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衝撃の一文から始まるブッカー賞受賞作『ミルクマン』。謎の牛乳配達人はテロリストなのか?

分断の向こう側に出る語り――アンナ・バーンズ著『ミルクマン』

小川公代

「サムバディ・マクサムバディが私の胸に銃口を押し当てながら私を猫呼ばわりし、殺してやると脅したのは、ミルクマンが死んだのと同じ日だった」という衝撃の一文からこの小説は始まる。一九七〇年代の北アイルランド紛争を背景に描かれているが、その現実から目を背けて「古い本」に埋没したいと願う十八歳の少女「私」はそれらの本を読みながら歩くという風変わりな習慣を持っている。表題の「ミルクマン」は実は牛乳配達人ではなくIRA暫定派を彷彿とさせる武装組織のリーダー的存在であるということからも分かるように、この小説はさまざまなアイロニーを孕んでいる。中年で既婚者の「ミルクマン」がなぜ「私」の生活習慣を知っていて、馴々しく振る舞うのかという不可解さもさることながら「私」だけでなく、彼女の家族やボーイフレンド(メイビーBF)もみな固有名がないのも腑に落ちない。しかし、この〝名無し〟の設定を個性が剥奪されるディストピア小説の系譜に連なるとみなすなら、遍在的な匿名性こそが「私」を所有しようとするミルクマンの不気味さをさらに増幅させていると言えよう。

 また、「私」とミルクマンが男女関係にあるという誤解が、不安定な政治的分断が生み出す「大義」の名の下でねじ曲げられ「真実」として拡散し、母親や姉を含むコミュニティの人々がその「真実」を無批判に信じ込む事態も不気味である。つまり、この小説のもっとも鋭いアイロニーは、無防備ともいえるこの少女の語りが、武装組織が体現する家父長的支配やその価値観に与する女たちの姿を鮮明に浮かび上がらせていることだ。ただし、コミュニティの外に出られない「私」の困難が描かれる一方で、その語りはミルクマンに代表される影響力からの逃避のみならず、彼女を抑圧する伝統的な価値からの解放へと導いてもいる。なぜならその語りは「私」の愛読書の一つ『トリストラム・シャンディ』の脱線の語りを継承しているからだ。アイルランド出身のローレンス・スターンの脱線の語りは、一八世紀イギリスの硬直化した状況を笑い飛ばす風刺を内在していた。

 アンナ・バーンズも同様の語りの手法で硬化した社会の価値観の外に出ようとする。たとえば、文学を読みながら歩く「私」を周りの人は「どうかしているよ」(Out of the paleやbeyond-the-pale)と批判するが、この英語のイディオムは過剰なほど(四七回)用いられている。「pale」は「境界」という意味だが、大文字を伴う「the Pale」になると、当時のアイルランドでイギリスの法律の及ぶ管轄区やその内側の常識やモラルを指す。これは逆説的に、反体制派の男や妻たちが形成する常識やモラルでもあった。その影響力の外に出ようとする「私」(あるいは作者)の強い意志は、世界レベルのダンサー(メイビーBFの両親)や社会問題系の女たちの越境的な声によっても体現されている。

初出「文藝」2021年春季号

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