芸能界を震撼させたベストセラー『枕女優』から6年 その身体のすべてを捧げ、「夢」を目指したもう一人の女性の物語、開幕

枕女王

「枕女王」樹里亜 1

「枕女王」樹里亜 1

「おねえさん、ギャル誌の読モ?」
プラチナブロンドの巻き髪、複数重ねたつけ睫、小麦色の肌、蛍光グリーンのタンクトップ、露出した臍に光るピアス……「109」の一階フロアのショップに入って三十秒もしないうちに、ギャル店員が声をかけてきた。
ミルクティーカラーのロングヘアにブラウンのカラーコンタクト――ギャル店員ほどでないにしろ、樹里亜のビジュアルもいまどきのギャルふうだった。
「いいえ」
樹里亜は、最低限の笑みを返した。
無視するわけにはいかず、かといって愛想をよくし過ぎても付き纏われてしまう。
ショップに入って、すぐに店員に声をかけられるのはあまり好きではなかった。
「その制服、なんちゃってだよね? かわいいじゃん!」
ギャル店員は甲高い声を上げ、樹里亜の赤いリボンネクタイに触れた。
淡いピンクの長袖ブラウスに紺地に赤のチェックのミニスカートは、制服のかわいさで人気の渋谷の女子高のレプリカだった。
樹里亜は高校を一ヶ月で中退しているので、制服には憧れがあった。
「おねえさん、高校生だよね? いくつ?」
「十八です」
樹里亜は、これ以上は話しかけてほしくないというオーラを発しながら、パステルカラーの花柄のワンピースを手に取った。
「さすが~見る眼あるじゃん。そのバルーンワンピ、いま、一番の売れ筋なの。小悪魔系のキュートさとキャバ系のセクシーさがいい感じにミックスされてるっしょ?」
オーラは通じず、ギャル店員は馴れ馴れしい口調で商品の説明を始めた。
「あ……はい……」
樹里亜は曖昧な返事をし、ほかのワンピースに視線を移した。
ギャル店員にたいしての、無言のアピールだった。
「おねえさんってさ、スリムなのに胸とかおっきくて羨ましいよ。あたしなんてさ、こんなにむちむちしてんのに貧乳だから嫌になっちゃう」
勘が鈍いのか売るためにコミュニケーションを取っているつもりなのか、ギャル店員は樹里亜から離れようとしなかった。
仕方がないので、樹里亜のほうから別のコーナーに移動した。
パーカーのセットアップが並んでいる前で、足を止めた。
樹里亜は、迷彩柄のパーカーを手に取った。
ミニ丈のショートパンツで脚線美が、大きめのフードで小顔が「盛れる」効果があるところが気に入った。
値札をみた。七千八百円。
実入りのいいアルバイトをしているので買えない金額ではないが、樹里亜には叶えたい「夢」があるので無駄遣いはできなかった。
「夢」……介助犬の育成所を創設することだった。
盲導犬が全国に一千頭以上登録数があるのにたいし、介助犬の登録数は七十二頭しかいない。
アメリカの二千頭、イギリスの一千頭に比べても、日本の介助犬にたいする認知度の低さがわかる。
介助犬を一頭育てるのに約三百万がかかるので、樹里亜は十六のときから特殊なアルバイトをして五十万の貯金をしていた。
犬が好きなわけでもなければ、身体障害者のことを考えたわけでもない。
樹里亜が介助犬を育てようと思っているのは、精神的なバランスを保つためだ。
物心ついたときから、罪の意識に苛まれていた。
邪悪な心を持つ自分を、少しでも許せるようになりたかった。
「ああ! おねえさん、パーカーも好きなんだ!」
ふたたび現れたギャル店員に、樹里亜は小さくため息を吐いた。
「パイル地のこれなんかさ~おねえさんに超似合ってると思うんだけど? 一発、試着してみる?」
ギャル店員が、ベビーピンクのパーカーを樹里亜の上半身に押しつけてきた。
「あ……いえ……大丈夫です」
「遠慮しないでいいから、試着……」
「さっきから、うぜえんだよっ、てめえ!」
豹変した樹里亜の剣幕に驚いたギャル店員が、パーカーを床に落とした。
「マジむかつく! 死ねよっ」
樹里亜は舌打ちと捨て台詞を残し、パーカーを踏みつけながらショップを出た。

――どうして、突然、そんな汚い言葉を口にするの? どっちが、本当のあなたなの?
――娘さんには、二面性があるようです。

幼い頃から、母親や学校の担任教諭に決まり文句のように言われていた。
母親は、なにもわかっていない。
豹変とは、凶暴になることばかりではない。
いつも凶暴な人間が急に物静かで優しくなるのも豹変だ。
汚い言葉を口にする樹里亜が本当の姿で、おとなしい樹里亜が仮の姿かもしれないのだ。
わかっていないのは、教師も同じだった。
自分には、おとなしい樹里亜、凶暴な樹里亜だけではなく、もっといろんな自分がいる。
樹里亜は、コスメショップのフロアを覗いた。
レジカウンターの奥で金髪ボブの女性店員は電話に夢中になっていた。
甲高い笑い声が、プライベートの電話であることを証明していた。
樹里亜は、商品を選んでいるふうを装い、つけ睫、リップグロス、ボディクリーム、入浴剤を腕にかけたトートバッグに次々に放り込んだ。
小学生の頃から万引きを続けているが、捕まったことは一度もない。
人目を気にせず、堂々と大胆に実行するのが怪しまれないコツだ。
もちろん、防犯カメラからの死角やスタッフのローテーションなどの下調べは怠らない。
慎重ではあるが臆病とは違う。大胆ではあるが無謀とは違う。
それが、自分だ。
金に困っているわけでも、スリルがほしいわけでもない。
万引きにかぎらず、罪を犯すのは樹里亜にとって呼吸をするのと同じだ。
難しいことでも刺激的なことでもないが、行為を止めれば生きてはいられない。
金髪ボブの声のイントネーションで、そろそろ電話が終わりそうな気配を察した樹里亜は「109」を出て「マークシティ」に移動した。
樹里亜の向かった先は、人気の少ない四階の待ち合いスペースだ。
奥まった静寂なフロアのベンチソファは居心地がよく、その気になれば何時間でも座っていられる。
樹里亜は「指定席」――背丈の高い観葉植物の裏側のベンチソファに腰を下ろし、スマートホンを取り出した。
「ミルミルのミルキーな日々」の記事をチェックするのが、樹里亜の日課になっていた。
通称ミルミル……未瑠は、「ショコラ」という三人組の地下アイドルのメンバーだった。
アイドルが好きなわけではない……というより、芸能界に興味がなかった。
普段の樹里亜はテレビを観ないので、人気俳優のことも国民的アーティストのことも知らなかった。

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『ミルミル、反省。。。』

おはよー。
昨日、ミルミル、出版社さんでファッション誌のインタビューだったの。
記者さんがくるのをロビーで待っていたとき、清掃のおばさんが床にこびりついたガムをヘラで剥がしたり、ガラス扉の指紋を拭き取ったり、泥の靴跡にモップがけしているのをみて、反省しちゃった。
ガムとかは捨てたりしないけど、ガラス扉に指紋をつけたこともあるし、雨で濡れた靴底で床を汚したこともあるし。。。
清掃のおばさんがこんなに大変な思いできれいにしてくださっているのも知らずに、申し訳ない気持ちで一杯。。。
おばさん、ごめんなさい。
そして、いつもありがとう!
(ミルミル)

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「また、こんなこと書いてるよ」
樹里亜は、嫌悪感たっぷりに呟いた。
八の字に下げた眉、哀しげな瞳のカメラ目線、自分の頭を拳で叩くポーズ、膨らませた頬……ブログに添付してある写真の顔は、反省を表現しているつもりなのだろう。
「なに? この写真?」
樹里亜は吐き捨て、コメント欄をクリックした。

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そういうふうに清掃のおばさんの気持ちになれるだけで、ミルミルは優しい女の子だと思うよ!
(スウィーツ王子)

ガラスに指紋がつくとか濡れた靴で床を汚すとか、仕方のないことだよ。そんなことで自分を責めるなんて、ミルミルはどこまで心がきれいな子なんだ!
(ムシパンマン)

あんまり悩まないほうがいいよ……って言っても、思いやりの塊のミルミルには無理だよね。
おばさんにも、ミルミルの気持ちは伝わってるよ!
(ミルミル親衛隊長)

人間的に、ミルミルのこと尊敬します。私なんて、清掃の人が掃除しているのをみても、あたりまえだと思ってしまいます。
ミルミルみたいに、純粋な人になりたいです。
(ミルミルになりたい女)

ミルミルは自分を責め過ぎ! もっと自分に優しくね!
写真の哀しそうな顔、サイコー!
(アッキーバー)

どんな顔しても、超かわいい!
(ミルミル命)

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樹里亜は鼻を鳴らし、書き込み欄を開いた。

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おはよう、偽善者さん。
こんなブログを書いて、好感度アップを狙ってるわけ?
清掃のおばさんが床にこびりついたガムをヘラで剥がしたり、ガラス扉の指紋を拭き取ったり、泥の靴跡にモップがけしているのをみて反省?
ガムとかは捨てたりしないけど、ガラス扉に指紋をつけたこともあるし、雨で濡れた靴底で床を汚したことを反省?
あんたってさ、ピアノの先生がピアノを教えてるのみて反省するの?
調理師が料理を作ってるのをみて反省するの?
保母さんが子供の世話してるのみて反省するの?
清掃のおばさんも、同じだって。
床にこびりついたガムをヘラで剥がすのも、ガラス扉の指紋を拭き取るのも、泥の靴跡にモップがけしているのも、それが仕事なんだよ。
あんたが清掃の仕事を見下してるから、申し訳なく思うんじゃないの?
あ、もしかして反省じゃなくて罪悪感?
清掃のおばさんが床にへばりついたガムをヘラで剥がしているときに、代官山や中目黒で五千円もするランチを食べてるから?
清掃のおばさんがガラス扉の指紋を拭き取っているときに、一回一万円のエステで全身泥パックをしてるから?
それとも、清掃のおばさんが泥の靴跡をモップがけしてるときに、プロデューサーとラブホで枕営業してるから?
とにかくさ、清掃のおばさんを使って好感度アップ狙ったり自分の乱れた生活の罪滅ぼしをするの、マジウザいからやめなよ。
書き込んでるオタク馬鹿も、いい加減に眼を覚ましなって。
みんなが純粋だとかかわいそうだとか書き込んでいるときに、あんたらのミルミルは男に股を開いてるんだから。
嘘だと思うなら、お金に余裕のある人、ミルミルに探偵をつけてみ?
(樹里亜)

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送信ボタンをクリックした樹里亜は、スマートホンを万引きした品で溢れ返るトートバッグに放り込んだ。
未瑠が羨ましいわけでもなく、また、恨みがあるわけでもない。
彼女がどうのこうの以前に、芸能人に興味がなかった。
だが、未瑠の言動だけはなぜか無視できなかった。
どうしてなのかわからない。
生理的に受けつけない……それが、一番しっくりくる理由なのかもしれない。
トートバッグの中で、携帯電話が震えた。
樹里亜はバッグを覗き、ディスプレイに浮く「バイト」の三文字を確認した。
無視して、腰を上げた。
今日は、「バイト」の気分ではない。
「バイト」は、好きなときに出勤すればよかった。
気が向かなかったり体調が悪かったりすれば、休みたいだけ休んでも解雇されることはない。
だが、シフトに入ってからの遅刻や無断欠勤には厳しく高額な罰金を取られてしまう。
「マークシティ」を出た樹莉亜は、あてもなく渋谷の街を彷徨った。
「ひとり? どこに行くの?」
韓流スターを真似たダンディカットの青年が、センター街の入り口で声をかけてきた――無視した。
「モデルさんに興味ない? どこか、事務所に所属してるの?」
「109」の脇の通りで、不自然なほどに陽灼けした茶髪の男が声をかけてきた――無視した。
「AVのスカウトでも風俗のキャッチでもないから安心して」
陽灼け男は諦めず、樹莉亜のあとを追いかけてきた。
「僕はモデル事務所のスカウトマンで、ギャル雑誌のモデルを探して……」
樹里亜は足を止め、陽灼け顔の差し出す名刺を受け取った。
「ありがとう。すぐ近くにウチの事務所が……」
樹里亜は陽灼け顔の鼻先で名刺を破き、ふたたび歩を踏み出した。
背後から罵声が追ってきたが、樹莉亜は立ち止まらなかった。
明滅する歩行者用の青信号――買い物袋をぶら下げた腰の曲がった老婆が、ゆっくりと歩いていた。
信号が赤に変わり、クラクションが老婆に浴びせられた。
「持ちます」
樹里亜は買い物袋を受け取り、老婆の手を引いた。
「お嬢さん、悪いね」
「ゆっくりでいいですからね」
樹里亜は、老婆の歩みに合わせた。
クラクションの数が増し、鳴らされている時間が長くなった。
「お婆ちゃん、どこに行くんですか? そこまで、荷物持ちますよ」
「ありがとうね、でも、大丈夫だよ。孫が迎えにきてくれているはずだから。優しいねぇ、お嬢ちゃんは。本当に、ありがとうよ」
老婆が皺を深く刻んだ笑顔を残し、「東急デパート」に入って行った。
樹里亜は、通りを渡って「ドンキホーテ」に向かった。
「あの、すみません!」
自分にかけられた声ではないのかもしれないが、樹里亜は振り返った。
空色のカーディガンを着た三十代くらいの男性が、「東急デパート」のほうから駆けてきた。
「はい?」
樹里亜は、訝しげに首を傾げた。
ノーフレイムの眼鏡をかけた男に、見覚えはなかった。
「祖母に親切にしてくださって、ありがとうございます」
男は、さっきの老婆の孫だった。
「別に」
樹里亜は、素っ気ない口調で言った。
「あの、これ、ウチの会社で製作している映画なので、よかったらお友達と観にきてください」
老婆の孫が、二枚のチケットを差し出してきた。
「いらないし」
チケットを受け取らず、樹里亜は冷たい声で言った。
「この映画がお好みじゃないなら、別の映画も……」
「いらないって言ってんじゃん! マジしつけーんだよっ」
驚愕顔の老婆の孫を残し、樹里亜は逃げるように「ドンキホーテ」に入った。
樹里亜は二階に続く階段の踊り場で立ち止まり、ため息を吐いた。
老婆の孫に、腹の立つことを言われたわけでもない。
昔から、いい行いをすると強烈な自己嫌悪に襲われ、バランスを取ろうと悪い自分が出てきてしまう。

幼稚園児のあるとき、祖母の肩叩きをしたあとに冷蔵庫を開け放し中の食品を腐らせた。
小学生のあるとき、いじめられていた下級生を助けたあとに校庭の花壇を踏み荒らした。
小学生のあるとき、ボランティアで町内会のゴミ拾いに参加したあとに近所の自転車のタイヤを手当たり次第にパンクさせた。
中学生のあるとき、駅の階段で妊婦の荷物を持ってあげたあとにクラスメイトの財布を盗んだ。

無意識のうちに、善行を打ち消すとでもいうように悪行に手を染めてしまうのだ。
天使の自分と悪魔の自分――どちらが本当の自分かわからない。
いや、どちらも本当の自分かもしれないし、どちらも本当の自分ではないのかもしれなかった。
樹里亜は一階のコスメのコーナーでマニュキュアと入浴剤を、飲食店のコーナーでガムとのど飴を呼吸をするように自然な流れで万引きした。
「あの……」
声をかけられ、背筋が凍てついた。
みつかってしまったのか?
恐る恐る、樹里亜は振り返った。
「あ、やっぱり君だった」
目の前に立っていたのは、気取った感じの中年男だった。
デニム地のワイシャツにチノパンというカジュアルな服装をしており、白縁の伊達眼鏡をかけていた。
「あんた、誰?」
「え……忘れたの? っていうか、もしかして、この前のこと怒ってる?」
白縁眼鏡が、樹里亜の顔を覗き込んできた。
「バイト」の関係の人間か?
であれば、覚えているはずだ。
樹里亜は記憶力がよく、顧客の顔と名前は全員覚えている。
「人違いじゃない? あんたのこと、知らないんだけど」
樹里亜は、訝しげな口調で言った。
「またまた~。なんか、気に障ることをしちゃったなら謝るからさ。なんか、そういう感じもいいね」
白縁眼鏡が、軽薄な笑みで片側の口角を吊り上げた。
「は!? さっきからなに言って……」
「とりあえず、時間あるならお茶でもしようよ」
樹里亜の言葉を遮った白縁眼鏡が、馴れ馴れしく腕を掴んできた。
「触わるんじゃねえ! キモいんだよっ!」
怒声とともに、樹里亜は平手打ちを浴びせた。
衝撃に、中年男の白縁眼鏡がずれた。
「き……君は、こんなことして……」
「どけよ!」
白縁眼鏡の胸を突き、樹里亜は「ドンキホーテ」を飛び出した。
追いかけてこないか不安で、全速力で走った。
すぐに息が上がり、樹里亜は膝に手をつき荒い呼吸を繰り返した。
それにしても、薄気味の悪い男だった。
新手のナンパか? それとも……。
思考を止めた。
もう二度と会わないのだから、考えても意味がない。
息が整い顔を上げた樹里亜は、見覚えのある雑居ビルをみて思わず笑った。
雑居ビルは、センター街にある「バイト」の事務所兼待機部屋だ。
「結局さ……」
樹里亜は呟きを飲み込んだ。

私の行き場所は、ここしかないって?
心で呟いた樹里亜は自嘲的に笑い、雑居ビルのエントランスに足を踏み入れた。

未瑠 2

帽子、サングラス、マスクの芸能人三点セットで「武装」した未瑠は、エントランスを足早に抜けるとエレベータに乗った。
ほかのカップルに遭遇したくはなかった。
素顔は隠しているのでバレることはないが、ラブホテルに入るところを誰かに目撃されるのは気分のいいものではなかった。
エレベータの中は、ブラックライトの淫靡な光に染まっていた。
指定された場所が、ラブホテルが密集している円山町でないことがせめてもの救いだった。
以前、テレビ局のプロデューサーと「枕」したときには、品川のプリンスホテルを取ってくれていた。
しょせん、製作会社のプロデューサーレベルはこの程度だ。
未瑠は五階でエレベータを降り、五○五号室――廊下の突き当たりのドアの前まで行った。
このドアの向こう側に、今夜、相手をしなければならない石田がいると思うと気が重くなる。

――製作会社のPと「枕」しても、決定権は局Pにあるから仕事が決まらないじゃないですか?

未瑠は、製作会社のプロデューサーとの肉体接待を命じる坂巻に意見した。

――そうとはかぎらない。お前が会う石田PはBSの音楽番組のキャスティング権を持っている。気に入られれば、ゲストに呼んでもらえるかもしれないぞ?
――でも、チーフ、「枕」までやるんだから、衛星じゃなくて地上波の番組がいいです。
――贅沢言うな。お前らはまだ無名のアイドルなんだから、BSでも音楽番組のゲストに呼んでもらうのはありがたいことだ。いまは選り好みしないでガンガン仕事を取って、知名度を上げることだけを考えろ。
――自分を安売りしたくありません。
――だったら、お前を解雇してもいいんだぞ? その代わり、今後、芸能界でやって行くのは無理だと思うんだな。俺はこうみえても、顔が広いんだ。「グローバルプロ」を解雇されたタレントを引き受ける事務所なんてないからさ。

坂巻の言葉が、百パーセント真実だとは思えない。
だが、事務所に解雇されたとなればアイドルとしてのイメージが悪くなる。
不当解雇だと訴えることもできるが、裁判に勝ったとしてもタレント生命は終わってしまう。
裁判沙汰になったアイドルなど、どのスポンサーも使いたがらないしテレビ局も及び腰になるものだ。
売れてパワーバランスが逆転するまで、坂巻と揉め事を起こすのは賢明ではなかった。

――わかりました。従えばいいんですよね?

皮肉たっぷりに、未瑠は言った。

――まあ、不貞腐れるな。次からは、もっと大物を用意するから。今夜だけは、なんとか頼むよ。

未瑠のため息が、記憶の坂巻の声を掻き消した。

少しの辛抱だ。
そう遠くない将来に、満席の日本武道館でライブを打てるような国民的メジャーアイドルになってみせる。
栄光と力を手に入れたら……。

未瑠は、誓いの言葉を胸にしまい、ドアをノックした。
待ち構えていたように、すぐにドアが開き、バスローブを羽織った生白い下膨れ顔の中年男が現れた。
「実物は、よりかわいいねぇ」
石田が、下卑た笑みを浮かべながら未瑠の全身に舐め回すような視線を這わせた。
「未瑠です。よろしくお願いします」
未瑠は、八重歯を覗かせオタクを骨抜きにするピュアスマイルを石田に向けた。
少し、おどおどした感じを装うことも忘れなかった。
「とりあえず、入って」
「失礼します」
石田に背中を向け靴を脱ぐ未瑠の顔から微笑みは消え、凍りつくような冷たい表情になっていた。

栄光と力を手に入れたら……坂巻も目の前の卑しい白豚も生ゴミのように捨ててやるつもりだった。

未瑠は、誓いの言葉の続きを胸奥に蘇らせた。
(つづく)

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著者

新堂冬樹(しんどう・ふゆき)

1966年生まれ。98年に、『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞。その後ノワール&バイオレンスな作品で読者を魅了している。2003年『忘れ雪』で純愛に挑戦、ベストセラーとなる。

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