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文芸季評 山本貴光「文態百版」:2017年12月〜2018年2月(その2)

山本貴光による文芸季評「文態百版」2017年12月〜2018年2月(その1)からの続き  

◎初出=「文藝」2018年夏季号

 

5.全体の傾向

というわけで、「群像」「新潮」「すばる」「文學界」「文藝」の五誌について、二〇一八年一月号、二月号、三月号を検討対象とする。このうち「文藝」だけは季刊誌である。つまり対象となる雑誌は四×三+一で一三冊。合計四七二九ページ。数え方によるけれどこの一三冊には都合四五二の文章が掲載されている。ただし「新潮」三月号の「創る人52人の「激動2017」日記リレー」を一と数えている。これを参加している書き手の五二と数えるなら、先ほどの数字は五〇三となる。

 

これもまた大まかな分類を施してみると、これら四五二の文章はおおむね次のように分けられる。

文態百版_統計

あくまでおおまかな目安ではあるが、この三か月の五誌の範囲で見た場合、小説、詩、狂言を創作とすれば、その合計は二八・八パーセントを占めており、そのなかでも小説がほとんどである。エッセイは二四・六パーセント、評論が三六・三パーセントで、最も多いのは評論であることが分かる。この二つを合わせると五九・九パーセントにのぼる。ただしこれは分量を無視した計算である。文字数で見た場合、こうした割合はまた別の数字になるはずであるが、今回は手が回らないので次回以降の課題としたい。

 

ついでながらこうした形式的・計量的な観測については、いまなら計量文体論的な処理によって、使われる語彙や表現の傾向などを見るのも面白いはず。ただし、そのためには文芸誌のデジタルデータが必要である。各誌から協力が得られた暁には試すことにして、いまはこの範囲で満足しよう。

 

もう一つ全体で見ておきたいのは特集である。各誌で組まれた特集には次のようなものがある。

①「ナボコフ─ロシアから未来へ」(「新潮」一月号)
②「創る人52人の「激動2017」日記リレー」(「新潮」三月号)
③「対話からはじまる」(「すばる」一月号)
④「生誕120年 再発見・井伏鱒二」(「すばる」三月号)
⑤「映画の新しい波」(「文學界」一月号)
⑥「文学の新しいページ」(「文學界」二月号)
⑦「岡崎京子は不滅である」(「文學界」三月号)
⑧「いま海外文学から見えるもの」(「文藝」春号)

 

このうち①④⑥⑧が文芸に関する特集で、②⑤⑦は文芸以外の特集である。③は文芸と非文芸が混在する。①と④は文芸作家に関するもの。ナボコフ(一八九九‒一九七七)は二〇一七年が没後四〇年。新潮社から「ナボコフ・コレクション」(全五巻)の刊行が始まったところで、同特集ではその一部が掲載されている。井伏鱒二(一八九八‒一九九三)は生誕一二〇年のメモリアルイヤーでの特集。

 

そのつもりでクロニクルを眺め直すと、ボーヴォワール、斎藤緑雨、ユイスマンス、尾崎士郎、ブレヒトなども今年は生誕・没後の切りのよい数字である。こうした周年企画は、当該作家や作品を人びとに思い出させ、あるいは新たな読者との遭遇のきっかけを生むチャンスでもある。よく知られた作家はもちろんのことだが、日頃あまり光が当たらない作家に目を向けたいところ。

 

これに関連して言えば、全集や選集の刊行もまた、作家や作品を後世へ伝える重要な手段である。しばらく前に、もう全集の類は出なくなるのではないかと言われたこともあったが、そうした試みはいまのところ潰えていない。近年完結したものを含め、日本語で全集・集成類が刊行中の作家をリストにすればこの表の通り。『アルノ・シュミット・コレクション』(全6巻、水声社) │ │『アンドレ・ジッド集成』(全5巻、筑摩書房) │ │『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』(全30巻、河出書房新社) │ │『ウィリアム・トレヴァー・コレクション』(全5巻、国書刊行会) │ │『賀川豊彦著作選集』(全5巻、アジア・ユーラシア総合研究所) │ │『完本 丸山健二全集』(全100巻、柏艪舎) │ │『北川透 現代詩論集成』(全8巻、思潮社) │ │『金時鐘コレクション』(全12巻、藤原書店) │ │『後藤明生コレクション』(全5巻、国書刊行会)完結 │ │『小林信彦コレクション』(フリースタイル) │ │『小松左京全集完全版』(全50巻、城西大学出版会) │ │『J・G・バラード短編全集』(全5巻、東京創元社)完結 │ │『ジュール・ヴェルヌ〈驚異の旅〉コレクション』(全5巻、インスクリプト) │ │『白石かずこ詩集成』(全3巻、書肆山田) │ │『新編 日本幻想文学集成』(全9巻、国書刊行会)完結 │ │『新訳ベケット戯曲全集』(全4巻、白水社) │ │『シェイクスピア全集』(ちくま文庫) │ │『スタニスワフ・レム・コレクション』(全6巻、国書刊行会)完結 │ │『セルバンテス全集』(全7巻、水声社) │ │『谷崎潤一郎全集』(全26巻、中央公論新社)完結 │ │『塚本邦雄全歌集』(全8巻、短歌研究社) │ │『辻章著作集』(全6巻、作品社) │ │『津島佑子コレクション』(第1期全5巻、人文書院) │ │『トウェイン完訳コレクション』(角川文庫) │ │『筒井康隆コレクション』(全7巻、出版芸術社)完結 │ │『定本 漱石全集』(全28巻+別巻1、岩波書店) │ │『定本 夢野久作全集』(全8巻、国書刊行会) │ │『中上健次集』(全10巻、インスクリプト) │ │『ナボコフ・コレクション』(全5巻、新潮社) │ │『パスカル・キニャール・コレクション』(全15巻、水声社) │ │『フラバル・コレクション』(松籟社) │ │『ヘンリー・ミラー・コレクション』(第2期全6巻、水声社) │ │『ボラーニョ・コレクション』(全8巻、白水社)完結 │ │『皆川博子コレクション』(出版芸術社) │ │『宮沢賢治コレクション』(全10巻、筑摩書房) │ │『吉増剛造全詩集』(全5巻、思潮社) │ │『吉本隆明全集』(全38巻+別巻1、晶文社) │こうした過去の作家や作品もまた、二〇一八年の文芸をめぐる環境の一部である。文芸誌に発表されたり本として刊行されたりする同時代の新しい作品は、常にこうした過去の作品と並ぶことになる。あるいは一冊の文芸誌のなかで現代の作家たちは、ナボコフや井伏鱒二と並ぶわけである。

 

特集に目を戻せば、「文學界」の⑤⑦は映画と漫画をテーマとしたものだ。いずれも多くの場合、言葉を併用する表現形式であり、そういう意味では文芸の一部と考えることもできる。ただし、文芸を狭く言葉だけでつくられているものに限る場合には絵や動画を含むため除外されることになる。

 

②の日記特集は、二〇一七年の三六五日を五二人の執筆者による公開を前提とした日記でつないだもの。日頃の作品や言論活動からは見えない生活の様子を垣間見ることができる。それぞれの日に世界ではどのような出来事が起きていたかを添えてもらえたら、さらに面白い試みになったと思われる。同企画には登場していないが、『本の雑誌』では西村賢太「一私小説書きの日乗」と「坪内祐三の読書日記」を連載している。

 

6.作品

次に作品を見てゆくことにしよう。小説と詩、狂言、ノンフィクションで合わせて一三四作品が掲載されている。そのうち連載作品は六四だから約半数(ここでは連作も連載とカウント)。この三か月で新規連載として始まったものはそのうち一九作品である。その他六八は読み切り。そのうち一三は翻訳である。四か月以上前から連載している作品を除いてリストにすれば、二五九ページからの表のように八五作品である。こうした数字自体には大きな意味はない。ただ、この三か月のあいだ五誌でこれだけの小説が発表されたという目安である。今回は、これらの作品に目を通した上で本稿を書いている。

 

全体的になにが書かれているかといえば、ほとんどは人事、人間とその言動である。それぞれの作品では、登場する人間も違えば置かれた状況もさまざまに違っている。いまさらながら、文芸作品を読むということは、なんらかの状況に置かれた他人の言動を覗き見るようなものなのだと合点する。

 

一篇ずつ検討することはできないが、翻訳ものと円城塔「源氏小町」青木淳悟「水戸黄門は見た」椎名誠「母の大作戦」などを除けば、多くは現代の日本と思われる場所を舞台とする。また、人間のなかでも家族や友人を描いたものが多い。と書いてみて気づく。それは私たちの日常でもあるのだろう。せめて全作品について、設定された時代や場所、人物の男女比や年齢層、どのような動作が書かれているかといった傾向を割り出せば面白いのだが、これも今回は手が回らず省略せざるを得ない。

 

一通り目を通した後で、記憶に残るものをいくつか取り上げてみよう。一三四作品ともなると、どういう順序で読んだかによって、思い出しやすさが変わってしまうのは致し方ない。とはいえ、作品リストを眺めてみると、はじめのほうに読んだが思い出せるものと、比較的後で読んだにもかかわらず内容を思い出せないものもある。これは作品とそれを読む私という読者の組み合わせによる。別の機会に別の順序で一三四作品を読んだら、また別の印象になるだろう。こうした次第については連載を続けるなかで検討してみたい。

 

さて、比較的身近な生活に近い状況を描いた作品の代表として二つを取り上げたい。一つは本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」(「群像」三月号)。タイトルは「本当の旅」「奥さん、犬は大丈夫だよね?」「でぶのハッピーバースデー」という三つの短篇の総称である。いずれも現代のネットとスマートフォンという通信環境が当たり前のものとなっている人びとが登場する。

 

わけてもその冒頭に置かれた「本当の旅」は、いわゆる「意識の高い」人びとのありようを、読んでいてイヤになるくらい巧みに捉えている。友人である四〇前後の男性二人と女性一人の三人が思い立ってマレーシアに旅する。彼らは絶えずスマートフォンを使い、LINEでやりとりをしながら、互いの言動をリスペクトし、感謝しあい、「いいね」と肯定しあう。そのくせ価値観を共有しない他人に対する寛容さもなければ共感もなく、働かず親元にいる自分を棚に上げて「お金がある人達はさ、自分がものすごく損してるってことに気づけないんだよね」「可哀想だよね」と万事自分に都合のよい解釈をして蔑む始末。底抜けの自己肯定感に浸る彼らを作家はどうするつもりか、どうしてくれるのかと思って見ていると、たまさか乗ったタクシーでどんどん見知らぬ場所へ運ばれて、おお。小説が読者にもたらす最たる効果は、読み手の意識状態を変化させること、わけても感情を変化させることだ。私の場合、彼らの根拠なき万能感にいちいち苛立ちを感じ、すっかり作家の手玉に取られたのであったが、人によっては彼らに共感するかもしれない。さて、あなたはどうだろう。

 

私たち自身と変わらないように思える人間のありようを描いた小説としてもう一つ、ニュージーランドの作家ジャネット・フレイム(一九二四‒二〇〇四)の二つの短篇「風呂おけ」「解決策」(山崎暁子訳、「すばる」三月号)に注目しておこう。いずれも我がことながら身体のままならない様子を描いて一読忘れがたい。前者は、老女が自宅で風呂に入る過程が丹念に描写される。なにしろ肩や背中が痛みもするから、服を脱いで風呂桶に入るだけでも一苦労。なかなか言うことをきかない自分の体をなだめすかして入浴し、ひとときの心地よさを味わった後には、風呂桶を出るという難問が待ち構えている。私はまだそこまで行っていないものの、身体の不如意を異化してみせる文章を目で追いながら、自分がそういう状況になったらと脳裏で想像が働く。

 

小谷野敦「とちおとめのババロア」(「文學界」三月号)は大学でフランス文学を専門とする准教授・福鎌純次がネットのマッチングサイトを通じて出会った女性とつきあう話で、ここまでなら現代の風俗を捉えた作品といえば済む。しかし相手の女性が「皇室の一員で、日本国籍はなく、皇統譜に記載されているのみ」という人物であることから、一筋縄ではゆかなくなるのが読みどころ。人でありながら人権のない彼女は、妖怪人間よろしく「早く人間になりたい」と言う。皇室というテーマを、ワイドショーとも論壇とも別の形でシミュレーションしてみせた文芸の面目躍如たる工夫である。

 

少し視点を変えて、文芸誌の物質としての側面にも目を向けておきたい。「群像」に連載中の「歳時創作シリーズ 季・憶 Ki-Oku」は、二つの点で面白い工夫が凝らされている。第一に季節の要素。文芸誌に掲載される作品の多くは、掲載される月や季節と大きく関係したりはしない。このシリーズは掲載号の月にあわせて「立春東風解凍(とうふうこおりをとく)」「雨水土脉潤起(どみやくうるおいおこる)」「啓蟄桃始笑(ももはじめてわらう)」などのテーマが設定され、それぞれについて担当する作家が短篇を書いている。

 

第二に印刷に使われる紙とレイアウトが特別に仕立てられている。文芸誌では、二段組みが多いところ、このシリーズは一段組みで下方には余白も広めにとってある。また、見開きを使って大胆にデザインされたシリーズタイトルと目次のページは、目にも指にも強い印象を残す。同じ文章であっても、紙やデザインによって読み心地や記憶に残る度合いも大きく変わる。実際、巻頭に置かれたこの数ページをたいへん心地よくゆったりと読んだ。これは私が知る文芸誌では、「MONKEY」や中国の「字母」、あるいは「PARIS REVIEW」「GRANTA」「THE HAPPY READER」といったデザインの洗練された雑誌を読むのにも似た楽しみを提供している。各誌とも物質的な読み心地への工夫をさらに推し進めるよう希望したい。というのも、それこそが紙で雑誌をこしらえる利点でもあり、読者の記憶に印象を刻む手立てでもあるからだ。

 

再び作品そのものに戻ろう。私たちの日常と重なるような人事とは別に、歴史や長いスケールの時間を導入した作品が目立った。

 

青木淳悟『水戸黄門は見た』(「群像」二月号)は、テレビ時代劇として一九六九年に放送開始以後、二〇一一年の第四三部で終了した「水戸黄門」と、徳川光圀や江戸の歴史にかんする議論とを虚々実々混ぜ合わせ、論文なのか随想なのか小説なのかなんなのか、いったい自分が何を読みつつあるのか分からないまま、語りの調子に乗せられてとうとう仕舞いまで読まされてしまうものだった。読者の「水戸黄門」に対する記憶次第でイメージは大きく左右されると思われる。

 

古川日出男『 おおきな森』(「群像」一月号から新連載)は、「木」を六つも組み合わせたタイトルからすでに謎めく。森という字を長いこと放っておいたら、いつの間にか三本の木が生えて大きな森になった。ということはさらに置いておけば五本の木が……などと空想が働くのは、「新潮」三月号で完結した円城塔の連作「文字渦」を読んだせいかもしれない。その『おおきな森』は、どこかへ向かって走る列車でたまさか居合わせた丸(マル)消須(ケ ス)ガルシャ、振男(フリオ)・猿(サル)=コルタ、防留減須(ボ ル ヘ ス)ホルヘーと、ラテンアメリカっぽくもあり、『古事記』に出てきそうでもあるような名前の人物たちの出来事が語られるパートと、坂口安吾のパートとが錯綜する大仕掛け。短く歯切れのよい文の連なりは、詩のごとく音にも配慮した設計で音読したくなる。

 

改行一つで三〇〇万年でも三〇〇年でもジャンプして、それらの状況を同じページの上でつなぎあわせてしまえるのもまた文芸の十八番である。宮内勝典「二千億の果実」(「文藝」春号から新連載)は、文章のもつそうした機能を駆使して、有限の文字で三〇〇万年の幅をもった時間を出現させている(この点では『最後にして最初の人類』で二〇億年を書いたオラフ・ステープルドンを思い出さずにはいられない)。エチオピアで発見されたアウストラロピテクスのルーシー本人が現れたかと思ったら、ひょんなことで死んでしまい、三〇〇年後に考古学者に発見されるまで骨となって語り続ける。そうかと思えば戦時中の旧植民地から引き揚げた女性とその子供の物語、あるいはアインシュタインを思わせるAとその死後に保存された脳をめぐる物語がこれに続く。ローリング・ストーンズがブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』に想を得てつくった「悪魔を憐れむ歌」(一九六八)で、イエスの磔(はりつけ)からケネディ暗殺まで二千年の出来事を眺めてきたという悪魔のような位置に読者は置かれる。

 

同じ「文藝」に掲載の木下古栗「サピエンス前戯」は、世界的ベストセラーとなったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を茶化したようなタイトルだが、読めばただの遊びではないことが分かる。人類を含む生物はセックスによって繁殖するわけだが、セックスを成立させる前提として前戯があるという見立て。全史も前戯なしにはありえなかったかどうかはさておき、時は二〇四七年。語り手が勤める企業は、男性に代わって女性器を愛撫する装置の製造メーカー。この装置「ペロリーノ」は人工知能を搭載した優れもの。だが機械学習を進めていく中で人工知能が命令に対して反応しなくなる。

 

これを荒唐無稽な絵空事と思う向きは、例えば「アダルトグッズ ハッキング」でネットを検索されたい。関連ニュースやセキュリティソフトメーカーのサイトに掲載された解説などが見つかるはずだ。IoT(Internet of Things=モノのインターネット=従来のコンピュータ以外の各種道具などもネットに接続して遠隔操作できるようにするという発想)が促進されるなかで、自動運転自動車やドローンはもちろんのこと、ネットにつながるヴァイブレーターもハッキングされる可能性はある。また、第三次ブームを迎えている人工知能は、その仕組みからしてブラックボックス化しつつある。学習を重ねたAIの挙動は、制作者でさえすべて理解できるとは限らないものだ。いうことをきかなくなったペロリーノに必要なのは、人間でいうところの精神分析だろう。という具合に、ここには現在進行形で生じつつある現実が畳み込まれている。作中に登場する脳科学者の茂木山健多郎による意識論も読みどころ。

 

以上の四作は、私たちを異界へ連れ去るものだが、その点で、国分拓によるノンフィクション、『ノモレ』(「新潮」一・二月)にも注目されたい。二〇一六年にNHKで放送された「大アマゾン 最後のイゾラド 森の果て 未知の人々」で、アマゾンの奥地で外部と接触せずに暮らしてきた先住民の姿をご覧になった向きもあるだろう。その番組のディレクターを務めた著者が、今度は文章でそのことを書いたのが『ノモレ』である。内容が興味の尽きないものであるのはもちろんのことだが、とりわけその文体、書き方が面白い。そこには書き手の姿はなく、登場する人物の目に映るものや内心が記述される。これはノンフィクションであるという文脈を知らないまま読んだら、小説だと感じる読者もいるだろう。

 

評論では山城むつみ「カイセイエ─向井豊昭と鳩沢佐美夫」(「すばる」三月号)をここに並べておきたい。アイヌについて誰がどのように語ることができるのか。向井豊昭と鳩沢佐美夫の議論を手がかりとして、それぞれが立つ場から見えるものが構造的に食い違う様をあぶりだしている。これに関しては『向井豊昭の闘争』の著作もある岡和田晃との対談「歴史の声に動かされ、テクストを掘り下げる」(ウェブサイト「シミルボン」連載)も合わせて読んでおきたい。

 

小説や詩は、いまここにいる自分ではない、どこかよその誰かの立場にかたとき想像のうえで身を置いてみることができる装置でもある。こうした立場の入れ替えやロールプレイをさまざまに試してみることは、少し大袈裟に言えば人生のシミュレーションのようなものだ。もし自分がこの人の立場に置かれたらどうするだろう。この人はどうするだろう、と。

 

今回は文芸五誌を中心に眺めてみた。次回から、少しずつ観察する範囲を広げるつもりである。また、文芸的事象クロニクルの誌面に掲載しきれない分や、雑誌に限らない文芸関連書についての各種データについては、別途公開共有する方法を検討している。

 

いずれにしても、この「文態百版」では文芸の状況をそのつどマッピングして、読者諸賢が作品の存在を知ったり、読んだりするための手がかりを提供したいと念じている。まだまだベータ版のようなものだが、随時試行錯誤しながらヴァージョンアップを重ねていくので、これに懲りずおつきあいいただければ幸いである。ではまた次回、お目にかかりましょう。

文態百版_掲載作品リスト1 文態百版_掲載作品リスト2 文態百版_掲載作品リスト3本連載が掲載されている「文藝」。次号は7月6日発売です。

 

 

 

 

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著者

山本貴光

文筆家・ゲーム作家。1971年生まれ。コーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事後、2004年よりフリーランス。
著書に『文学問題(F+f)+』『「百学連環」を読む』『文体の科学』『世界が変わるプログラム入門』、共著に『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満との共著)、訳書に、サレン/ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』、メアリー・セットガスト『先史学者プラトン』(吉川浩満との共訳)など。

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