていない。混んだ電車の中だとか、行列に並んでいる時間とか、そういう退屈な現実の中でスマホを握りしめて、私はいつだって別世界へと行けるんだ、と思っている時のほうがずっとネットの「広さ」を謳歌している。ネット自体を愛しているというよりは、いつでもネットに触れられるというその余裕こそが大切なのかもしれない、なんてことを思います。このときの願望って、ネットに向かっているふりをして、本当は現状から逃走したいっていうそれだけだったりするのかなあ。あんまり認めたくない結論だけど、最初が最高系の食べ物をどうしても食べたくなるのは、ただお腹が空きすぎてたいへんだからっていうだけだろ、と言われたらそれにはあっさり納得してしまうのです。
 飢餓状態を解決するために、一口食べたら胸焼けしそうな食べ物をひたすら望んでおいて、手に入れたら手に入れたで、胸焼けがするだの最後までおいしく食べたいだの別の欲求が出てきてしまうのは恥ずかしいというかなんというか。人間らしいと言ってくれ。マイナスを埋めるためだけに行動はできないし、できる限り永遠にプラスでいたい。そしてそこまで貪欲なのに、欲望に負けて自分が本当に食べたいもの(つまり最後までおいしく食べられる蕎麦)を最初から選ぶことはできないその不器用さが、自分ならともかく、他人の場合は、ちょっとかわいいかもななんて思う。喫茶店の片隅で、勢いでパフェとか頼んで後悔している、そんな人って最高です。

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