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今野真二『日本語の教養100』(河出新書)刊行記念 往復書簡 「知識の沼――ことばで巨人の肩にのる」第8回 今野真二→山本貴光

10年以上にわたって多彩な視点から日本語をめぐる著作を発表しつづけてきた今野真二さん。その日本語学のエッセンスを凝縮した一冊とも言える『日本語の教養100』が刊行されました。これを機に、今野日本語学の「年季の入った読者」と自任する山本貴光さんとの往復書簡が実現。日本語についてのみならず、世界をとらえるための知識とことば全般に話題が広がりそうな、ディープかつスリリングな対話をご堪能ください。

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山本貴光さま

前便で(という表現がWebに公開されているこの往復書簡にあっているかどうかわかりませんが、書簡風ということで使ってみることにしましょう)、山本さんが往復書簡を流れる時間について「現代においてますます貴重なゆるやかさを湛えたもの」と述べているのを拝見して、ほんとうにそうだと思いました。

今野は、パソコンに向かっている時間がかなりあり、メールが来るとすぐに返信をすることが多いので、次の日になっても返信ができなかった時に「大丈夫ですか?」と安否確認のメールが来たことがあります。これは(笑)とでもしておけばいいようなことですが、双方が都合がよい時に読み、返事を出してもよいはずのメールに「夜分失礼します」とあったりするのをみると、メールのやりとりにも「リアルタイム」感が濃厚になってきたように感じます。メールも何度でも読み返すことができるわけですが、そもそもそういう「媒体」とは考えられていなかったように思います。

現代においては、書簡(手紙)やはがきのやりとりの機会がきわめて限定されるようになってきていると感じます。今野は、かつては、論文の抜き刷りを送っていただいた時のお礼状のために、鳩居堂のはがきを買っておき、綺麗な切手も揃えておくということをこころがけていました。しかし、気づいてみると、いつのまにか、添えられているメールアドレスにメールを出してお礼を申し述べるというようなことをしていました。レコードがCDになったり、カセットテープが使われなくなったり、フロッピーディスクがUSBメモリーになったり、というような、情報の蓄積や情報交換のための「媒体」の変化にはなかなか抗いがたいように思います。

今、必要があって、『契沖全集』(全16巻:1973-1976年、岩波書店)を読んでいます。今野は卒業論文で契沖を採りあげたので、その時に古書として購入したものですが、その時は12万円もしました。今は安ければ6分の1ぐらいで入手することができるようです。古書の価格も需要と供給のバランスによって決まるのだとすると、かつてよりも需要がなくなっているということになります。『契沖全集』を必要とする人が少ないということがそのまま『契沖全集』を読む人が少ないということではないにしても、読む人が多くはない、ということはいえるでしょう。『契沖全集』の価格がさがっているということを「人文知」という枠組みに置くと、また、いろいろな考えが浮かんできますが、今はそこには踏みこまないことにしましょう。

とここまで書いてきて、ちょっとインターネットを調べていたら、なんと2018年5月6日に山本さんが「『万葉代匠記』に用があり、それならいっそと注文」とツイートしているのを発見! 山本さんは岩波版の『契沖全集』をお持ちなのですね。

『契沖全集』全16巻は『万葉代匠記』が7巻まで(7巻には『厚顔抄』も収められています)、8巻は『古今余材抄』、9巻は『勢語臆断』『源語拾遺』など、10巻が「語学」で、11-12巻が「名所研究」、13巻が「和歌」、14巻が「随筆」で、15巻が「雑抄」と「書入1」、16巻が「書入2」「遺文」「書簡集」にあてられています。

全集には編集行為が伴うので、編集方針はいろいろあることになります。もっともはやく成ったテキストから時間軸に沿って並べるというやりかたはひろくみられると思いますが、内容ごとに整理をするというやりかたもあるでしょう。それでも「書簡」の類は全集の終わりのほうに収められるのではないでしょうか。

卒業論文では、契沖の言語観をテーマにしたので、第10巻を主に読みながら、『万葉代匠記』『古今余材抄』『勢語臆断』『源語拾遺』などに目を通しました。第15巻第16巻にはほとんどふれていなかったのです。

今回は第15巻、第16巻に目を通しています。それは必要があってのことなのですが、現時点では「書入」や「書簡」の重要性を感じています。それがわかるのに、40年ちかくかかったことになりますから、ほんとうに「お笑いぐさ」ではありますが、わからないよりはよかったと思っています。

江戸時代であっても、離れた土地にいる人と頻繁に会うことはできません。宣長には『本居宣長全集』(1968-1977年、筑摩書房)(全20巻+別巻3巻)がありますが、その第20巻に「授業門人姓名録」が収められています。この「授業門人姓名録」も幾つかのテキストがありますが、それについて述べるとさらに「脇道」に入っていくことになります。「脇道」は大事だし、「脇道」には「脇道」の楽しさがあるのですが、ここでは控えておくことにします。

残されている「授業門人姓名録」からすると、宣長には、490名前後の門人がいたと思われます。門人の住む地域としてみると、陸奥国から日向国、肥後国まで、つまり青森県から宮崎県、熊本県に及び、大袈裟にいえば、北は青森県から南は九州まで、ということになります。こうなってくると、師と門人とのやりとりのおもな手段は書簡ということになります。宣長と門人との「答問」を記録した「鈴屋答問録」は岩波文庫にも収められています。この「鈴屋答問録」のテキストについても、いろいろとお話ししたいことはありますが、それもここでは控えておきます。

門人が師に手紙で質問をし、師がそれに手紙で答えるということもひろい意味合いでは「対話」形式に含まれるのではないでしょうか。師弟が同じ時間空間にはいない、すなわち具体的な「(言語)場」は共有されていませんが、「(言語)場」が共有されていないと「対話」ができないということはない、という好例のように思います。あるいは「場」が共有されていないと「知にかかわる情報交換」ができないということではないこともこれでわかるわけです。

これを書いているのは2021年の9月ですが、その時点では、このことと大学の授業が自然に結びついてきます。「大学の授業は対面でなくてはいけない」ということを主張するのであれば、なぜ「対面」でなければ大学の授業が成り立たないかということについての説明が必要になるはずです。オンラインで会議をやるシステムでやっていることは「対面」ではないのかということもあるかもしれません。新たな状況が新たな問いをうみ、これまで疑問をもたなかったことがらについての疑問がうまれる。そうしてうまれた疑問にきちんと向き合うことは大事だと考えます。

さて、話を戻さなくてはいけませんね。契沖は泉州(和泉国)の地誌を記した『泉州志』(元禄13:1700年序:全6巻)の編纂者である石橋新右衛門直之あてに、(元禄8年)9月13日に書簡を出しています。契沖が「所望」していた「松二本」をうけとったことの礼状なのですが、松とともに送られたと思われる石橋直之の歌「移し植て庵の外面の松風に千年も法の声は絶えし」を「移し植るいほりのにはの松風や千年も法の声にましらん」と添削して、記しているのは、まあご愛敬ということにしておきましょう。

興味深いのは、この書簡の中で、契沖が「拙僧万葉集発明は彼集出来以後之一人と存候。且其證古書に見え申候」(拙僧、万葉集、発明はかの集出来以後の一人と存じ候。かつその證、古書に見え申し候)(=私の『万葉集』に関しての発見は、『万葉集』ができて以後の(研究者の)一人である(ことを示している)と思っています。そしてその「證」は古書(そのものに)見えると思っております)と述べていることです。このことはすでに井野口孝『契沖學の形成』(和泉書院、1996)によって指摘されていたことですが、こうしたことも、書簡を読むことによってわかります。

井野口孝氏によって指摘されていたことから、実際に『契沖全集』第16巻を調べてみて、指摘されている「事実」を確認するとともに、その書簡全体を読む、あるいはその前後に収められている書簡を読むということによって、いろいろなことに気づき、その「気づき」によって新たな考えが始まる。こうしたことは、「非対面」の「対話」と呼んでもよいかもしれません。「知」は一人でうみだすようなものではなく、他者との間にうまれてくるものかもしれません。他者との間というと、「ネットワーク」とか、「引用」とか「間テキスト性」とかいろいろなことが頭をよぎりますが、今野の分を超えていることでもあり、こうしたことについてもここではふみこまないことにします。

『契沖全集』第15巻、第16巻には「書入」も収められているので、そのことについてはふれておきたいと思います。第15巻には『新撰萬葉集』を初めとして18の、第16巻には『竹取物語』を初めとして12の、契沖が書き入れをしたテキストが収められています。「書き入れ」といえば、そう山本さんの『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社、2020)ですが、「読書とはツッコム事と見付けたり」(50頁)、「攻めの読書は創作のエンジン」(58頁)というタイトルの章があります。

賀茂別雷神社(上賀茂神社)の三手文庫に蔵されている、寛文7(1667)年に出版された20巻本『和名類聚抄』の行間及び上部欄外には夥しい書き入れがあって、その書き入れのすべてが契沖のものではなさそうではあるけれども、書き入れの中には契沖のものが含まれていると思われるために、『契沖全集』第16巻にこの『和名類聚抄』が収められています。

契沖には「和名抄釈義」という名前で呼ばれているテキストもあり、今野はこのテキストについて調べたことがあります。書き入れを抜き出してまとめて新たなテキストがうまれることもあるわけです。書き入れは、当該テキストの「読み手」が当該テキストに刺激され「反応」した結果といってもよいですよね。それは新たな「気づき」を含んでいることが多いことでしょう。これも「対話」といえそうです。

三手文庫に蔵されている寛文7年版『和名類聚抄』にある書き入れは、どれが契沖のもので、どれが契沖以外の人物のものかということがはっきりとは区別できていません。全集の「凡例」によれば、「書入には、墨書、朱書、褐書、藍書、薄紅書などがあり、更に墨書や朱書には各二筆異常あるように思われる」とあって、何次にもわたって書き入れがなされた可能性があります。つまり書き入れた人物を特定できない書き入れが少なからずあるということです。

しかし、実際はそういうことが多く、本文に書き入れがあって、それと同じように見える墨色、筆跡で奥書にでも誰々が書き入れたということが記してあれば、いいのですが、そういうことは少なくて、誰が書いたかわからないことが多いですね。しかしその書き入れは過去のある時に、確実に誰かが書き入れたもので、それを「よむ」こともやはり過去との「対話」といえそうです。こう考えると「対話」は確実に「知の技法」の一つでしょうし、「対話」の概念をひろくとらえることによって、いろいろなところにいろいろなかたちの「対話」があることにも気づきます。もちろんこの往復書簡のような「対話」もあります。

師弟の間での「対話」はだいたい緊張感を伴いそうですね。今野はいつも大学院生などに、楽しく学ぶのが大事だと伝えています。学生や大学院生と気楽に会話をすることを大事にしているつもりです。そのようにできているかどうかはわかりませんが、とにかくそのように心がけています。これには理由があるのですが、その理由はここには書きにくいので、控えます。楽しいとまでいかないにしても、緊張感ではなく、安心感、解放感のある空間で「対話」をするのが理想だと思うのです。

山本さんとのゲンロンカフェでの対談や、この往復書簡など、どれもそうした楽しさを感じます。それもまた大事なことといえるでしょう。前便で山本さんがふれていたので、マルク・フェマロリの『文化国家――近代の宗教』(天野恒雄訳、みすず書房、1993)を購入してみました。「脊椎動物と無脊椎動物」というタイトルの章には「言語は世代間、もっとも遠く離れた時代間の絆であり、超越性を帯びている」(315頁)と述べられていて、「うんうん」と思いましたが、次のことばにはさらに目がとまりました。

 リベラルな民主制の政治組織にさらに合ったもうひとつの問題は論証であり、これは論理と関連していて、これのみが他との合理的な対話を築き、人間に関わる事柄の相対的な不明瞭さに光をもたらす手段を与えるものである。だがこれらの事柄においては理性のみではしばしばその限界に遭遇する。したがって修辞学は論証の技術に人間の情念を結びつけるものである。人間の情念は、たしかに時代から時代、環境から環境へと変わるものだが、それでもかなり一般的、普遍的な特徴を呈しているため、この点で“人間の本性”について語り、いかに変成的であろうとその恒常的な特徴を知ることができる非合理的な原動力なのである。ということは、他を観察し、理解するのと同様に自己を知ることであり、また古典の詩、演劇、歴史、小説、哲学の偉大な作品、まずはギリシアとローマの作品を読むことである。修辞学という科目は人間生活の経験についての根源的かつ根本的な施策と切り離すことはできない。

「人間の情念」は「感情」ということで、「論証」すなわち「論理」はもちろん大事なわけですが、同時に「感情・情念」も人を動かすということだと思います。この言説は、人文学の必要性までが話題になるようになった日本の現在や大学の教育のありかたなどについても問題提起をしているように感じます。

フェマロリはマルセイユ生まれで、コレージュ・ド・フランスの教授であるので、「ギリシアとローマの作品」はごく自然な展開でしょう。ここは「古典」とでも置き換えれば、日本にもあてはまりますね。あるいは、もっといえば「和歌」かもしれません。 ここから今野は、さらに和歌をつくり、和歌に沈潜してさまざまな知見を得た江戸時代の国学者、本居宣長、本居春庭、富士谷御杖などに思いが飛びますが、これもいずれそういうことをお話する機会があるでしょうから、それまでは控えておくことにします。

山本さんは、前便で「本屋の空間やそれに限らない書棚という物理環境」についてふれていらっしゃいます。今野の場合は、山本さんのように読書の範囲がひろいわけではないので、購読している新聞の読書面に出ている書評や広告、『週刊読書人』や、幾つかの出版社のPR誌などがおもな情報源で、そうしたものから興味を引く本を購入しています。やはり情報が偏っているだろうと思うので、時々神田に行って、東京堂のような大きな書店を少し時間をかけてみて、知らなかった本を購入しています。これはごくありふれた方法のように思います。

書名がすでにわかっていて、場合によっては書評も読んでいて、その本を注文するのと、どんな本と出会うかなと思って、書店に行くのはまったく気分が違います。どんな本と出会うかなと思って書店に行く時の気持ちは、今野が和本を買い始めた大学院生の頃に、まず「全国古書店マップ」のようなものを買って、学会で地方に行った時にその地方にある古書店に行くとか、京都の古本屋さんをまわるとか、そういう時の「ワクワク感」に通じるものがあるかもしれません。最近は、和本はほとんど目録もしくはインターネットでの購入になってしまっており、「ワクワク感」を味わうことは稀になってしまっていて残念です。

山本さんは「これだ」という本との出会いについて書いていらっしゃいます。今野の場合は、いわゆる和本も購入しているので、和本との「出会い」について少し書いてみたいと思います。

今野が和本を購入する「ルート」は古書展もしくは古書店の目録、インターネットの古書サイトからの注文、インターネットオークションの三つです。古書展・古書店の目録はほとんど毎日届きます。多い日には二つ三つと届いていることもあります。その目録に目を通すのには相応の時間が必要で、興味のある分野がひろがっていくと、これまでは読み飛ばしていたような本にも気をつけるようになるので、だんだん時間がかかるようになってきました。

目録をみていて「これはどういう本だろう」と思った時は調べます。「おもしろそうだな」と思った時には、インターネットのサイトでまず価格を調べ、次にインターネットオークションに出品されていないかを調べます。インターネットオークションの価格はインターネットの古書サイトの価格よりも安く出品されていることが多いですが、その価格で落札できるとは限らないので、どのくらいの価格になりそうかを予想して、古書サイトで注文することもありますし、それは「ほしい」気持ちの度合いなどとの兼ね合いですので、どうするかはものによります。

目録には実にさまざまな本が出品されているので、そこでの「出会い」は貴重です。この作業によって、次第にどんな本があるかを覚えていっているのだと思います。そこでも「出会い」はあります。この本はおもしろそうだなと思って、それを調べてみると、「おお、こんな本があるのだ。読みたい、読みたい」となるわけです。実はこれを書いている今日にもそういう本があったのですが、まだ入手できていないので、これはまた入手できた時にお話ししたいと思います。この場合の「出会い」は自分が今取り組んでいるテーマと関わっているようなこともありますし、全然そうではなくて、単に「おもしろそうだから読みたい」ということもあります。ですから、必要の度合いではなくて、興味とのかねあいなのだと思いますが、これはきっと山本さんも同じではないかと思います。こういうかたちで「知」が集積されていたのか! という驚きとか、そういうことだろうと思います。

この「流れ」とは別に、気になる本やテーマについては、ほぼ毎日インターネットオークションのサイトに検索をかけています。ある日突然、自分がほしいと思っていた本がオークションサイトに出品されているということがあります。このあたりは「勘が働く」ということもありそうで、つい最近も、朝日新聞社版の『契沖全集』をそういうかたちで入手しました。朝日新聞社版の『契沖全集』には附巻として「下河辺長流全集」が2巻ついていて、その他にもこの朝日新聞社版が必要な理由はあるのですが、これもまたの機会にしたいと思います。

この朝日新聞社版の『契沖全集』が古書サイトに出品されていることはわかっていたのですが、珍しくすぐに注文しないでいました。ある日、やっぱり購入しておこうと思った時に「まてまて」と思って、インターネットオークションのサイトを検索してみると、昨日まではなかった朝日新聞社版が出品されていました。「そんなうまい話があるのかい」と思われるかもしれませんが、こういうこともたまにはあるのです。こういう「出会い」も印象に残ります。古書店から、この本はあなたが持っているのがよさそうだから、と電話がかかってきたこともあります。こうしたことは1度だけですが、これも印象深い「出会い」です。

さて、山本さんがお書きになっている『知ってるつもり――無知の科学』(ハヤカワ文庫NF、2021年9月15日)が届きました。文庫になる前の『知ってるつもり――無知の科学』(早川書房、2018年4月15日)が、2018年6月9日の『朝日新聞』読書面で採りあげられていたので、その書評を見て購入してありました。しかし、「知ってるつもり」ならぬ「読んだつもり」で、いわゆる「積ん読」になっていました。これまた「お笑いぐさ」ですが、山本さんの「解説」を読んでみたいので、文庫を注文し、それが届いたということです。

「解説」で山本さんが「知識は人びとのあいだ、コミュニティのなかにある。私たちはそう意識しているか否かにかかわらず、他の人たちと協力しながらものを考えているのだ」(408頁)、「知識はコミュニティのなかにある」(409頁)とお書きですが、まったく同感です。

山本さんと今野との「往復書簡」といういわば「ちょっと親密な感じのコミュニティ」、それを見守ってくださっている読者のみなさんとの「非対面のコミュニティ」、というように互いを尊重し、何かに気づくということにおもしろさを感じている人の間のコミュニティは今後さらに大事なものになっていくだろうと最近特につよく思っています。だいぶ書きましたが、その一方で、寄り道を控えたこともあります。またお話しする機会があることを願って、今回はここまでにします。

2021.09.30
今野真二

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著者

今野真二

(こんの・しんじ)
1958年生まれ。清泉女子大学教授。日本語学専攻。『日本語の教養100』『日本語 ことばあそびの歴史』『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』『図説 日本語の歴史』(以上、河出書房新社)、『言霊と日本語』(ちくま新書)、『ことばのみがきかた』『乱歩の日本語』(以上、春陽堂書店)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『日本語の連続/不連続』(平凡社新書)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)、『日本語が英語と出会うとき』(研究社)、『秋萩帖の総合的研究』(勉誠出版)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)など。

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