単行本 - ノンフィクション

身を切るようなむき出しの感動がこの身に突き刺さる 愛と希望――熱き魂のメッセージが伝わる必読の一冊。 『世界でいちばん幸せな男』(内田剛 評)

 

2021年7月26日、エディ・ジェイク著『世界でいちばん幸せな男』(金原瑞人訳)が刊行されました。
本書は、第二次世界大戦下、ナチスによるホロコーストに遭い、アウシュヴィッツ他の強制収容所から生還した、現在101歳になるエディ・ジェイクさんが記したノンフィクション作品です。
想像を絶する絶望と苦しみを経てもなお、なぜエディさんは「私は世界でいちばん幸せな男だ」と語り、その後の美しく幸せな人生を手に入れることができたのか。
内田剛さんからエディさんの魅力あふれる個性と言葉の持つ力、また、そのメッセージの大切さを、手書きのPOPと共にお寄せいただきました。是非ご覧下さい。

 

身を切るようなむき出しの感動がこの身に突き刺さる愛と希望――熱き魂のメッセージが伝わる必読の一冊。

ブックジャーナリスト 内田剛

 

 この本は生きている。そしてなんと「学び」に満ちた一冊なのだろう。闇の中から眩い光を見出し、絶望の中から希望を掬いとる。語り口もとにかく雄弁だ。

 しかし、なぜこれほど心を動かされるのであろうか。

 その理由は紛れもなく圧倒的な説得力があるからだろう。噛みしめるべき数々の名言が湧き上がるが、すべての言葉にうそ偽りが一切ない。ずば抜けて信頼のおける一冊なのだ。

 

「命あるところに、希望はある。そして希望があるところに命がある――」

 第二次世界大戦中の著者のホロコースト体験は筆舌に尽くしがたい。

「100万回生きたねこ」ならぬ「100万回死んだ男」とも呼ぶべき壮絶な死臭が漂う記録でもある。だからこそ、全身を揺さぶるようなこの感動は生やさしいものではない。

 文字通り身を切るように鋭い棘となって魂に突き刺さるのだ。

 

「人の営みのなかで、もっともすばらしいのは愛されることだ」

 著者エディ・ジェイクは1920年4月14日ドイツ生まれのユダヤ人。悪名高きナチス政権下の迫害によって故郷も家族も人間の尊厳も青春時代も奪われた、正真正銘の戦争被害者だ。

 アウシュヴィッツと聞いただけで身の毛もよだつが、二度にわたる強制収容所からの生還という信じがたい悲惨な運命。これ以上ない生き地獄、漆黒の闇をくぐり抜けながらもその生き様は堂々としており光り輝いている。何よりも精神が気高く美しいのだ。

 人間の本質は善であることを、著者は体現しているのかもしれない。

 

「わたしはヒトラーさえも憎まない――」

 地球上で最も憎むべき相手をどうして責めないでいられようか。エディの心の奥底を察するほど胸を激しく掻きむしられる。

 彼の人間らしい本音がうかがえるのはヒトラーの誕生日に結婚したことだろう。

 愛すべき者たちの無念の死。その記憶は決して消え去ることはない。巻き戻すことのできない時計の針。過去の事実から決して目を背けず、毎年訪れる自らの記念日を祝うことによって、いちばんの敵を悔しがらせる。世界一幸せな男になることが最高の復讐なのだ。

 尋常ではない感情の沸騰点に極めて強い意志と勇気が感じられるのだ。

 

「人生は、美しいものにしようと思えば美しいものになる――」

 幸福は与えられるものではない。心の持ちようであり、自分自身でつかみとるものだ。作中には想像を遥かに上回るありとあらゆる逆境が待ち受けており、それらの苦難をことごとく覆す奇跡が繰り広げられる。

 しかし、奇跡もまた起きるものではなく、自分の力で起こすものなのだ。

 例えば自分の仕事について、「能力が満足に発揮できない」、「これからどうなるか不安だ」と頭から決めてかかってはいないか。仕事をどんな色に染めるかは我が気持ちひとつだ。考え方次第で人生は灰色にもなればバラ色にもなる。

 自分の人生はもちろん他人事ではない。自ら切り開かなければならない。常に自分を主語で語る意識が重要なのだ。

 本書では、人間の潜在的な強さと温かさに心を奪われる場面に多く出会うが、同時に生き残ることの厳しさもまた明確に示され、心に染みわたる。

 

「人生で大切なことがひとつある。幸福は分け与えるもの。それだけだ――」

 これはガス室で命を奪われた父の教えだ。

 父の教育があったからエディは手に職をつけることができ、〈経済的有用なユダヤ人〉とみなされ、何度も命を救われた。人が生き延びるために必要なのは友や家族といったかけがえのない人と、助け合う心、工夫を凝らす知恵、そして明日を信じる希望である。

 哲学を持って生きることの素晴らしさと人生の真理を明確に教えてくれるこの一冊は、どんな教科書を読むことよりも価値がある。

 

「やさしさはなににもまさる富だ。」

 描かれているのは決して過去の話だけではない。まさにいま現在と地続きのストーリーだ。戦争がいかに無益なものか。昨日まで優しかった隣人が冷酷に武器を突きつける。人格を歪めるような狂気がどうして芽生えてしまうのか。

 地獄の苦しみと過酷な死に立ち向かうのは憎しみではなく普遍的な愛である。この境地にたどり着くまでにどれほどの尊い血が流れたのだろうか。多くの犠牲を無駄にしてはならない。

 読みながら中学校時代の歴史の最後の授業を思い出した。教科書を閉じた教師は僕らに語りかけはじめた。

「ユダヤ人の虐殺はある日、突然起きた事件ではない。ごく普通の平和な日常生活から、ある日ユダヤ人だけ入れない店ができ、あらゆる制約を受けるようになり、印をつけられて暴力を受けるようになり、所持品を奪われるようになり、いつしか強制収容所に送られて、大勢の人が殺された。
 日常のほんの小さな違和感に気づいていれば取り返しのつかない過ちは起きなかった。歴史を学ぶとはこうした変化を知ることなのだ」と。

 いまのこの国はどうだろう。過去の過ちを繰り返す道をたどってはいないか。もう二度とエディとその家族の悲劇を起こしてはならないと改めて痛感する。

 

 僕らはいま歴史という名の地層の上に立っている。さまざまな悲喜劇を呑み込んだ大地と、天国と地獄の営みを悠久の歳月にわたり見続けている大空の下で生きている。家族とともに平和に暮らせる毎日がどれほど幸福なことなのか。普通に生きていられることの奇跡を僕らはもっと噛みしめなければならない。だからこそ過去を知り、現在を見つめ、未来をつくることが僕らの責務なのだろう。

 歴史を学ぶ意義だけでなく、いま何を知らなければならないか、これからどう行動すればよいのかもすべて『世界でいちばん幸せな男』の中に書かれている。

 エディの尊敬すべきところは、自らの貴重な悲劇体験に口を閉ざしていない点だ。家族で移住したオーストラリアから歴史の生き証人として、使命感を持って全世界にメッセージを発信し続けている。その大いなる勇気に敬服せざるを得ない。

 読み終えて共感の渦に呑まれたと同時に大きなバトンを渡されたような気持ちになった。この熱いマグマの塊のようなメッセージを誰かに伝えたくなるのだ。この一冊は世界へ、そして未来へと確かに繋がっている。

「人は本をつくり、本は人をつくる」という言葉がある。本書はまさに人間をつくる一冊だ。それもただ漫然と生きるのではない。人としていかに生きればいいかを教えてくれる。

 著者の唯一無二の経験は骨格となり、書かれた哲学が血肉となる。まさにライフラインとしての読書を体感できる作品でもある。生きる糧であると同時にこれからの生涯に寄り添う友であり、決して揺らぐことのない座右の書となるだろう。

 この本が読まれるほど人が、社会が、世界が変わる。憎しみではなく優しさと愛でこの世が包まれる。理不尽で不穏な空気に満ちたこの世に絶対的に必要な本。世代を超えて読み継いでいくべきテキストであり羅針盤なのだ。

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