文庫 - 人文書
河出文庫『完全版 本能寺の変 431年目の真実』発売記念 明智憲三郎氏インタビュー
明智憲三郎
2019.01.25
Q 大きな反響を呼んだ『本能寺の変 431年目の真実』の完全版が刊行となります。明智先生は本能寺の変を起こして織田信長を討った、明智光秀の子孫とのことですが、詳しく教えていただけますか?
私の家系は明智光秀の子孫と伝えられています。子供のころに祖父から次のような話を聞かされました。本能寺の変の後、光秀残党狩の厳しい追及の手を逃れた於寉丸(おづるまる)という光秀の側室の子が、山城国の神社に匿われて神官の子として育てられた。それ以来、身を隠すために姓を『明田(あけた)』と変えて代々ひっそりと暮らしてきた。明治十四年に、私の曽祖父が内務省に系図などの証拠の品を添えて明智姓への復姓を願い出て許可された。復姓した理由は「将来愚昧な子孫が明智光秀より連綿と続いた家系を認識せず、明田を本姓と誤ることがあれば、祖先の霊に相済まない」とのことだったらしい。この件は当時の郵便報知新聞に系図の一端と共に載せられて評判になったと聞きました。その系図は大正十二年(1923)の関東大震災の際に消失してしまいました。系図と共に伝わっていた武鑑(家臣の禄高などの台帳)、光秀自筆の短冊、光秀の物だったという能管(能で使う横笛)も一緒に消失しました。それは大変残念なことですが、当時まだ少年だった父は猛火に包まれた東京の下町から脱出することにより、何よりも大切な命を私までつなげてくれたのです。
こうして、先祖たちから引き継いできた「光秀子孫」という思いですが、私の子供の頃は「主君を怨んで殺した謀反人の子孫」という、暗い負い目のような意識でした。私の父や祖父、そして四百年前にまでさかのぼる先祖たちの誰もが、おそらく同じような負い目を抱き続けてきたに違いありません。戦後生まれの私でさえ子供の頃はそうでしたので、ましてや、小学校の教科書に「逆臣光秀」と書かれていた戦前に育った祖父や父は相当に辛い思いをしたようです。戦前は唐入りを行った豊臣秀吉が国家の英雄であり、彼が討った光秀は極悪人とされたのです。このような子孫としての意識から、私は当然のこととして光秀や本能寺の変について物心付いて以来、強いこだわりを抱き続けてきました。ただ、暗い負い目のような意識だったので、本能寺の変や明智光秀についての話題は意識的に避けてきました。家族の間でも、ほとんど話題にすることはありませんでした。
ちなみに、本能寺の変から現在まで、数奇な運命をたどった光秀の子孫の物語を、今年1冊にまとめて刊行する予定です。
Q そのような想いを抱えていた明智先生が、どのような経緯で本能寺の変を研究されようと思ったのですか? 普通なら目を背けたくなるように思うのですが。
そうですよね。私も、このことを知った子供の頃は嫌な気持ちになるので、あえて詳しく知りたいと思いませんでした。ところが二十歳の頃に、本能寺の変の定説は江戸時代に書かれた物語(軍記物)の作り話と知りました。先祖は上司にいじめられたぐらいのことで、なぜ一族が滅亡するような愚かなことをしたのか?という長年の疑問が吹き飛びました。そして、「だったら本当はなぜ謀反したのか?」という新たな疑問、真実を知りたいという強い思いがふつふつと湧いてきました。あくまでも「祖先の輝かしい栄光」が知りたかったわけではありません。自分にとって都合が良かろうが悪かろうが、ただ「真実が知りたい」。その想いだけでした。そこで、本能寺の変や明智光秀について書かれた研究本を夢中で読みだしました。きっと真実が書かれているだろうと期待して。
ところが、私の期待は見事に裏切られました。それまでの研究は、軍記物の記述に基づいて推理を展開した本ばかりだったのです。エンジニアとして学び、情報システム開発の現場で培った科学的思考のおかげでしょうか、研究者の推論の粗ばかりが見えてしまったのです。具体的な話は拙著(『「本能寺の変」は変だ!435年目の再審請求』文芸社文庫)に書きましたので、お読みいただくとその実態に驚かれることでしょう。研究者に期待していても真実がわからない。では、どうする。自分でやるしかない、と十五年前に決断して自分で調べることにしました。歴史研究には素人でしたが、事実を徹底的に調べて、それを基にして答を出す、という仕事をやってきていたので、そのやり方(犯罪捜査と同じやり方なので「歴史捜査」と名付けた)をそのまま適用しました。当時書かれた史料を収集し、記事の信憑性を評価して信憑性のある証拠を選定し、その証拠のすべてに辻褄の合う蓋然性(確からしさの度合い)の高い答を復元したのです。経営学や論理学で「仮説検証法」とか「仮説推論法」と呼ばれる手法と同じです。
Q なるほど、明智先生にとって本能寺の変の研究には、そのような想いが込められていたのですね。研究は相当大変だったのではないでしょうか。また、その研究の結果たどり着いた、『完全版 本能寺の変 431年目の真実』のポイントについていくつか教えていただけますか?
本能寺の変については多数の研究本が出版されていたので、捜査を始める前には「今更、素人が調べても新しい証拠は出てこないだろう」と心配でした。ところが、調べ始めると次々に研究本に書かれていなかった証拠が見つかりました。定説に不利な証拠は無視されてきたのでしょう。これで「やれるぞ!」と期待が膨らみました。
①愛宕百韻の改竄
最初にわかったのは、定説となっている光秀の天下取りの野望の証拠とされる愛宕百韻「時は今あめが下知る五月かな」とは異なる句の存在でした。「下知る」ではなく「下なる」と書かれているのです。どちらが本物なのか捜査することにしました。その結果、詠まれた日の天気によって「下知る」のアリバイ崩しができ、「下なる」が本物と確認できました。
②誰の仕業か
次に、誰が何のために「下知る」と書き換えたのかの捜査を展開しました。その結果、羽柴秀吉が書き換えた張本人と見付けました。彼は自分の家臣に書かせた本(『惟任退治記』)で光秀の謀反は「恨み」と「野望」だと書いて宣伝したのです。その結果、これが今でも定説になっているのです。
③軍記物の普及
続いて光秀の前半生の定説が『明智軍記』という軍記物によって作られたものであることがわかりました。本能寺の変や明智光秀についての定説がことごとく軍記物の作り話であることには驚き、そうなった経緯を捜査したところ、
『惟任退治記』⇒『明智軍記』⇒『綿考輯録(細川家記)』⇒高柳光壽著『明智光秀』
であることがわかりました。歴史学界の権威者・高柳氏が作り話に騙されてしまっていることも驚きでしたし、そのことを歴史学者の誰もが指摘していないことにも驚きました。
④動機
そして、いよいよ謀反の動機です。企業で経営企画に携わった経験から、重大な決断は「投資効果」よって決定されることが常識です。投資するものよりも価値の高い効果が得られなければ投資はしません。この常識で考えると、失敗すれば一族滅亡というとても重い投資に見合う効果が「恨みを晴らす」「天下取りの野望を満たす」「他人(朝廷やイエズス会)を救うため」「正義のため(信長の非道を糺す)」「たまたま偶然に思い付きで」ではあり得ません。一族滅亡に見合う効果は何か?と詰めていくと、「謀反を起こさなければ一族が滅亡する」という危機認識がなければ謀反には踏み切らないと気付きました。つまり、一族を救うための謀反だったのです。これは極めて妥当な動機といえます。そのような危機が当時あったのか?と、詰めていくと「唐入り」しかない、という答えに至りました。今まで研究者の誰もが、そのように考えなかったことが不思議でなりません。見たこともない外国へ戦争に行くという異常事態への感受性や想像力の問題でしょうか。
他の研究者は動機論だけで終わりにしていますが、謀反のプロセスも解明しなければ本能寺の変を解明したことにはなりません。犯罪捜査の立件には動機だけでなく犯行プロセスの解明が不可欠なのと同じです。これについても今までの研究者の誰もが取り組んでいません。何から何まで「偶然」で片付けてしまっていて、解明されていないのです。
なぜ、信長、信忠を討てたのか?
なぜ軍略の天才である信長が「わずかな手勢」しか連れずに本能寺に宿泊したのか?
なぜ信長は武田攻めに同行した光秀らに「軍勢少なく連れて行くように」命令したのか?
なぜ信長は光秀の謀反と知ると「是非に及ばず」と言ったのか?
なぜ光秀は本能寺の近くに宿泊していた信忠を同時に襲撃しなかったのか?
なぜ秀吉は大返しできたのか?
など疑問が次々に浮かんできました。これらの全てに妥当な説明が付かねばなりません。この推理は仮説検証の真髄部分です。いろいろな仮説を設定して検証しましたが、いずれも説明が付きません。
何日にもわたって四六時中考え続けたのですが、答が見つかりません。「今日はあきらめた、寝よう」と横になってウトウトしていたら、ふと思い付きました。あまりに突飛な話だったので忘れていたことでした。『光秀の兵が信長の命令で家康を討ちに行くものとばかり思った』と、書いている史料があった。もし、これが本当だったとしたら!?
翌日、目覚めるとただちに仮説検証にとりかかりました。そうすると、どうでしょう、すべての証拠が矛盾なく説明できるではないですか!
でも、何で信長が家康を討つのか? 調べてみると松平家と織田家は父祖の代から敵対して戦っていた。家康の祖父も父も信長の父に暗殺された可能性が高い。「家康と信長は同盟者」という思い込みは戦国時代には通用しない。光秀も信長も自分の死後に残される子の代の生存に責任を負っていたのだ。自分が生きている間に子の生存を保証する手を打たねばならない。平清盛のように自分一代が栄華を極めても、子の代に滅亡したら失敗なのだ。豊臣秀吉は家康を討っておかなかったので、子の代に滅亡した。信長は朝倉・浅井を滅ぼしたのちに、跡継ぎの幼児を探し出して処刑した。成長して源頼朝や義経になるかもしれないからだ。これが戦国の論理だ。戦国武将はそういう厳しい時代に生きていたのだ。
ここまで突き詰めて、初めて戦国時代や戦国武将のことを少し理解できるようになった気がしました。本能寺の変のジグソーパズルの最後のピースまで埋めきると、何人もの武将が織りなした壮大な推理劇が復元されました。それは自分の想像をはるかに超えた世界で、これが歴史に学ぶということだと実感できました。なお、私が収集して証拠採用した史料の記事を「明智光秀全史料年表」としてWEB公開しています。
Q 研究結果を発表した後、反響はいかがでしたか?
2013年に出版した『本能寺の変 431年目の真実』は多くの読者にご支持いただき、歴史書としては異例とされる40万部のヒットとなりました。「ようやく、すべてが腑に落ちた」とか「完璧な推理」という評価もいただきました。また、これを原案としたコミック『信長を殺した男 本能寺の変431年目の真実』(藤堂裕著・秋田書店)は4巻累計で60万部を突破しました。私の「どうしても真実を知りたい」という一途な思いによって、世の中の見方・評価が少し変わってきたのは嬉しいことです。
昨年には、2020年のNHK大河ドラマが明智光秀に決定しました。
研究を開始した当初から、「大河ドラマに光秀を」と願っていたので、嬉しい限りです。少しでも真実に近い光秀像を描いてくれることを願ってやみません。一方で、定説を守りたいという意思の方々からは批判をいただきましたが、どのような批判も私の捜査の論理性を崩すことができないでいます。その苛立ちの表れなのか、あるいは「唐入り」を善行だと歴史を修正したい政治的な意図からなのか、論理的な反論ではなく、奇説とか謀略説といったレッテルを貼って誹謗中傷に終始している人たちがいるのは残念です。
Q 大河ドラマもあり、いよいよ注目が集まりそうですが、今後の活動について教えてください。
明智光秀の子孫と伝承されている家は私のところだけでなく全国に存在しています。その方たち十家族ほどと「明智一族伝承の会」を作って、伝承内容を正確に文字に残し、それを基にルーツを探求する活動を行っています。各家とも家系図はなく、苗字も明智を名乗っていません。隠れ偲んできたから当然のことです。厳しい時代を過ごした四百年間、伝承を守り続けてきたことは素晴らしいことだと思います。
ある家には兜、短刀などの武具も継承されています。いずれも桔梗紋の付いた名品であり、伝承内容も加味すると光秀の嫡男光慶の子孫と思われます。今回カバーに採用したのは、その中の鉄錆地六十二間筋兜です。この兜の前立ての独鈷剣には水平に刀傷が残っており、実戦で使われたものとみられます。前述のとおり、子孫については今年本に書いて出版する予定ですが、伝承の会でまとめた情報、研究成果を発表し続けたいと思っています。
為政者によって意図的に史実が改ざんされ、そのために、四百年以上にわたって明智一族は苦しめられてきましたが、先祖の真実に少しでも近づけたことで、各地に一族を逃し、命をつないできた先祖の思いに報いることができたと喜んでいます。
今後も新たな史料が発見される可能性は十分にあり、私の研究も続行していきます。これまで発表してきた成果を、さらに強固に証明していきたいと思っていますので、これからもご期待ください。
秋田書店×河出書房新社「光秀プロジェクト」特設サイト