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なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【前篇】

9784309625034いよいよ発売の、北田暁大+解体研[編著]『社会にとって趣味とは何か』。一見わかりにくいタイトルの本書は、いったいどんな書物なのか。北田暁大さんに訊いてみた。前篇・後篇、2回に分けてお届けする。

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1◇「『サブカルチャー神話解体』解体」のプロジェクト

――『社会にとって趣味とは何か 文化社会学の方法規準』、タイトルだけ拝見するとえらく難しい本のように思えるのですが、ブックガイドなどもあり、理論編・事例分析編と分かれていて、学部生ぐらいを想定読者とした、とあります。なぜいま「趣味」を社会学の研究書、社会学入門書のテーマとして設定されたのでしょうか。もともとは宮台真司さんたちの『サブカルチャー神話解体』の批判的継承を目指していたと聞きましたが。

北田■はい、そうですね。もともとは科研費の研究で、「若者文化におけるサブカルチャー資本」みたいなのを、サラ・ソーントンの議論などを受けて分析していこうと考えていたのですが、念頭にあったのは宮台さんたちの『サブカルチャー神話解体』でした。宮台本は1993年に出されていて、もととなった調査から25年近くがたっている。だったら、宮台理論の現代における妥当性の検証と、ここ10年ほど蓄積されてきた社会関係資本の分析を、若者のサブカルチャーに即して考察していこう、というのが出発点でした。『神話解体』以降、日本に本格的にカルチュラル・スタディーズが移入されたり、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』などが公刊され、93年当時とはだいぶ若者文化も、若者文化を分析する視点も変わってきた。このあたりで一度『神話解体』を対照項とする研究をしてみてもいいんじゃないか、と。ただそもそもの科研調査が08年~10年に行われたものですから、実はそろそろ研究開始から10年がたとうとしている。これはいくらなんでも学術論文だけではなく、一般読者に問うような本を仕上げなければ、ということで大急ぎで作業を進めました。遅れた責任はひとえに私にあるんですけれどね……。

――だいぶ北田さんが遅らせたと聞いています。本の企画段階で博士課程学生だった著者の多くが就職されてしまったと(笑)。その遅れの理由は、『神話解体』から25年後、ということと関係があるんでしょうか。

北田■いや、私の怠惰が原因といえばそうなのですが、というかそうです(笑)。ただ、内在的な理由は十分にありました。科研の研究ですから、もちろんある程度の成果の見込みを立てて研究計画を進めねばならないわけで、実際その点は期間内にクリアしていたのですが、データと向かい合いながら議論を重ねていくうちに、『神話解体』の検証という課題、サブカルチャー資本の探究という課題自体が、いまひとつピンと来なくなってきてしまったんですね。『神話解体』や『制服少女たちの選択』で提示された計量分析、つまりコミュニケーションに関する質問項目から類型化をし、その類型ごとの文化的趣味やサブカルチャー志向を、宮台的ルーマン解釈に沿って検証する、という作業はわりと早い段階、プレ調査の段階で行っています。簡単にいうと、分析手法としてはコミュニケーション項目から人間関係の志向性を因子分析で取り出し、そこでえられた因子得点をもとにクラスター分析を行い、人格類型をえる。理論枠組みとしては他者の振舞いに対する予期のパタンにもとづき、「期待はずれ」の場合の対応態度を、体験/行為というルーマンの区分を援用して類型化します。なんか人間関係の予期がうまくいかなかったとき、わたしたちは、それを「自分に帰属する(行為)」、「他者(環境)に帰属する(体験)」といった経験処理をし、そのうえで「自分の期待水準を低める/維持する」など様々な構えをつくっていくわけですが、こうした予期外れへの態度と対応によって類型を理論的に作り、計量データで得られたクラスターを解釈していく、というのが宮台さんの手法です。この点については宮台さんの質問項目をコミュニケーション研究の成果を踏まえて修正し、行為/体験、自己/他者という理論的区別を突き合わせてプレ調査の段階で確認してみました。結果はまあ、いまでも使えると言えば使える、というものでした。

――しかし今回の本にはそうした分析は載せられていません。

北田■はい。これは「解体研」――当時の北田研院生のメンバー――のひとたちと一緒に十分に考えた結果の選択です。簡単にいうと「こういう類型ができた。この類型にはこういう趣味の人が多くて、こういう行為パタンや政治意識がみられる」といったところで、それがいったいなにを説明したことになるのか、どんどん分からなくなっていったんです。少し考えれば分かることですが、他者への期待や予期と、それに対する自分の構えによって類型化すれば、「期待水準を低めて、自分の世界の状態維持を図る」「期待水準を低めず、世界状態の変化に対応する」とかいくつかの人格類型ができる。これは当たり前のことです。それをルーマンの理論を使ってわざわざ説明し、類型ごとの社会的特性を示したところで、いったい私たちは何がうれしいんだろう、という。それで、データはそのものとしても、分析の重点を「類型化」というのではなく、「類型」が理解可能になっているのはいかにしてなのか、というもう少し込み入った問いに踏み込み、あわせてサブカルチャー資本の考察のほうに重きを置くようになりました。

『神話解体』の発刊時期は、まさにバブルの最終時期。いまでいうところの「リア充/非リア」といった区別や、「オタク」的な行動様式の把握そのものが知見たりえた時代だと思うのです。しかし現代においては、そうした類型をなぞり返すこと自体が無意味とはいわないまでも発見的価値はないし、理論的にも寄与できるところはあまりない。ならば、このひとはああいうひと――たとえば「オタク」なら「オタク」――といった人びとの類型化が、趣味と関連していかにして可能になっているのか、そもそも等し並みに趣味というけれども、その場合の趣味というのは、比較対照可能なものなのか(国内旅行とアニメが同じ意味において趣味といいうるのか)。趣味によってひとを分類するのではなく、個々の趣味というものが人びとの分類においてどう機能しているのか、ということに関心を向けていきました。

 

2◇趣味はいかにして社会学のテーマたりうるか

――ちょっとわかりくにいのですが、要するに、サブカルチャーにそくして社会学的分析をしていくとき、分類ありきで考えるのではなく、個々の趣味がどのような社会的な「場」であるかを確認していく、ということでしょうか。

北田■はい。趣味というものが人びとの社会関係を創り出したり、維持したりする機能がある、として、それぞれどのような意味で社会的な関係性とかかわっているのか、ということですね。卒論や修論でよく趣味について論文が書かれたりしますが、趣味ってすごく怖い分析対象だと思うんですよ。アニメならアニメ、音楽なら音楽という趣味がある。それは事実なのですが、それがどのように社会とかかわりを持っているかは不分明であると同時に、私たちは何となくその社会性を知っている。たとえば、初対面の人と「趣味」の話をするときって、ある意味で相手の社会的位置を測定している場合があるじゃないですか。「実は相撲好きで」っていって意気投合できると延々と話ができるものの、「趣味は音楽かな」って言っちゃったりすると、「で、どういうアーティストが好き?」とかになって、全然「趣味が合わず」盛り下がってしまうこともある。映画にしても文学にしても。趣味というのは、他者に対する構えを創り出すなかなかに恐ろしいテーマであると思います。でも全部の趣味がそういうわけではなくて、なかには「ああ、そうなんですかあ」と返すしかないような趣味もある。差異を検出する趣味とそうでない趣味、それがどのように識別されていて、かつ、同じ水準で趣味といいうるのか。考えてみると不思議なことなんです。

私が見た限り、差異・卓越性の検出装置と一番なりやすいのは音楽鑑賞です。これはほとんどの若者が趣味として自認すると同時に、コミットの濃淡があり、またある種の象徴的な資源となりうる「知識」なども確認することができる。逆にいうと、音楽のようにぴたりと卓越化・差異化の理論に当てはまる趣味のほうが珍しいんです。ファッションが似た傾向があるかと思っていたのですが、やはり音楽ほど明確な形では出てこない。一方で自己完結的、卓越化のゲームとの関連性が弱く、自足的に受容される趣味もある。こうしたものを一括してテイストの差異化という論点で見ていくことは不可能です。音楽に適用されうるような差異化の論理を他の趣味に適用しようとするとやはり無理が出てくる。そういう趣味ごとの社会性をあきらかにしていこう、ということです。

ちなみに音楽は本当に怖い。このあいだある友人の研究者から聞いたのですが、SNSで社会学方法論の論争となりほとんど血まみれの格闘をしていたが、だからといってSNSで切れる、ブロックするということはなかった。しかし音楽の話になった途端お互いブチギレて相互ブロックになった、と(笑)。学問上の対立よりも音楽の趣味の対立のほうがシビアなわけです。なぜそういうことになるかというと、やはり音楽という趣味の特異性が絡んでいるわけです。どういう特異性なのかをちゃんと確かめる。本書で試みられているのは、そういうとても基本的なことです。対象は音楽でもジャニーズでもKポップでもアニメでもやおいでもラノベでもなんでもいい。しかし、分析の対象とする趣味がいかなる社会的関係を創り出しているのかを調べないと、「過剰差異化された人間像」を無理に読み込むことになってしまいます。

それにしても音楽は怖いです(笑)。「そういう趣味なんですねえ」と放置しておけない「なにか」が掛け金となっているように思えます。

――「趣味」ごとに趣味の意味が違ってくるということでしょうか。

北田■そもそも日本語の趣味という言葉は独特の両義性を持っていて、現代の英語であればhobby/taste、ドイツ語であればHobby/Geschmack、フランス語でいえばhobby/goûtというように、余暇活動にかかわる文化実践を(たぶん英語由来なのでしょうけれども)ホビーと呼び、美的判断力を示す「テイスト」に該当する語は区別されています。しかし、日本語では、「ご趣味は?」と聞くときも、「あのひと趣味悪い」というときも、同じ趣味という言葉を用いますね。これは日本語の「文化」という概念についてもいえることで、神野由紀さんが研究されているように、言葉の移入自体が興味深い研究対象となります。ともあれ、西洋近代において「個々人が身につけている文化的・美的嗜好」という意味を担うこととなった「趣向 taste」と、余暇活動としてのホビーは別の事柄を指したわけですが、同時にどういうhobbyを好むか、ということ自体がやはりテイストの識別にも関係している。古くはヴェブレンがとりあげた顕示的消費のような「差異化」のための消費は、ホビーの志向と連関している。この点を重視して、ホビーの選択から検出されるテイストが、社会空間における人びとの象徴闘争(卓越化のゲーム)や再生産にどのようにかかわっているか、というのがブルデューの分析課題でした。日本語ではこの二つの要素が同質の言葉に込められているので、私たちはつい「趣味の研究」というと余暇活動・ホビーを想定します。ブルデュー的な文化社会学の課題は、このテイストとホビーとの重なり合いとズレを捉え返すところから出発しなくてはなりません。ブルデューは日常的な文化活動や生活様式、ホビーなどがテイストという観点から統一的に捉えられうる、と想定していたと思われますが、私たちは、まずその想定を検討してみる必要があるのではないか、と考えました。ホビーとしての趣味は必ずしもテイストの表示行為であるとは限らないからです。

ボードリヤール的消費社会論、ブルデューの文化資本論を経て、次の課題としてそもそも「社会にとって趣味とはなんだろう」というものが浮かび上がってきました。消費社会論を批判するあまり、すべての文化実践が差異化の機能を持たず、フラットに併存している、という考えも消費社会論をひっくり返した構図なわけですし、私たちとしては、ブルデューのこだわりどころにもう少しこだわってみたかったということがあります。

大学生の卒論ではよく「ポピュラーカルチャー」や「趣味」がとりあげられます。そのことは全然悪くないのですが、そもそもそうしたものを分析することの社会学的意義ってなんだろう、という問いが消費社会論や文化資本論でさらっと流されてしまったりするんですね。せっかく自分の興味のある趣味を研究するのであれば、その趣味固有の社会性を考えて抜いてほしい、と思うことがしばしばあります。「好きなものを研究する」ことは悪いことではないんです。好きなもののほうがより精細に分析できる可能性が高いのですから。しかし、「好きなもの」を教科書に出ている偉い人たちの理論でぶった切るというのは、実はそのひと自身にとってももったいないことだと思うんです。趣味を介した社会のあり方は、もっと豊かなはずで、だからこそ既存の理論装置に頼りっぱなしになるのではなく、しっかりと調査をして、趣味が可能にする社会空間を描き出してほしい、というのが私の願いです。「好きなものをもっと大切に」というのが、本書のひとつのメッセージですね。

後篇に続く

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■著者追記■

本書執筆の重要な契機となった第二回ブルデュー研究会の開催・コーディネートにあたり、東洋大学の小澤浩明さん、東京学芸大学の浅野智彦さんに多大なご尽力いただきましたこと、本書中に特筆すべきところ、研究会への言及において明示するのを失念しておりましたこと、両先生に心よりお詫び申し上げます。

現時点での修正・修正紙の挿入は物理的にきわめて難しいため、重版を頂きました際には、必ず明記のうえ、あらためて初版での非礼と研究会でのご尽力に感謝申し上げたいと思います。

この研究会は、一回目を受けて、瀧川裕貴さんのご論考をどう各分野の研究者が受け止めていくか、を酒井泰斗さんを中心に、小澤さん、浅野さん、瀧川さんと議論を重ねつつ開催されたものであり、ブルデュー研究の内外、領域毎の展開を共有し、問題を焦点化するうえで、コーディネートの役割はきわめて大きなものでした。学的な研究会が、知識を共有し贈与・返礼していく場として機能することは実はそれほど多くはないのですが、この研究会はまさにそうした場であったと思っております。

本書本文中にもあるように、この本はこの研究会がなくしては成り立ちえないものでした。そのようにご尽力をいただきましたコーディネータを勤めてくださった小澤さんと浅野さんにあらためて心より感謝申し上げたいと思います。(北田暁大)

 

 

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著者

北田暁大

1971年生まれ。東京大学情報学環教授。専門は社会学、メディア史。東京大学人文社会系研究科博士課程退学後、筑波大学講師、東京大学社会情報研究所助教授などを経て現職。著書に『広告の誕生』『広告都市・東京』『意味への抗い』『責任と正義』『嗤う日本の「ナショナリズム」』など。現在は主としてアメリカ社会学における調査史を研究している。

 

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