単行本 - 文藝

『完全版 韓国・フェミニズム・日本』責任編集・斎藤真理子さんによる「巻頭言」全文公開

 

未来から見られている

斎藤真理子

 雑誌は生きものとよく言われるが、その通りだった。二〇一九年七月に発売された『文藝』秋季号(特集「韓国・フェミニズム・日本」)が異例の増刷となり、とうとう創刊以来八六年ぶりの三刷が決まったとき、私も驚いたが編集部も驚いていた。生きものなのでその勢いを予測することはできないし、方向を制御することもできない。若い編集部の健闘によってでき上がったこの生きものには、さまざまな立場と世代の人たちが集まって放つエネルギーがあふれており、日本の作家と韓国の作家の名前がハングルも交えて表紙に並んだところは、潮目の変化を感じさせた。
 特集名に即していえば、「韓国」に興味がある人、「韓国のフェミニズム」に興味がある人、「韓国」と「フェミニズム」によって照射される日本に関心がある人と、この生きものを迎えてくれた人にもさまざまな傾向があっただろう。一つ思ったのは、今や文芸誌が一部、総合誌の役割を負っているのではないかということだ。おもしろい小説を読みたい人たちとともに、社会と世界について考えたい人たち、自分の考えを一歩進めるきっかけがこのあたりにあるのでは?と鼻をきかせた人たちが、読者になってくれたのではないか。
 当初から、この特集を保存版のようなものにしたいという意欲はあったが、ここに『完全版 韓国・フェミニズム・日本』をお届けすることとなった。雑誌での企画時に実現できなかった案も含めて今回、かなりの増補を行ったので、雑誌が手に入らなかった方にも読んでくださった方にも楽しんでいただけると思う。具体的には、小説ではチョ・ナムジュに加えて新たにパク・ミンジョンとユン・イヒョンのお二人の短編を収録(イ・ランの短編も雑誌掲載時とは違うものを掲載)、エッセイ・論考・対談では小川たまか、姜信子、鴻巣友季子、ハン・トンヒョン、渡辺ペコの各氏に加えて今回、新たに韓国からファン・ジョンウンとチェ・ウニョン、日本から江南亜美子、倉本さおり、豊﨑由美、ひらりさの各氏に書きおろしをお願いした。MOMENT JOON氏からも新しく「僕の小説は韓国文学ですか」を寄稿していただいた(「『82年生まれ、キム・ジヨン』は誰の文学なのか」という問いへの答えをずっと、考えている)。さらに「現代K文学マップ」と「厳選ブックガイド36冊」を追加して韓国文学の全体像を俯瞰できるようにした。また、好評だった「韓国文学一夜漬けキーワード集」も十ページから十六ページに増補した。
 雑誌の企画を進めているときも、今回の単行本化にあたっても、ここに名前の上がっていない韓国の作家・評論家にも原稿をお願いした。その結果スケジュールなどの都合で断られたケースも複数あったが、企画の重要さを認めた上で丁寧なお詫びの手紙をいただくことが多く、友情を感じるやりとりが続いた。実りの多い二〇一九年の夏と秋だった。
 日本での韓国文学紹介の流れを大きく見たとき、紹介されるべき過去の重要な作品が紹介されていない(あるいは、かつて紹介されたが長く入手困難な状態が続いているものが多い)ことがよく指摘される。それは翻訳者たち自身も常に感じていることである。そのことを踏まえ、韓国文学の読者の裾野が広がった現実を受けて、今後、体系的・系統的な作品紹介の実現が模索されていくだろうし、その一端は複数の出版社の企画ですでに始まっている。
 また、近年紹介される韓国文学が、新しい作品、特に女性作家の作品に集中しすぎているのではないかという指摘をいただくこともある。いうまでもないことだが、韓国文学のおもしろさは一つの箱に入ってしまうようなものではありえない。そのことは今後、さらに多様な作品が紹介される中で証明されていくだろう。一方、現在の韓国では女性作家の奮闘が目覚ましく、彼女たちのほとんどがフェミニズムという言葉や概念を自然に標榜していることも事実だ。その成果はこの本にも表れているし、この秋に出版されたいくつかの小説や論集、雑誌の特集などからもはっきり読み取れる。

 私的なことを記すとこの夏は、ある本の出版計画をめぐって印象的なできごとがあった。
『こびとが打ち上げた小さなボール』(チョ・セヒ、拙訳、河出書房新社)という小説がある。韓国で一九七八年の出版以来、百三十万部を売り上げ、今も現役のロングセラーで、経済成長の陰で蹴散らされるようにして消えたある一家の物語をポリフォニックに描いた連作短編集である。今年大きく話題になった『82年生まれ、キム・ジヨン』でいえば、キム・ジヨンの母親オ・ミスクが若かった時代の物語だ。私は一九八一年にこれを初めて読んで強い印象を受け、二〇一六年に、河出書房新社の力を借りて拙訳による全訳を世に出すことができた。
『こびと〜』の作者チョ・セヒは寡作な作家であり、この強烈な代表作を書いたあと、何冊かしか本を出していない。そのうちの一冊『時間旅行』(一九八三年刊)はしばらく前に、信頼する韓国の友人に中古図書を取り寄せてもらって手元にあった。しかしこれはかなり難解な作品で、なかなか読み進められなかった。おそらく、軍事独裁政権の時代にあって、検閲の目をかわすために象徴的な書き方をしたり、あえて飛躍させた箇所が多いのだろうと思われた。だが今年になってこれを読み返してみたときすぐに、「二〇一九年」という数字が目に飛び込んできたのである。
 舞台は今からちょうど四十年前、一九七九年のソウル。主人公はシネという主婦だ。彼女は朝鮮戦争のときには女子高校生であり、同級生と一緒に募金を集める活動をして様々な困難に巻き込まれた経験がある。また、一九六〇年の四・一九学生革命当時には、彼女の夫が命を落としかねない経験をしたということになっている。そんな彼女は一九七九年を迎え、高校生になった自分の娘が、公正でない社会に向かって勝ち目のない戦いを企てているらしいことに気づき、強い恐れを感じている。そして作家は「シネは口で言えないほどの疲労を感じた」と記した後、次のような文章にいきなり飛ぶ。

 この先の話を詳しく書く能力が私にはない。一九九九年か二〇〇九年、遅くとも二〇一九年までには、ここに省略された部分を埋めることができるかもしれない。それまでの間に、また一世代が流れていくだろう(作家)
 何枚か省略(作家)

「遅くとも二〇一九年までには」と書いたとき作家にとって、その年はどれほど彼方にあったのだろうか。四十年経ったその年に今、自分が生きていると気づいたとき、どんなに難解であっても『時間旅行』を日本に翻訳紹介したいと思った。可能なら二〇一九年のうちに。チョ・セヒ氏がずっと体調を崩されていることは知っていたので、これを今年、日本で出してかまわないだろうかと控えめにお尋ねしてみた。強く刊行を願いながらも、断られる可能性が高いのではないかと予想もしていた。あきらめる用意もあった。
 しかし答えは違っていた。今年おそらく七十七歳である作家から返ってきたのは拒絶ではなく、自分はこの作品を書き直したい意志を持っているので、今は待ってくれというものだった。七〇年代〜八〇年代韓国のできごとは、いや、それより以前の朝鮮戦争前後からのできごとは、作家の中で全く終わっていないのだろう。
 一九七九年に未来であった今年、二〇一九年の夏と秋、日韓の外交関係は緊張の中にあり、依然としてヘイトスピーチをする人々はおり、展覧会の一部が中止され、偏見をあおる見出しを用いた週刊誌は批判にあって謝罪し、韓国からは重要な作家が相次いで来日して読者と出会い、私たちは韓国の人々と協力して一冊の雑誌と一冊の本を作った。こうしたすべてのことも、記憶され、振り返られるだろうし、また、そうであるべきだ。今から十年後、二十年後の目が今このときを見ている。私たちはいつも未来から見られている。

■翻訳では小山内園子、すんみ、古川綾子の各氏、「現代K文学マップ」と「厳選ブックガイ ド36冊」ではクオンの金承福、伊藤明恵の各氏、「韓国文学一夜漬けキーワード集」では 伊東順子、すんみ、古川綾子、伊藤明恵の各氏にご協力いただいた。御礼申し上げる。
■また、雑誌特集時に好評だった日韓作家の短編は二〇二〇年春に『日韓小説集(仮)』とし て刊行予定。

(さいとう・まりこ=六〇年生。翻訳家)

 

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■「文藝」2019年秋季号特集「韓国・フェミズム・日本」と単行本『完全版 韓国・フェ ミニズム・日本』について、たくさんの反響をいただきました。以下にその一部を紹介い たします。

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