芸能界を震撼させたベストセラー『枕女優』から6年 その身体のすべてを捧げ、「夢」を目指したもう一人の女性の物語、開幕

枕女王

「枕女王」樹里亜 2

「枕女王」樹里亜 2

渋谷センター街の雑居ビルの五階――「梶田」の表札のかかったドアの前で樹里亜は大きく息を吐き出した。
梶田は、「ギャルセレブ」の店長の名前だ。
ここへきたいわけではなかった……というより、どちらかといえば嫌いな場所だった。
だが、ほかに行くあてもなかったので、暇潰しのために結局ここにきてしまうのだ。
「おつー」
樹里亜がドアを開けると、ソファに座っていた四人のギャルふうの少女の視線が集まった。
「きたんだー」
「ジュリおっつー」
「くるならスタバでフラペチーノ買ってきてもらえばよかった」
「あれカロリー高くね?」
スマホをイジっているミルクティーカラーの巻き髪少女は十九歳の絵夢、ファッション誌を開いている金髪セミロングの少女は十八歳の花恋、マニキュアを塗っている金髪ツインテールの少女は十八歳の七海、スマホでなにかを読んでいる黒髪ストレートの少女は十九歳の沙耶――四人とも、樹里亜がバイトを始めたときには既に働いていた。
四人が、いつも顔を揃えているわけではない。
週に一回しか顔を出さない者もいれば、毎日顔を出す者もいる。
この待機部屋は午後五時から開いているので、受付締め切りの午前一時までならいつ入ってもいいことになっている。
樹里亜を含めた五人は偏差値70コースに属していた。
「ギャルセレブ」はビジュアルやスタイルごとに金額が違った。
九十分コースの基本料金は、偏差値70コースが五万円、偏差値50コースが三万五千円、偏差値30コースが二万円となっている。
入会金は三千円、指名料は二千円、交通費は渋谷区のホテルは無料、新宿、豊島区、目黒区、港区、品川区が二千円、世田谷区、中央区、千代田区、江東区、杉並区、文京区、中野区、墨田区、板橋区が三千円、葛飾区、江戸川区、足立区、北区、大田区、練馬区が四千円となっていた。
偏差値70コースのデリヘル嬢を九十分コースで渋谷のホテルに呼んだ場合にかかる金額は、初回は五万三千円プラスホテル代だ。
デリヘルの相場としては安くはないのかもしれないが、「ギャルセレブ」は店名通りに女の子の質が高いので繁盛していた。
在籍の女の子がすべて十代というのも、店の付加価値となっていた。
本番行為は禁止となっているが、あくまでも建前だ。
店側は、女の子達が客から別料金をもらってセックスしているのを黙認していた。
コース料金は店との折半だが、本番行為の際にもらうチップは百パーセント懐に入るのでほとんどの女の子が客との一線を超えていた。
「ねえ、私さ、昨日、高梨ってデブの指名入ったんだけどさ、沙耶のことも指名したことあるって言ってたよ」
絵夢が、スマホをイジりながら沙耶に話しかけた。
「マジ!? 絵夢に指名入れたんだ。あいつ、超キモくない? シャワー浴びてもさ、すぐ汗でべトべトになるじゃん?」
沙耶も、スマホから眼を離さず言った。
「そうそうそう! 寒いくらいにクーラーかけてんのにちょっと動いただけでびしょびしょになってさ、しかもメタボってるから喘息みたいにゼーゼー言って、腹の上で死ぬんじゃね?って気になってさ」
絵夢が顔を顰めた。
「腹上死ウケる! あのデブのちんこ、臭くなかった!? なんかさ、魚が腐ったみたいな臭いでフェラのときゲロりそうになったんですけど」
沙耶が、喉に手を当て舌を出した。
「臭かった! あいつ、デブで汗っかきでちんこ小さくて臭くて、とどめに早漏っしょ? 取り得がひとつもなくね? おめーなんで生きてんだって感じ!」
絵夢の笑いながらの罵詈雑言に、沙耶が爆笑した。
「そのデブもきつそうだけど、ウチの常連客のボウズも半端ないから」
ファッション誌から眼を離した花恋が、ふたりの「悪態」に参加した。
「ボウズはマジにヤバいよね~。あいつ、最強だよ」
七海が言うと、塗り立てのマニキュアに息を吹きかけた。
「なに? ボウズって? ハゲた客?」
絵夢が興味津々の表情で花恋に訊いた。
「ハゲはハゲだけどさ、だからボウズって呼んでんじゃなくて坊さんなんだよ」
「え!? まさか、お寺のお坊さん!?」
沙耶が素っ頓狂な声を上げた。
「そう、リアルボウズ! ウケるっしょ? なにがヤバいって、坊主がデリ呼んでる時点でアウトだけどさ、九十分のうち三十分は必ず説教するんだよ」
「説教?」
首を傾げる絵夢。
「君は、なぜこんな仕事をやってるんだい? お金が必要なのか? 不特定多数の男性と性交渉する仕事なんて、親御さんが知ったら哀しむぞ。第一、病気とかうつされたらどうするんだ? 君は、まだ若いんだろう? どんな事情があるか知らないが、きちんと将来を見据えなさい。いまはまだ若いからいいが、君もいずれ結婚し、子供ができるだろう。妻となり、母親となったときどれだけ後悔しても、若き日の過ちをやり直すことはできないんだ。なんて偉そうな説教垂れたあとにさ、とりあえず、尺八してくれるかな? だからね」
花恋が肩を竦めた。
「そうそうそう、ボウズってさ、あーだこーだ説教したあとに必ずフェラさせんだよね~。それもさ、髪の毛を鷲掴みにして喉の奥まで突っ込んでくるから吐きそうになってさ。しかも、腐った卵みたいな精子を絶対に飲ませるじゃん? おめー成仏なんてできねーし地獄に行けよって感じ」
七海が激しく毒づいた。
「あとさ、内緒で電マやらせてくれってボウズに言われたことない?」
「あ! 言われた! あいつ、オプション料をケチってマイ電マなんか持ち込んでさ、マジ、セコくない?」
花恋に訊ねられた七海は、眉をひそめて言った。
「ギャルセレブ」では、ディープキス、全身リップ、玉舐め、生フェラ、指フェラ、アナル舐め、口内発射、パイズリ、シックスナイン、素股、言葉責めは基本プレイなので料金はかからないが、電動マッサージ機によるプレイはオプション料が五千円となっていた。
ほかのオプションは、ローターとバイブレーターが三千円、オナニープレイ、精子飲み、コスプレが二千円という値段設定だ。
女の子は、基本プレイとは違いオプションプレイに関してはNGを出せる。
因みに樹理亜は、精子飲みだけがNGだ。
「それからさ、ケチな客も最悪じゃね? いくら払えば本番できるっつーから、いくらでもいいよって言ったら、三千円とか出してくる奴。ありえねーでしょ!?」
沙耶が欧米人のように大袈裟に両手を広げてみせた。
樹理亜は、二万円以上のチップから本番行為を受け入れていた。
二万円という金額設定に意味はない。
ただ、なんとなくそうしただけだ。
一万でも三万でも……極端に言えば、千円でも十万でも樹里亜にとっては同じだ。
客とのセックスに、抵抗はなかった。
むしろ、ディープキスやフェラチオよりもましだった。
「三千円はないよねー。東南アジアの娼婦と勘違いしてんじゃん? 私的に一万円でも無理。だいたいそんな安い金でさ、キモいおっさんが十代のコを抱こうとすんのが図々しいんだよ。てめーの娘には偉そうに説教してるくせさ」
絵夢が吐き捨てた。
樹里亜は、話の輪には入らずソファの端で未瑠のツイッターを読んでいた。

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おはよー。
今日はね、最近、ちょっと悩んでいることを書くね。
ミルミルはいつもポジティヴでいたいけど、みんなの意見も聞いてみたいの。
悩みっていうのは、読者さんのことなの。
ミルミルって、不器用で、口下手だから誤解されやすくて。。。
ミルミルの書いた記事で読者の人を怒らせちゃったみたいで、凄く落ち込んでるんだ。
思いを伝えるって難しいんだなって……自己嫌悪&自信喪失(笑)
だけど、読者の方をあんなに怒らせたのはミルミルの責任だと思うんだ。
ミルミルのブログのせいでいやな気持ちにさせてしまって……ごめんなさい。
次のブログまでに元気パワーを充電しておくからね!
(ミルミル)

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樹里亜は、スマートフォンを太腿に叩きつけるように置いた。
未瑠は、どうしようもない性悪でしたたかな女だ。
謝り反省しているふうを装って、己を正当化し、読者からの同情を集めようとしている。
恐る恐る、コメント欄を開いた。

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1・ミルミルはなんて優しいんだ!
樹里亜って女だよね? 前から、僕も気になってたけどミルミルが触れないから無視してたんだ。
ミルミルは怒ってもいいのに相手のことを気遣っているなんて……そんなお人好しな生きかた、損しちゃうよ!
だけど、そんなミルミルが好きなんだけどね!
(ミルミル親衛隊長)

2・ミルミル親衛隊長さんと同感です。
私も以前から、樹里亜さんのことは気になってました。
この人は、きっとミルミルに嫉妬してるんだと思います。
根も葉もないことでミルミルを中傷したり、貶めるような出任せを書いたり……。
偽善者だとか枕営業してるだとか……。
寛容なミルミルだからなにも言わないけど、普通なら名誉毀損で訴えられるレベルのことだと思います。
いったいあなたが、ミルミルのなにを知ってるというんですか?
裏表がなくて不器用過ぎるミルミルは、偽善者とは一番程遠い人です。
純粋で正義感の強いミルミルは、枕営業なんて絶対にしません。
樹里亜さんって、心が醜い人なんですね。
私達に夢を与えてくれるために睡眠時間も削って歌やダンスのレッスンをしているミルミルに、よくもそんなひどいことが言えますね?
本当は、私達があなたを訴えたいくらいですけど、優しいミルミルに免じて今回だけは許してあげます。
でも、次にまたミルミルを誹謗中傷するようなコメント入れたら許しませんよ。
(ミルミルになりたい女)

3・無題
こんなしょーもない女相手に反省するミルミルは最高にできた女の子!
(ミルミル命)

4・無題
氏ね! 性悪女!
(通りすがり)

5・無題
お前こそエンコーとかしてんじゃねーか?
(お初です)

6・無題
通りすがりさんとお初ですさん、気持ちはわかりますけど、そういうコメントを読むとミル ミルが哀しんでしまうと思います。
僕はデビューの頃からミルミルを応援してますけど、彼女は本当に心が綺麗な少女です。
普通、アイドルやっててあれだけかわいい顔してるなら、もっとお高く止まったりしている人が多いけど、ミルミルはいい意味で田舎の素朴な少女なんです。
口汚く罵ってしまえば、彼女と同じレベルまで下がってしまいます。
お互い、天使のようなミルミルに相応しいファンになるように努力しましょうね。
(ムシパンマン)

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樹里亜は、ふたたびスマートフォンを太腿に叩きつけるように置いた。
怒りに、視界が青褪めた。
いつもは十前後のコメント数が、五十を超えていた。
コメントが五倍に増えているだけでも、未瑠の思うツボだ。
しかも、そのほとんどが樹里亜にたいしての非難の嵐なのだから未瑠は笑いが止まらないことだろう。
自分に落ち度があったとブログに書くことで好感度を上げ、同時に樹里亜への怒りを煽るという合理的かつ巧妙な手口だ。

「ねえ、ジュリはどんなキモ客に当たった?」
不意に、絵夢が樹里亜に訊ねてきた。
「別に」
「え? なにその態度? 感じ悪っ」
絵夢の顔が険しくなった。
「あんたらのほうが感じ悪いって」
樹里亜の言葉に、瞬時に四人が気色ばんだ。
「なにそれ!? どういう意味?」
花恋がファッション誌を閉じ、樹里亜に詰め寄った。
「キモいだなんだって、ごちゃごちゃ陰口叩いてんじゃねえよ。そのキモい客に貰った金で、洋服買ったりホストと遊んでんじゃん?」
樹里亜は、鼻を鳴らした。
客に同情したわけではない。
同情どころか、樹里亜もデリヘルを利用する客を軽蔑している。
金で見ず知らずの女を買ってセックスをするゴミのような人間は、できれば死んでほしいと思っている。
だが、残飯を漁るカラスが卑しくあさましいと残飯を漁る野良猫に笑う資格はないのだ。
「は!? あんた、それ、マジで言ってんの!?」
眼尻を吊り上げた七海が身を乗り出し、樹里亜の肩を掴んだ。
「事実でしょ? あんたと沙耶さ、ホストクラブに入り浸ってるって噂だよ。騙されてんのが、わかんないの?」
七海の腕を払いのけ、樹里亜は小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「マジムカつくんだけどこいつ! おめーだって股開いて金稼いでるくせに、なに調子こいて説教してんだよ。ただのヤリマンだろうが!」
血相を変えた沙耶が掴みかかってきたのを見計らったように、ドアが開いた。
「お前ら、やめないか!」
店長の梶田が、樹里亜と沙耶を一喝した。
「ジュリ、指名が入ったぞ。九十分新規だ」
樹里亜は襟を掴んでいた沙耶の手を払い除けソファから腰を上げた。
「あ、そうそう、この前、あんたの客の指名入ったけど、マンコ臭過ぎてクンニのときに吐きそうになったって。クラミジアじゃん? 細菌バラ撒かれると店の評判落ちるから、病院行けよ」
樹理亜が嘲るように言うと、沙耶が般若の如し形相になった。
「てめえっ、ふざけんじゃねえよ!」
「いい加減にしろっ! 客のとこに行く前に怪我させる気か!」
樹理亜に掴みかかってこようとする沙耶を、梶田が叱責した。
「お前もだ。喧嘩売るような……」
梶田の言葉を遮るように、樹理亜は部屋を出た。

☆     ☆

樹理亜を乗せたアルファードは、靖国通りを走っていた。
新規の指名客は、新宿のラブホテルを指定してきた。
「中川って名前で五十代のおっさんらしいよ。ウチの系列に登録ないから、偽名じゃなけりゃ新規ってのは嘘じゃないな。電話の感じでは物静かで紳士っぽかったらしい」
ドライバーの望月が、指名客の説明を始めた。
望月については、五十代の元タクシー運転手でお喋りな男ということしかしらない。
また、知りたいとも思わなかった。
デリヘルは密室空間で男とふたりきりになるので、女の子からすれば不安なものだ。
新規客は素性がわからないのでなおさらだ。
じっさい、過去には、異常な性癖のある客にデリヘル嬢が殺されるという事件が何件も起きていた。
だから、店側は女の子を安心させるためにでき得るかぎり詳細な情報を伝える決まりになっていた。
樹理亜は望月の話を聞き流し、車窓から移りゆく雑居ビルを眺めていた。
「ほかの女の子はしつこいくらいに訊いてくるのに、ジュリは客の素性について気にならないのか?」
望月のひと重瞼が、ルームミラー越しに樹里亜をみつめていた。
「ならない」
樹莉亜は、素っ気なく言った。
どんなに用心していても、死ぬときは死ぬ。
道を歩いていて上空から落ちてきた鉄骨が頭部に直撃して死ぬ者もいれば、通り魔に刺し殺される者もいる。
「前から不思議だったんだけどさ、ジュリはなんでデリとかやってるの? 借金があるとか? それともホストに貢いでいるとか?」
「ないし」
窓の外に視線を向けたまま、樹里亜は言った。
「店を持ちたいとか……なんか夢があるの?」
「ないし」
「海外に行きたいとか買いたい物があるとか?」
「ないし」
樹里亜は、録音された音声テープのように繰り返した。
「じゃあ、なんで?」
「さあ」
窓ガラスに薄っすらと映る「少女」を、樹里亜はみつめた。
惚けたわけではない。
自分でも、なぜデリヘルをしているのか本当にわからなかった。
「もしかして、セックスが好きとかじゃないよね?」
しつこく質問を続ける望月に、樹里亜は辟易した。
「かもね」
これ以上話かけられたくなかったので、樹里亜はでたらめを口にした。
「え!? ヤリマンなわけ? だったらさ、俺がやろうって言っても断らないのか!?」
望月が、興奮にうわずった声で伺いを立ててきた。
「コース料金払うなら」
樹里亜は、窓ガラスの「少女」をみつめたまま投げやりに言った。
「なんだ……そういうことか。なあ、いまからの客が終わったあと、社員割引で五千円でどう?」
ルームミラーの中の望月の目尻が卑しく下がった。
樹里亜は涼しい顔でスマートフォンのリダイヤルボタンを押した。
「どこにかけてるんだ?」
怪訝な声で望月が訊ねてきた。
三回目で、コール音が途切れた。
『ありがとうございます、「ギャルセレブ」です』
「ジュリです。店長に話があります」
望月がブレーキを踏み、弾かれたように振り返った。
『なんだ、客と揉めたのか?』
「いえ、望月さんが……」
青褪めた望月が顔の前で手を合わせた。
樹里亜は、スマートフォンを耳に当てたまま望月に人差し指を一本立ててみせたあとに掌を差し出した。
一瞬、怪訝ないろを浮かべていた望月は事情を察すると小さく舌を鳴らし、財布から抜き取った一万円札を樹里亜の掌に載せた。
『望月がどうした?』
「あ、やっぱりいいです。ちょっと望月さんと言い合いになってムカついて電話したんですけど、もう大丈夫です」
望月が、安堵の吐息を漏らしていた。
『なんだ? 大丈夫か?』
「はい、すみませんでした。じゃあ、そろそろホテル着きますから」
樹里亜が電話を切ると、充血した眼で望月が睨みつけてきた。
「なんだよ? 見んなよ、キモいんだよっ、てめえは。 さっさと車出せ」
樹里亜の暴言に歯ぎしりしながらも、怒りを噛み殺した望月は顔を正面に戻し車を発進させた。
シートに背中を預けた樹里亜は、窓ガラスの「少女」に微笑みかけた。
「少女」も笑っていた。
パワーウインドウのスイッチを押すと、笑顔の「少女」が消えて生温い風が車内に流れ込んできた。
樹里亜は窓の外に手を出し、一万円札を摘んでいた指を開いた。

☆     ☆

「レッドクレスト」はデリヘル御用達ホテルと言われているだけあり、派手なギャルがひとりでエレベータに向かっても受付の男はみてみぬふりをしていた。
樹里亜はエレベータに乗ると、三階ボタンを押した。
扉が開いた。
エレベータを降りた樹里亜は、指定された三○五号室のドアに向かった。
ドアの前に立ち、ノックした。
返答があるまでのこの空白が、樹里亜は嫌いだった。
『入って待ってて』
声に促され、樹里亜はドアを開けた。
部屋に入ると、シャワーの音が聞こえてきた。
樹里亜はパンプスを脱ぎ、中扉を開けた。
調度品は白と黒のモノトーンでまとめられており、ラブホテルとは思えないシックな内装だった。
樹里亜はスマートフォンを取り出し、望月の番号にかけた。
『……はい』
さっきのことを根に持っているのだろう、望月の声は明らかに不機嫌だった。
「いま入ったから」
樹里亜はぶっきら棒に報告を入れると一方的に電話を切った。
八十分後にアラームのタイマーをセットし、ナイトチェアに座った。
中川という客は、少なくとも不潔趣味ではないようだ。
客には様々なタイプがいる。
中川とは逆にわざと何日もシャワーを浴びずにフェラチオをさせ、強烈な悪臭に顔を歪める姿をみて興奮する客、プレイ時間中にひたすら読書をしてなにもしない客、排泄をみながら自慰行為をする客、挿入前に発射することを何度も繰り返しているうちにタイムオーバーを迎える客……もし自分が小説家なら、取材対象には事欠かない。

――-じゃあ、なんで?

不意に、 望月の疑問の声が鼓膜に蘇った。
そもそも、なぜこんなバイトをしているのかさえ考えたことはなかった。
シャワーの音と入れ替わりに、扉が開く音がした。
バスタオルで頭を拭きながら、全裸の中川が現れた。
「待たせて悪い……なっ……」
樹里亜をみた中川が眼尻を裂いて声を漏らした。
予期せぬ展開に、樹里亜も絶句した。
「お前……どうして……こんなとこに……」
中川は無期懲役を言い渡された被告人のように、乾涸びた声を搾り出した。
「ま、あんたの人間性知ってっから、なるほどって感じもするし」
樹里亜は無表情に独りごちながら、掌を中川に差し出した。
「偏差値70コース九十分と入会金、指名料を合わせて、前金で五万三千円になります」
淡々と告げる樹里亜の掌の先で、中川……父、英輝が表情を失った。
(つづく)

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著者

新堂冬樹(しんどう・ふゆき)

1966年生まれ。98年に、『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞。その後ノワール&バイオレンスな作品で読者を魅了している。2003年『忘れ雪』で純愛に挑戦、ベストセラーとなる。

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