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今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行記念 往復書簡 「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」第9回 山本貴光→今野真二

10年以上にわたって多彩な視点から日本語をめぐる著作を発表しつづけてきた今野真二さん。その日本語学のエッセンスを凝縮した一冊とも言える『日本語の教養100』が刊行されました。これを機に、今野日本語学の「年季の入った読者」と自任する山本貴光さんとの往復書簡が実現。日本語についてのみならず、世界をとらえるための知識とことば全般に話題が広がりそうな、ディープかつスリリングな対話をご堪能ください。

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今野真二さま

前便では、広い意味での「対話」が多様にありうることをお示しいただきました。時代や場所に応じて、あるいはそのときどきで使える道具や技術に応じて、また、人びとの必要や意識のあり方によって、さまざまな対話の仕方があるわけですね。

例えば、この往復書簡でも何度か触れられてきたように、コロナ禍の大学で、対面か、オンラインか、両者を組み合わせてか、はたまたそれ以外かといった選択肢が意識されるようになったのは、ひとまずよいことだったと思います。講義が一種の「対話」の場だとすれば、どのような方法で対話するかという選択肢が生じたのでした。

私もこの2年ほどのあいだ、従来の対面に加えて、オンライン、対面とオンラインの併用、オンデマンド(録画した講義を配信するやり方)を経験しました。これは人によるのでしょうけれど、それぞれの方法で、やりやすいこと、やりづらいことが違っていると感じています。

例えば、Zoomなどのオンラインでは、自室から講義ができることもあって、紹介したい本や動画などを提示するのも比較的簡単です。自分の書棚から本を取り出してきたり、自分のパソコンに入っている各種データを使ったりしやすいわけです。また、大教室で板書をするとき、大きく書かないと学生から見づらいということもありません。

他方で、学生の多くは(諸事情によって)顔を見せない状態で参加したりします。教室でなら学生のみなさんの表情などを見ながら説明を調整したりもできたわけですが、顔の見えないオンラインではこれが難しくなります。

また、オンラインではパソコンのトラブルが生じると厄介です。私は一度、コンピュータの画面に表示したスライドに書き込むために使っている液晶タブレットが機能しなくなったことがあって、このときは少し調子が狂いました。教室でホワイトボードに書きながら話すなら、そんなことは起きません。

以上は一例ですが、どの方法で行う場合も講義を通じて検討したい内容は同じだとしても、聴講する学生との接触面(インターフェイス)が違うためにできること、できないことが少しずつ違っているのでした。そこで講義する側としては、選んだ方法に応じて工夫も必要となったりするわけです。結果的に伝わることがどのように違うのか、変わらないのかも気になります。

それはさておき、こうして複数のやり方があると分かってみると、それまで選択の余地なく当たり前だと思われていた対面での講義が、必ずしも自明ではなくなるのはなんだか面白いことのように感じます。かつて当たり前だと思っていたことが、そうではなくなる落差でハッとなにかに気づかされる感じと申しましょうか。

今野さんもご指摘のように、仮に大学などが講義は「対面でなくてはいけない」と主張する場合、なぜ他ではなくそれを選ぶのかという理由を問われることにもなりますね。選択肢が増えることで、人のものの考え方も変わるわけです。

少し話が逸れつつ重なるようですが、この点について連想したことがあります。電子書籍がようやく普及し始めたときのことです。これについては、私より今野さんのほうがお詳しいかもしれません。

本をコンピュータで読めるようにする試みは、私の知る範囲では1970年代のパソコンの普及とともに行われてきました。はじめのころは聖書や辞書のテキストをフロッピーディスクやCD-ROMといったパソコン用の記録媒体(という説明がもはや必要ですね)に収めたものもいろいろ出ましたね。また1990年代前半のインターネットでも、すでに文学や哲学などの古典的著作が、主に英語や英訳でしたがテキストファイルで頒布されたりもしていました。

1990年代には、それこそいまではJapan Knowledgeというウェブサイトで読めるようになっている平凡社の『世界大百科事典』や、これも現在ではオンラインで使える『オックスフォード英語辞典(OED)』のCD-ROM版も出て、私も出るたび購入していました。ついでながらデジタルブックプレイヤーや電子辞書も何台試したか分かりません。読書の選択肢が増えることに期待していたのでした。

ただ、なかなか普及には至らず、あれこれ発売された装置や仕組みもやがて消えていくということが繰り返されてきました。日本では本やCDのようなモノとしての形をとらないデジタルデータにお金を払うという感覚は根付かない、という意見を見たこともあります。

そんな中、AmazonのKindleの最初のヴァージョンが発売されたのは2007年のことです。ネット経由で電子書籍を入手して読め、ディスプレイのように発光しない電子ペーパーで目にもやさしくハードも軽い。そうそう、こういうのが欲しかったと思いました。

私がはじめて手にしたのは2009年のKindle2です。たしかツイートしたという記憶があって、Twitterを検索してみたら2009年10月21日に「Amazon.comよりKindle来たる」と投稿していました。

そういえば、今野さんが『契沖全集』についての私のツイートを発見されたというお話を読んで、思わず笑ってしまいました。日本語の文法がどうしていまのようになったのかを辿ろうと思って、関連する文献を集め読んでいたのでした。当たり前のことですが、公開している投稿は、後で誰が見るか分からないものですね。

Twitterには人によっていろいろな使い方がありますが、私はもっぱら「こういうものがある」とか「こういう本がある」といった情報を共有する目的で使っています。いろいろな分野の専門家をフォローしていると、それぞれの人が注目している論文やその分野の動きなども垣間見られて、あちこち見てみたい私のような者にはありがたいのでした。それで、ささやかながらなにかしらのお返しになればというぐらいのつもりで、私も目に入ったものをツイートするわけです。物々交換にも似たゆるやかな贈与の場という気もしています。

話をKindleに戻します。使ってみると、本を読むのと同じというわけにはいかないものの便利ではある。このときは「今度はいけるのではないか。これで電子書籍も普及してゆくのではないか」という感触があったのを覚えています。その頃でしょうか、これからは紙の本はなくなるとか、著者は自分で電子書籍を出せるので出版社は要らなくなるといった意見を見かけるようになったのは。

それから10年ほどが経ち、実際はどうかといえば、いまのところ既存の本と電子書籍は併存しています。これをどう解釈するかはいろいろありそうですが、私の見るところでは、両者は完全に入れ替え可能なものではないためにこのような状況なのかなと思います。かつてCDがレコードを市場から追いやったような形では置き換えられないわけです。

なぜこの話をしたのかというと、講義の話と同じように新たな選択肢が現れることで、従来自明視されていたやり方が見直されるということがこの場合にも起きていると思ったからでした。

電子書籍が実用されるようになってみて、従来の本がどのような道具だったのかを人が以前より考えるようになったと感じています。つまり「読む」という行為の選択肢が増えて、それまで自明だった本を読むということが問い返されるようになったわけです。あるいはそこまでいかなくても、同じ文章について本と電子書籍がある場合、どちらを選ぶのかを人はそのつど決めることになったのでした。

大学の講義についても、選択肢が増えた結果、以前は当たり前だった選択についても、この方法のよい点はなにか、他より不便な点はなにかといったことを検討するチャンスが生じたと思います。目下のパンデミックが収束することがあった場合でも、単に元に戻すのではなく、よりよい講義のあり方を模索する、という方向につなげていければいいなと考えています。

言い換えれば、環境や技術の観点も含めた上で、例えば学問についてのよりよい対話のあり方を考える、ということでもあろうかと思います。さらに言えば、今野さんのさまざまなご指摘を読みながら、そういえば「対話」のいろいろなあり方について、それぞれの特徴をよく見比べて考えてみたことがなかったかもしれない、とも思ったのでした。

それから今野さんが、大学院生たちに対して楽しく学ぶのが大事だと伝えていらっしゃることに大きな共感を覚えました。これは人間につきものの感情の側面に関わることですね。

私も、ものを教える立場になるときは、参加者が楽しみながら取り組めるかどうかを考えるようにしています。そうでないと無理も生じるし、長続きしないからです。なにかを学ぶということは、自分を変化させることで、時間がかかります。こういうとき、つい当人の「やる気」のようなものが重視されたりもしますね。

ただ、自分の場合を顧みると、「やる気」というあまり当てにできなさそうな要素に頼るよりは、仮に「やる気」なるものがどんな状態にあったとしても、その何事かを続けられるような環境や条件を整えるほうが重要にも思うのです。語学でも研究でもなんでもよいのですが、長い時間をかけたゆっくりとした変化のためには、その営みを続けやすい環境こそが肝心ではないか、というわけです。特に自分が怠け者なのでそう思うのかもしれません。

この点について、少し別の角度、ゲームクリエイターの見方を加えてみます。というのも、ゲームの設計には教育やものを学ぶことに通じる要素が少なからずあるのです。

自分でもゲームで遊びながらいつも感じることがあります。ゲームとはなんだか奇妙な営みです。というのも、プレイヤー(ゲームで遊ぶ人)は誰からも強制されていないのに、わざわざ面倒な課題(使命)に取り組みます。そしてたいていの場合、度重なる失敗にもめげることなく試行錯誤を重ねながら達成を目指そうというのですから。こう言葉で書くと矛盾して見えますが、ゲームとは人が進んで苦しみを楽しむ営みである、と要約したくなるほどです。

そんなゲームでは、本来であればやらなくてもよい課題を与えられて、わざわざ取り組みます。しかも完全な自由ではなく、さまざまなルールに縛られて、むしろとても制限された手段だけを使って達成しなければなりません。慣れないうちは失敗だらけで、ゲームのなかで生じうるありとあらゆる失敗を味わう場合もあります。しかし、ここが面白いところで、ゲームのなかで失敗するたび、私たちは「よし、分かった。次はもっとうまくこなすぞ」と奮起して再挑戦したりするのですね。

こうしたゲームの奇妙に思える性質を説明する際、よく例に出すのはゴルフです(実際のスポーツとしてのゴルフでもよいですし、デジタルゲームにしたものでも構いません)。

ゴルフとは、言ってしまえば小さなボールを遠く離れたホールまで動かすゲームです。しかもただ動かすだけでなく、細長い棒(クラブ)を使うという制限があります。ボールを手にもってホールまで歩いて入れてよければ、もっと簡単なところ、わざわざやりづらい手段が用意されているわけです。加えて「この打数を目安にどうぞ」という数値があって、それ以上打つとかえってマイナス評価になったりもします。当然のことながら練習なしには上手にプレイできませんし、練習の過程や実際のプレイではたくさんの失敗もやらかすに違いありません。いまゴルフについて述べたことは、他のさまざまなゲームにも通じます。

そうしたものであるゲームをつくる場合、こんなふうにして本来やらなくてもよい課題、しかも簡単には達成できない課題を設定することになります。加えて、その課題を達成するための限られた手段を用意する。そしてプレイヤーが失敗するか成功するか、どのくらい上手にできたかを評価する。うまくできなければプレイヤーを罰し(といってもゲームが途中で終わるだけですが)、うまくできたら褒める(もっと遊んでいいよと促す)。加えて、できれば失敗にめげず繰り返し遊びながら、だんだんと上達して自分が変化する様子を楽しんで欲しい。ゲームクリエイターは、ゲームを通じて遊ぶ人が試行錯誤と失敗をむしろ楽しみながら変化する経験を設計しているわけでした。

要点は試行錯誤と失敗をそれでも楽しみながら繰り返すうちに、自分が変化してゆくプロセスというところです。ゲームがもっているこうした性質をなんらなかの学習やトレーニングに応用する試みもあって、「シリアスゲーム」と呼ばれるジャンルもあります。

これで先ほどの「楽しく学ぶ」という話に戻ります。学校で講義をするとき、ゲームの設計で遊ぶ人の体験を設計するように、楽しみながら試行錯誤してなにかを身に付ける(変化する)というやり方がありえると思うのです。おそらく、自分で試してみる、その際失敗が許容されるというところがポイントです。

例えば、学生が自分の理解を言葉にしてみる、問いをつくってみる、答えようと試みてみる。はじめはうまくできないかもしれない(だからこそ学ぶ意味もある)。でも、教師の助言や指導を参考にしながら繰り返すうちに、できることが増えていく。

特にまだ身についていないことをこれから学ぼうとする場面では、試行錯誤、とりわけ失敗する経験が大事だと思うのです。というのも、失敗した場合、なぜそうなったのかを考える機会を得やすいからです。すんなり成功した場合、なぜうまくいったのか、かえって意識されないこともあります。ただし、失敗するのは恥ずかしいし嫌だという気持ちが邪魔をすると、なかなか試行錯誤しようということにもなりにくかったりします。

その典型は講義中での発言です。例えば、コンピュータの仕組みについて解説をしたあとで「なにか分からないところやご意見があれば遠慮なくどうぞ」と促すと、入学直後の教室ではあまり発言が出てきません。もちろん不慣れな環境ということもあろうかと思いますが、質問したりコメントしたりすることに慣れていないのが原因ではないかと思います。

学生と話す機会に訊いてみると、「こんなことが分からないのは自分だけで、それを質問するのは恥ずかしい」とか「自分の質問で講義の限られた時間を使うのは気がひける」とか「不適切な質問だったらいやだ」と感じるという人もいました。もっともこんなことを書いている私自身も大学生の頃までは、しなくてよいなら発言しないという姿勢でしたので、かれらの言うこともよく分かるように思います。

そこで教室では、そうした心配はしなくてよいということを、手を変え品を変えて伝えるようにしています。間違っているか正しいかではなく、どんな疑問や考えが浮かんだかを出してみて、それを手がかりに考えるというわけです。結果的に間違った考えでも、検討の過程でなぜ間違っていると言えるのかを考え、理解できればよく、そうした検討をやがて自分でもできるようになればよい、というやり方ですね。

はじめのうちは質問する人も少ないのですが、「いい質問ですね」「いまの質問はこういう意味ですか?」「面白いですね、ありがとう」と提示された質問や意見を受けとって、それをもとに話すということを繰り返していくと、やがて多くの人が積極的に発言するようにもなります。要するに教師の側が、誤解や無知を馬鹿にせずあなたの話を聴きたいという姿勢をもっていることが伝わった結果だろうと思います。

また、先ほども述べたように、なにかを学ぶには長い時間が必要だということがあります。コツコツと読んだり考えたり書いたり話したりといった営みを積み重ねる他に近道はないわけです。こうしたことを長く続ける上で肝心な条件の一つが、やはり楽しさを感じることだと思うのでした。

それに楽しさを感じないことを長く続けるのは不可能ではありませんが、精神衛生上よろしくありません。場合によっては調子が崩れてしまいますから、無理は禁物です。とは、昨今、企業でも学校でも無視できない要素であるという認識が広がりつつあるところでしょうか。

今野さんがマルク・フェマロリの言葉を引きながら、「人間の情念」「感情」の重要性に触れておられるのを読んで以上のようなことを考えたのでした。

今野さんが引用した箇所でフェマロリが指摘しているように、論証には理性による論理だけでなく、感情と結び付いた修辞学も必要であるという見方は大変重要だと思います。

思い返せばヨーロッパでは、既に古代ギリシアのアリストテレスが『弁論術』でも詳しく検討して指摘していたことでもありました。『弁論術』には人を説得して動かすための言葉の選び方や論の構成に加えて、聴衆の心理をどう動かすかを考えるために必要な、いまでいう心理学の要素も入っています。

例えば『弁論術」の第二巻は、「聴き手の心への働きかけ」という概論から始まり、「怒り」「穏和」「友愛と憎しみ」「恐れと大胆さ」「恥と無恥」「親切と不親切」「憐れみ」「義憤」「妬み」「競争心」といったさまざまな感情について、また年齢ごとの性格の変化、家柄や経済状況や権力などの運に関わる人の性格といったことが検討されているのでした(戸塚七郎訳、岩波文庫版の目次より)。

また、古代ギリシアに端を発するヨーロッパでのリベラルアーツ(自由学芸)の典型的な構成のうち言語に関わる三科目には、文法、論理に加えて修辞学がほとんど必ず入っていました。これもまた、人の感情の要素を無視せずに考慮に入れていたと見ることができそうです。

他方で急に話が飛ぶようですが、昨今さまざまに実用化も進んでいる「人工知能」と呼ばれるプログラムは、考えてみれば感情抜きの理性のみ、修辞学なき論理のみを抽出する試みであると捉え返せますね。その「人工知能」に対して人間はそれこそ心配や不安から期待や好意まで、さまざまな感情を抱きながら使ったり接したりしているわけです。

このところ感情やその歴史の研究も盛んになってきていますが、ひょっとしたら私たちはまだ、さまざまな場面においてお互いがどのような感情の状態にあるのか、感情がそうした場面でどのような働きを持つのかといったことを、よく知らないままでいるのかもしれません。

これはこの往復書簡を通じて話題にしていた各種の「対話」のあり方や、学術に関わる営みにも言えることです。対話の場に関わる人びとの感情、講義やゼミの場に参加する人びとの感情といった要素は、人が言葉を交わしたり学んだりする際、どのような役割を果たしているのか。この四半世紀くらいを通じて徐々に増えてきた各種のハラスメントの指摘は、そのネガティヴな面に光を当てて、私たちの意識にのぼるようにしたものとも言えそうです。では、ポジティヴな面はどうか。これについては、今後改めて考えてみたいと思います。

というわけで、ついついあれもこれもと長くなりがちなのですが(これでも多くを省いているのですが!)、このたびの今野さんとの往復書簡を通じて、自分だけでは知る機会が訪れなかったかもしれないことを知り、自分だけではとても思いつかないことを考える機会をいただきました。

この場では全10回という予定で始まったこともあり、いったんここで私からの書簡を終わりたいと思います。もとより、なにかの結論へ向かっていく議論ではなく、カードを出しあいながら、どんな場が生まれるかを楽しんでみようという試みでした。果たして何を述べあったことになるのかは、きっとあとから読み返すことで見えてくるのだろうと楽しみにしています。もちろん、こうした「対話」をこの後も続けられたらと希望しています。このたびは、貴重な機会とお時間を賜り、ありがとうございました。今野さんの「最終回」も楽しみにしています。

2021.12.01
山本貴光

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著者

山本貴光

(やまもと・たかみつ)
1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。東京工業大学教員。著書に『記憶のデザイン』(筑摩選書)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満との共著、本の雑誌社)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『世界を読み解く科学本』(編著、河出書房新社)など。

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