ためし読み - 文藝
「作家は真実の言葉で嘘をつく」──小説家・金原ひとみが「私小説」をアップデートするまで
金原ひとみ
2022.09.07
「文藝」2022年秋季号の特集「私小説」で責任編集をつとめた金原ひとみさんによる、本特集の「プロローグ」を公開いたします。「プロローグ」でありながら私小説的楽しみに満ちた文章をぜひお楽しみください。
「責任編集をやっていただけないでしょうか?」
予想外の言葉に、顔全体の筋肉に力が入る。編集長の坂上さんとは今日が初対面なのに、こんなことを初対面の人に頼んでいいものなのだろうかと予想外すぎたせいで奇妙な困惑に囚われる。
「責任編集ですか」
言いながら、文芸誌の責任編集はこれまでどんなものがあっただろうと記憶を辿るものの、何一つ思い浮かばなかった。
「責任編集、ですか……」
「まずは特集テーマを決めてもらい、小説やエッセイの執筆陣の選定、批評や翻訳や対談なども視野に入れながら、布陣を整えていくことになります」
担当の竹花さんがポーカーフェイスで言いながら、ちょうど店員が持ってきたビールを渡してくれる。彼には編集者の中でも突出した落ち着きと品があって、彼を前にすると文学貴族という蔑称とも敬称とも判断し難い言葉が浮かんでくる。
「私たちが手となり足となり、金原さんがこんなものを読みたい! と思う特集を実現させます」
対して、ついさっき初めましての挨拶を交わした坂上さんは、表情豊かでよく喋る、直感型の編集者に見える。そういうのって、もっと作家友達が多かったり、コミュニケーション能力が高かったり、意欲的だったりする人に依頼するべきなんじゃないだろうか。責任編集の責任という言葉だけでもう怯んでいたし、依頼文や手紙を悩みながら書いては推敲し消しては書きをしている自分が頭に浮かび、マフラーから排気ガスを直接吸ったように胸が苦しくなった。断るしかない。心がそう決まりかけた瞬間、「でも、自分の好きな作家に好きなテーマで依頼する機会なんて、この先一生ないかもしれない」とも思う。でも責任は重大だし、途中で責任の重さに耐えられなくなって投げ出しでもしたらもう二度と「文藝」とは仕事ができなくなる。やらなければ少なくとも失敗はしない。の精神で、私は小説を書く以外のことは何もやらないまま、これまで生きてきたのだ。
「「文藝」をジャックして欲しいんです」
坂上さんの決め台詞に苦しくなる。自分はこの世で最もジャックからかけ離れた人間にしか思えない。
「一度、持ち帰らせてもらっていいでしょうか。受けるかどうか、いつまでに決めればいいでしょう」
二週間以内くらいですねと、坂上さんのノリに乗れないでいる私の様子に気づいているのか、竹花さんは過剰な平静さを保って言う。白レバーは絶対食べたいですとメニューを見て声を上げた白レバーがやって来ても、どこか心ここに在らずのまま、私は依頼するとしたら誰に、何を依頼しようと考えていた。考えている途中ででもやっぱり責任が嫌だなと思い、でも受けてもらえるかは別にして、あの人やあの人にも依頼ができるんだよなと思い直し、気持ちがピンボールのように、縦横無尽に飛び回り続けた。
会食を終え竹花さんにタクシーで送ってもらいながら、私はまだ宙ぶらりんで、この感じは妊娠した時に似ているなと思う。あの、堕ろすか産むかの二択に直面した時の、どちらを選んでも後悔しそうで、でも早急にどちらかの道を選ばなければならなくて、誰が何を言おうと決定権は自分にある、という、冷や汗をかくような焦りと共に悲劇的な考えと楽観的な考えがぐるぐると入り乱れるあの感じだ。もう、射精はされ受精も着床もしてしまい、あとは堕ろすか産むかの二択。妊娠出産になぞらえている自分が唐突に気持ち悪くなって、気を紛らわすためにコロナが終わったらどこに行きたいですかと、最近振ると誰しもが喜び勇んで喋り出す魔法の質問をしたけれど、竹花さんは「ヨーロッパですかね」とぼんやりしたことしか言ってくれなかった。
***
「本当にありがとうございます。お引き受けいただけて本当に良かったです!」
私が席についた途端、坂上さんはハキハキ言う。緊張のあまり化粧をしながらストロングを一本飲み干し、歩きでは間に合いそうになく自転車を飛ばしたけれど結局十分ほど遅刻していた。席には「文藝」の編集者が四人、皆が手帳を広げていて緊張がさらに高まる。
「早速なんですが、来月中には小説の依頼をしたいと考えています。今日は特集テーマについてと、ざっくりと誰に依頼するか案を出せればと思っていて……」
「テーマなんですけど、私小説はどうかと思っています」
大仏のように小さく手を上げ、緊張のせいでクラクラしながら言い切ると、驚いたような、嬉しそうな、意外そうな、皆がそれぞれちょっとずつ感情を表に出す。
「私小説ですか! 実はちょうど昨日、部内で私小説について話していたところだったんです。どこからどこまでが私小説なのか、定義が難しいという話を」
坂上さんの言葉に頷きながら私も手帳を開き、やってきたスパークリングを半分ほど飲む。
「難しいですよね、現実に起こったことをどれだけ忠実に書こうと思っても、文章は書いた端からフィクションになってしまう。書くことを取捨選択して、言葉を選んで、という段階ですでに現実そのものからはかけ離れたものになってしまうし、人が書く以上多かれ少なかれ脚色、改ざん、物語化は避けられない。それでいて、実在するモデルには慎重な配慮も必要です。でも逆に、ミステリーとかファンタジーとか、フィクション性の高いとされる小説が完全にフィクションなのかと言うと、それはそれで著者自身が脳内で作り上げたものを描写しているわけだから、著者自身の要素はしっかり詰まっているとも言える。著者は著者自身をそのまま書くことはできないし、著者はどんなに自分自身を隠そうとしても隠しきれない。つまり、著者そのものと、著者の喪失との間に、全ての文章は存在していると言えます」
話しながら着地点が分からなくなってきた。真剣に私小説について話す自分が、急激にとてもおかしい人間に感じられて不安になっていく。
「かつての私小説は無頼とか、スキャンダラスなイメージが強かったと思うんですけど、そういうイメージを一新したいという思いもあります。デビューから割とすぐの頃、私『オートフィクション』っていう小説を書いたんです。オートフィクションは日本だと自伝的小説、と訳されることが多いんですけど、これはギリシャ語の“αυτο”に由来する「自分自身」を意味する接頭辞“auto”と“fiction”で構成されている言葉で、フランスで名付けられた小説のジャンル名です。『自分自身の虚構』って、矛盾してるなって思うじゃないですか、でも、さっきも言いましたけど自分が自分について語るとき、それは虚構でしかありえないんですよね」
不安から目を逸らすため手元の手帳を見ながら言い切る。ここ数日オートフィクションや私小説で大量に検索して気になる部分をコピペしたり、自分でキャッチコピーや理想を箇条書きにして書いたものをプリントして手帳に挟んでいたのだ。
「Wikipediaのオートフィクションの項目には、このジャンル名を命名したセルジュ・ドゥブロフスキーの言葉として、『厳密な意味での事実をもとにしたフィクションである。それは〝オートフィクション〟とでも呼べるようなものであり、節度や新旧の小説の作法の埒外において、ある冒険について語る言語を、言語の自由な冒険というものに委ねたものである』とあります。この厳密な意味での事実、というのは実際にあったことかどうか、という意味ではないはずで、この厳密な意味での事実、をあらゆる作家に探求してもらって、言語の冒険をしてもらいたいんです」
その言葉格好いいですねと竹花さんに言われ、思わず手帳に挟んでいたプリントを差し出すけれど、手渡した瞬間「作家は真実の言葉で嘘をつく」というキャッチコピーが上の方に赤字でプリントされているのを見て、厨二っぽい言葉を書いてしまったことを恥じ入る。恥じ入っている間にプリントは次から次へと人の手を渡っていき、私はハラハラしながらスパークリングを飲み干し、二杯目を注文した。
「いいじゃないですか私小説のアップデート。金原ひとみ責任編集、私小説」
坂上さんの言葉に、ホッとして力が抜けていく。「文藝」にしては地味だろうか、もっとキャッチーな方が喜ばれるだろうか、ともうずっと悩んでいたのだ。
私が作家の名前を数人あげると、それに呼応して皆が次々と名前を挙げ、こういうジャンルの人にも頼みたいとか、そういえば誰々がどこどこでこんな原稿を書いていたとか、エッセイも私小説として書いてもらってもいいかもしれないとか一瞬にしてあらゆる案が出てきて、大体担当編集者と一対一でしか仕事をしない私は面食らう。皆色々なことを知っている。私の何倍も知っている。私なんかに責任編集を依頼しなくても、充分に面白いものを作れるのに、何で私に依頼したんだろう。私が頼めば作家が断りづらいからだろうか。まあそれでもいいし、人生に一度あるかないかなのだから、恥も外聞もなく自分の好きな人たちに拝み倒して書いてもらおう。あの人は、そしてあの人は、受けてくれるだろうか、断るだろうか。考えながらもう何十年もやっていない、花びらを一枚ずつ毟り取る行為をふと思い出した。
お疲れ様でした私は自転車なのでと言い、金原さん自転車なんて乗るんですかと皆に怪訝な顔をされながら手を振って踵を返すと、自転車を探した。自転車が隙間なく置かれた道でようやく自分の自転車を探し出すと、撤去するぞ的なことが書かれた紙がハンドルに括り付けられていた。まるで意思を持っているかのような硬さのそれを剥がすとカゴに入れ、自転車にまたがる。十二月だけれど、気持ちのいい天気だった。来月小説の依頼だとしたら、少しずつ依頼文を考えておいた方が良いかもしれない。そう思いながらペダルを漕いでいる途中、看板に目を取られブレーキをかける。しばらく自転車にまたがったままメニューを凝視し、脇の路地に入ったところに自転車を停めるとラーメン屋に入った。辛味噌ラーメンの食券を店員に渡すと、席についてすぐ食べログを調べる。三・四八だった。適当に入ってこの点数はラッキーだなとほくほくしながら口コミを見ると、皆塩ラーメンを食べていた。
アクリル板で両側を塞がれたカウンターは手持ち無沙汰で、バッグの中に入れていた『パムクの文学講義』を手に取る。「著者と主人公を混同されること」についての章があったため、使うかもしれないと持ってきていたのをすっかり忘れていた。その章に貼られた付箋を辿っていくと、ボールペンでふらつく傍線が引かれたある文章に突き当たる。
「小説家の作品のすべては星座のようなもので、小説家はそのなかで人生にかんする何万もの細かい観察を、言いかえれば個人の感覚に基づいた実体験を差し出しています……作家が実体験から直接こつこつと集めた情報─私たちが小説的細部と呼ぶもの─は想像と分かちがたく溶けあいます」
作品が星座となり、その中にいくつもの著者自身の感覚的体験と想像とが混ざり合い蠢いている様子を思うと、全身がざわついた。全てをさらけ出すのではなく、暗闇の中にポイントを置く。浮かびあがったものを見て、読者は「これは熊だ」とか「天秤だ」と一人心の中で納得する。その関係の奥ゆかしさ、一方通行さ、不確かさに、私はずっと心を奪われている。そんな関係を、私はこの世の誰とも築けないだろう。
次来たら塩ラーメンを頼もうと思いながらごちそうさまでしたと席を立つ。明日はクリスマスで、来週には年が明ける。外の気温はさっきよりも少し下がっていて、ラーメンで温まった息は白く、自転車にはまた撤去するぞと書かれた紙が貼り付けられていた。私はそれを再び、勢いよく剥がすとカゴに放り込み、ペダルを踏み込んだ。
◎金原ひとみ責任編集 特集 私小説 の「文藝」2022年秋季号は雑誌、もしくは電子書籍でお読みいただけます。◎金原ひとみ責任編集 特集 私小説
プロローグ 金原ひとみ
【短篇】
村上龍「ユーチューブ」
尾崎世界観「電気の川」
西加奈子「Crazy in Love」
島田雅彦「私小説、死小説」
町屋良平「私の推敲」
しいきともみ「鉛筆」
金原ひとみ「ウィーウァームス」
【ブックガイド】
金原ひとみ編集長・選 私小説的小説10
【エッセイ】
温又柔「「私」の小説」
MOMENT JOON「ラッパーが〈私〉を生きるということ」
高井ゆと里「舌は真ん中から裂ける」
【論考】
千葉雅也「「私小説」論、あるいは、私の小説論」
水上文「輪郭を描く 新・私小説論序説」
【特別企画 4月26日、金原ひとみとピクニックに行く】
植本一子「写真を撮るか 撮らないか」
滝口悠生「ポニー公園」
王谷晶「大丈夫なひとが森へ行く」
高瀬隼子「あの日わたしがしなかったことの話」
エリイ「クラウン・シャイネス」
児玉雨子「帰宅混乱者」