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今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行記念 往復書簡 「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」第3回 山本貴光→今野真二

10年以上にわたって多彩な視点から日本語をめぐる著作を発表しつづけてきた今野真二さん。その日本語学のエッセンスを凝縮した一冊とも言える『日本語の教養100』が刊行されました。これを機に、今野日本語学の「年季の入った読者」と自任する山本貴光さんとの往復書簡が実現。日本語についてのみならず、世界をとらえるための知識とことば全般に話題が広がりそうな、ディープかつスリリングな対話をご堪能ください。

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今野真二さま

お手紙、うれしく拝読しました。今野さんが書いてくださった「なれそめ」を読みながら、こうした出会いとは、風吹けば桶屋が儲かるではありませんが、それと意図したわけではない複数の出来事が重なって生じたりもするのだな、と改めて面白く感じています。これは後から振り返ってみればのことではありますが、『図書新聞』の編集の方が、『乱歩の日本語』の書評を山本に依頼しなかったら、今野さんが私にメールを書くきっかけも生じず、いまこうしてやりとりをしていなかったかもしれないわけです。

それから、(と、ついお手紙を横に置いて読みつつこれを書いていることもあって、こんなふうに話が飛ぶのですけれど)知識をどのように伝えるか、共有するかという点について、おっしゃるようにいま、さまざまな場所で試行錯誤が続いていますね。私もこの春から担当している大学の授業を、オンラインで行っています。講義する立場からすると、学生の様子や表情を見られないので、いまひとつ手がかりに乏しく、ラジオ番組でもやっているような気分もあります。落語などの話芸では、場のお客さんの様子を見ながらこまやかに調整をかけると言いますが、講義にも似たような面があると思うのです。そういう点では、ちょっとやりづらくもあります。

他方で、オンライン講義の利点も感じています。目下は150名くらいが参加しており、これが講義室だった場合、促してもなかなか質問が出ないものです。オンライン講義では、チャット機能を使って、いつでもテキストで質問を送れることもあってか、たくさんの質問や意見が提示されます。私はどちらかというと、一方的に話すよりも、聴講者と対話を重ねながら進めるのを好むこともあり、これはとてもありがたい状態だと感じています。質問のおかげで、予定では話すつもりがなかったことも検討する機会が生まれたりします。対面であれ遠隔であれ、使える手段によって、よりよい知識の伝達や共有のしかたを工夫して、使い分けてゆくということになるのでしょうね。

これまた書いてくださったように、この往復書簡の場では、「知識の沼」に浸かりながら、人と人とが直接会ったり会わなかったりしながら、知識を共有することでともに楽しむ、遊ぶということについても考えてみたいと念じております。

さて、お尋ねくださった索引について話してみたいと思います。

今野さんが例に挙げてくださった「taking seriously©リチャード・ローティ」という表記は、『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版、2016)の共著者である、吉川浩満くんが好んで使うものなのでした。「これは私たちが考えた表現ではなくて、借り物ですよ」ということを、わざわざ文献のページ数を記すまでもないものの、その表現の考案者に対する敬意とともに示しておきたい、という場合に使ったりします。そこはかとないユーモアも漂うようで、私も気に入っています。

同書の索引についてお話しするにあたって、ちょっと前置きをすると、『脳がわかれば、心がわかるか』には、元になった本がありました。『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(朝日出版社、2004)といって、私たちがはじめて書いた本です。編集を担当してくださった赤井茂樹さんの行き届いた示唆や助力のおかげで、本とはこうやってつくるのかと学びながらのことでした(ただし、吉川くんは国書刊行会に勤めた経験もあり、私に比べれば本作りのことを知っていたと思います)。同書の索引をつくるとき、吉川くんとどんな索引にしようかと検討したのです。

その際、索引が印象に残っている本について話しあったのだと思います。「思います」というのは、もう17、8年前のことで、記憶も曖昧だからです。そう言いながら、そこで例に出た本のことは不思議と覚えています。ちくま学芸文庫に入っている『ニーチェ全集』(全15巻+別巻4、筑摩書房)です。この全集で巻末の索引を見ていると、「え、これはなんだろう」と気になって当該ページを見てみたくなるような言葉があれこれ拾ってあるのです。というのは、もちろん当の著者であるニーチェが、そうした言葉を使って文章を書いているからなのですが、それを索引の見出し語にしてあるのがいいなと思ったわけです。

例えば、「古典ギリシアの精神」と題された第1巻(戸塚七郎、泉治典、上妻精訳)には、古典文献学者として出発した若き日のニーチェの講義ノートなどが収録されています。巻末の索引は、「人名索引」「神名索引」「地名・民族名・氏族名索引」「事項索引」に分かれており、もちろんこれで尽くされているわけではないにしても、24ページにわたる索引は、一種の古典ギリシア百科全書の項目一覧のようでもあります(訳者のあとがきによれば、これでも当初用意した索引を編集上の都合によって半ば割愛したものとのこと)。そこには知っている名前もあれば、同書を読んで目にしているはずなのに(!)、知らないように感じる名前も多々あります。

いっそう興味を惹くのは「事項索引」です。例えば、いま久しぶりに眺めてみたら、「「異」θάτερον」「解説師 Exegeten」「神聖剥奪 exauguratio」「数学 Mathematik」「七日一週制 Siebentätige Woche」「リボン ταινíα, infulae, vittae, Binden」といった語が目に留まりました。目下の自分の関心事から気になるものもあれば、本の内容を覚えていないために「これはなんだろう」と気になるということもあったりします。

例えば、あまり数学の話をしている印象のないニーチェが、数学について何を述べていただろう。そう思って当該箇所を見ると、プラトンの哲学を論ずるなかで、イデア、物体と並んで数学的対象を重視していたという議論がなされているのが目に入ります。索引に「数学」という言葉が入ってなかったら、こんなふうに読み直すこともなかったはずだと考えると、索引の効能が身に染みるところです。

これに対して、いまなら電子版で検索をかけられるのだから、索引なんてなくてもいいんじゃない? という考え方もありそうです。なにしろ索引は、誰かが選んでおいた言葉だけが並ぶものですし、検索なら、自分で調べたい言葉を入力して探ることもできる。これは大変便利で、私も活用しています。

他方で、検索にはちょっとした(あるいは大いなる)限界もあります。そもそも電子化されていない本は検索できないという前提があるのはともかくとして、電子テキストがある場合でも、検索する人が思い浮かべられる言葉しか検索できません。例えば、先ほどの例のように、ニーチェの本に対して「数学」という言葉で検索してみようと思いつくかどうかは、人によります。それはそういうものだし、それでいいのではないか、という考え方もあると思います。私としては、索引と検索は別の働きをするものなので、使い分ければよいと考えています。

ついでに付け加えると、索引に物足りなさを感じたら、自分で追加してもよいですよね。実際、詳しく読みたい本や繰り返し読む本については、自分で索引をつくることがあります。読みながら気になった言葉を拾って、それがどこにあったかを記録する。この場合、普通なら索引語にならないような、「ニーチェが思考法を検討している箇所」とか「思わず笑った箇所」なども索引に入れることができます。こう考えてみると、索引をつくるのは、本をどう読むかということにもつながっていそうです。

話を戻せば、そんなふうに、印象に残っていた「ニーチェ全集」の索引を思い浮かべて、自分たちの本でも、使いやすいのはもちろんのこと、できれば眺めて楽しい索引にしたいね、と吉川くんと話しあったのでした。

さて、今野さんに伺ってみたいことに話をつなげていくために、角度を変えて、もう少し索引について述べてみます。

索引とは、いうなればその本の成分表示のようなものですね。食料品のパッケージに栄養素などが記されているあの表記と同じように、なにからできているかを示すわけです。これは半ば、読者のみなさんに向けての説明になりますが、特に学術書やそれに類する本の場合、書き手がどんな概念や文献や他の書き手の議論を参照しているのかは、それ自体重要な意味をもつものです。

というのも、私たちはなんでもかんでも自分だけで考えられるものではなくて、というよりも、知っている(と思っている)ことのほとんどは、他の誰かが発見した結果だったりします。知識を伝える手段として使っている言葉からして、自分でつくったものではありません。つまり、私たちは、過去に誰かが考えたり見つけたり言葉にしておいてくれた知識によって、世界や社会や人間について理解しているわけです。この点については、学校その他で学んだ知識をもっていなかったら、と想像してみると痛感されるはずです。例えば、空に浮かぶ月について、宇宙や天体についての知識を一切持ち合わせていなかったら、自力でなにをどこまで説明できるか。そう考えてみると、結構覚束ないのではないかと思います。

私たちがものを考えたり書いたりするとき、自覚しているか否かにかかわらず、自分で発見したり表現したわけではない、それはたくさんの知識のお世話になっています。そうした知識の一部を使って、言ってみればそれを足場にしてものを考えたり書いたりしているのでした。

これについては、アイザック・ニュートンによく知られた言葉があります。彼が論敵でもあったロバート・フックに宛てた手紙のなかで、こんなことを記していました。

「もし私がいっそう遠くを見渡せたのだとしたら、それはとりもなおさず巨人たちの肩に立ったからこそなのです」(★1)。

★1――原文は”If I have seen farther, it is by standing on the shoulders of giants.”(5 February 1675/6)。出典はEdited by H. W. Turnbull, The Correspondence of Isaac Newton, Volume 1 1661-1675, Cambridge University Press, 1959, p.416。こうした注記は、書簡らしくないかもしれませんが、ウェブ連載という利点を活かして、ご関心のある向きのためにこのような出典などもお示ししてみようと思います。

面白いことに、この表現もまた、ニュートンのオリジナルではなく、彼に先立つ用例があるようですが、いまは措きます(★2)。ここでニュートンは、自分がなにごとかを発見できたとすれば、それは先人たちのおかげだと言っているわけです。「巨人」という言葉がなにを喩えているのかについては、解釈が少々分かれるかもしれません。私は、「先人たちが発見した知の集積」を指していると読んでいます。しかも「巨人たち(Giants)」と訳したように複数いるのですね。この往復書簡のタイトルに「ことばで巨人の肩にのる」とあるのも、その顰みに倣っているのでした。

★2――「巨人の肩の上」という表現については、ロバート・K・マートンが『巨人の肩に立つ』(未邦訳)という本で、その出典を追跡しています。Robert K. Merton, On the Shoulders of Giants: A Shandean Postscript, The University of Chicago Press, 1965という原書の書名に見える”Shandean”とは、ローレンス・スターンの脱線小説『トリストラム・シャンディの生活と意見』の主人公の名前にあやかった形容詞で、あちこち脱線するという含意があります。

この喩えを使って言い直すなら、索引とは、その本の著者がどんな巨人たちの肩に乗ったのかを示す資料でもあるわけです。

ただし索引は、多くの場合、選ばれた言葉を五十音順やアルファベット順などで配列します。それこそ読者が言葉を探しやすくするための工夫ですね。そのように並べられた言葉は、言ってみれば文脈から切り離されたバラバラのものでもあります。「ニーチェ全集」第1巻の索引では、「夢」と「欲望」のように、関連がありそうな言葉がたまさか並ぶケースもありますが、他方では「理想」と「リボン」という関連のない言葉も隣同士になる。ここでは探しやすさを優先して、言葉同士の関係は二の次にしているわけです。

本の索引を使いながら、ときどき電子テキストの索引を自分なりに設計するとしたら、どんなふうにするかと考えることがあります。満たしたい条件を整理すると、こんな具合です。

❶ 本の構成要素を提示する。

❷ 眺めて楽しく発見を促す。

❸ 検索語を五十音順などで探しやすく配置する。

❹ ❸に加えて、検索語同士の関係を表示できる。

❺ 索引と対応する本文を並べて閲覧できる。

❻ 利用者が検索語を追加したり、書き込んだりできる。

六つ並べてみました。ほとんどの条件は、難なく実現できるものです。ただし、❹だけはちょっと性質が違うかもしれません。というのも、検索語同士の関係を示すためには、言葉と言葉のあいだの関係をなんらかの基準で設定する必要があるわけですが、その設定の仕方は、作り手のものの見方次第でいろいろありうるからです。

例えば、ピーター・マーク・ロジェによる『ロジェ類語辞典(Roget’s Thesaurus of English Words and Phrases)』(初版、1852)では、アルファベット順ではなく、独自の分類に従って言葉を配列していました。インターネットで公開されている第2版(1853)を見ると、はじめに分類表が載っています。大きくは「抽象的な関係」「空間」「物質」「知性」「意志」「感情」という六つのクラスに区別されている。各クラスはさらに複数のセクションに区別されています。例えば、「抽象的な関係」であれば、「存在」「関係」「質」「秩序」「数」「時間」「変化」「因果」という具合です。

では、この類語辞典で本文の最初に登場する言葉はなにかというと、ExistenceとInexistence、日本語に訳せば「存在」と「非存在」という二つの語なのです。

 

抽象的な関係(ABSTRACT RELATIONS)

 存在(EXISTENCE)

  抽象的な存在(BEING, IN THE ABSTRACT)

   存在(EXISTENCE)

   非存在(INEXISTENCE)

(『ロジェ類語辞典』における語の分類と位置づけの例)

 

これは一つの見識だと思います。言葉と言葉の関係を示し、あるいは分類を施すことで、ある言葉を、他の言葉のあいだに位置づけるわけです。これは索引ではなく、辞書の見出し語の並び順の話ですが、もし電子テキストについて索引をつくるなら、同様の仕掛けを入れることができると思うのですね。先ほどの「ニーチェ全集」第1巻の例なら、「数学」という索引語が、同書の文脈においては「イデア」や「物体」という語と関係していること、それはプラトンの哲学という枠組みに関わっていることなどを示すわけです。

こうなると、その本の内容や理解にも関わってくるので、機械的につくるわけにはいかなさそうです。索引制作者の読解や世界の見方によって、さまざまな言葉の網目が編まれることになるように思います。例えば、日本の辞書やそれに類する書物でも、比較的古いものでは、全体を三才というのでしょうか、中国風の天地人という分類で大きく捉えておいてから、さらに小分類を施すといったこともあったかと思います。これに限らなくてもよいのですが、言葉の分類の仕方や、言葉と言葉の関係の捉え方についてお話を伺えたらうれしく存じます。

 

2021.05.17

山本貴光

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著者

山本貴光

(やまもと・たかみつ)
1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。東京工業大学教員。著書に『記憶のデザイン』(筑摩選書)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満との共著、本の雑誌社)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『サイエンス・ブック・トラベル』(編著、河出書房新社)など。

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