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幼児期、学校、就職、出産、老い……生まれてから老いるまでの間に、ASDの女の子はどんな体験をするのか。サラ・ヘンドリックス『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界──幼児期から老年期まで』訳者あとがき

幼児期、学校、就職、出産、老い……生まれてから老いるまでの間に、ASDの女の子はどんな体験をするのか。サラ・ヘンドリックス『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界──幼児期から老年期まで』訳者あとがき

 私には、現在公立小学校の特別支援学級に通っている自閉スペクトラム症(以下、ASD)の次女(九歳)がいる。一人でごきげんにしている手のかからない赤ちゃんだった次女が心身の発達の遅れを指摘されたのは、三歳児健診のときだった。病院や療育センターを紹介されたものの、診断がつくまでの道のりは長かった。会話が成立しにくいとはいえ、初対面の人にも積極的に近づいて話しかける人懐こい次女の姿を見て、児童精神科医も臨床発達心理士も、誰一人として〝自閉〞症の疑いを口にすることはなかったのである。

 

 転機になったのは、たまたま目にした女の子のASDについての英文記事だった。女の子のASDは男の子とは現れ方が違うために見落とされやすい、という最新研究の紹介で挙げられていた症状が、まさに次女そっくりだったのだ。すぐに療育センターで自閉症専門医を紹介してもらい、検査を受けた。こうして小学校入学直前にして、ようやくASDという診断が確定したのだった。親としては、五里霧中の状態から、診断のおかげで一気に見通しがついた感覚があった。

 

 もしあの記事を目にしていなかったら……と思うと、今でもゾッとしてしまう。女子のASDの特性が男子とは異なるということについて、日本語でも広く伝えられるべきだと切実に感じた。

 

 著者が述べるように、ASD女性当事者による自伝的な本は数多い。日本語に限っても、女の子のASDに関する良著はいくつか刊行されている。ただ、それはすでに診断がついた児童の保護者に向けてのものであったり、ASDの中でも知能が高くて成功したアスペルガー症候群の女性のお話だったりする。必要なのは、自分の子と他の子との違いに悩むかつての私のような保護者や、「ふつう」に擬態しながら他人とのギャップに苦しんでいる当事者が、ASDの診断と支援につながる助けになる本だ。女子のASDについて知識を深めたいという気持ちもあって、さまざまな洋書に目を通した。

 

 ASDの現れ方の性差に関する研究をあたうかぎり紹介し、ASD女性やその保護者の幅広い体験談を集めた本書は、そうした意味で理想の本だった。ASD(自閉スペクトラム症)の症状は、その名の通りスペクトラム(連続体)である。あるASD女性の症例は、別のASD女性にはまったく当てはまらないということも多々ある。多数のASD女性の具体的な症例がふんだんに盛り込まれている本書なら、「これは自分(我が子)のことだ」という気づきにつながりやすいはずだ。実際、本書に掲載された症例には、訳者自身にも軽く当てはまる部分がいくつかあった。美容に疎く(ドラッグストアに行くたびに、死んだ細胞=毛髪を美しく見せるための商品がずらりと並んでいることに不思議な気持ちになる)、変化が苦手で、行事があると気が重い。幼い頃から読書に没頭していたが、メールは要点のみのそっけない文面になりがちだ。ASDは遺伝要因が大きいとされているから、定型発達者として生きてきた親の私も、ASDの要素が少なからずあるのだろう。少なくともそう思えたことで、コミュニケーションを取りにくい次女とのつながりを感じられたのは収穫だった。

 

 一方、DSM─5の改訂にともない、自閉症が重度の状態から定型発達に近い軽度の状態までを連続的にとらえるASDという概念に統一されたことで、過剰診断を懸念する声もある。普通に見せかけることができる女性をASDとして扱う本書の内容に対して、「誰だって社会に適応するのは大変だ。ASDを名乗って支援を求めるのは甘えではないか」「重度の障害ならともかく、見た目でわからない児童にまでASDの診断をつけるのは、レッテル貼りにつながるのではないか」と疑問視する人もいるだろう。訳者は専門家ではないため、あくまでも知的にやや遅れのあるASD女児の一保護者としての実感を語るにとどめるが、診断は明らかに救いになった。

 

 たとえば手に負えない癇癪だと思っていたものが、ASDの特性のひとつなら、ASDがパニックを起こしやすいトリガーを取り除くことで予防することができる。口頭で教えても理解できないのは耳から情報が入りづらい特性のせいならば、視覚的にわかるようにモノを見せながら丁寧に教えれば、学年相応の算数の習得も可能だ。興味の狭さと読書を好むという特性を利用して、興味(次女の場合は猫、相撲、戦国武将)に合わせた視覚要素の多い本をふんだんに与えれば、書字が苦手でも読解の力はつけられる。何より気が楽になったのは、一人で遊んでいるからといって、集団遊びに無理して参加させようとしなくてもいいと感じられたことだった。

 

 本書の中で述べられているとおり、診断がつかないまま「ふつう」に適応しようとして、いじめを受けたり、二次障害を起こしたり、危ない目に遭ったりするASD女性は少なくない。著者自身、「排水路に捨てられることなくここまで生きてこられたのは奇跡」と語っているくらいだ。訳者の次女の場合は、支援学級の先生方のASDへの理解やクラスメイトに恵まれたこともあり、今のところは本人なりのペースで屈託なく成長している。過剰診断によって不必要な投薬治療が行われているケースは問題視されるべきだが、困難の支援に診断が必要なら、その診断は「過剰」とは言えないのではないだろうか。

 

 最後に、本書は幅広い読者に開かれた内容であることも付記しておきたい。訳者が本書の内容を踏まえ、ASDの女の子についてのエッセイ(「自閉症の女の子が見る・読む・触れる世界」『群像』二〇二一年八月号)を発表したところ、意外なことに何人かの男性当事者からも共感が寄せられた。男性的な症状を示すASD女性がいるように、女性的なASDの現れ方をする男性がいてもおかしくないということに、改めて気づかされた。また、定型発達者であっても、自分の中のASD要素に気づくことは自己理解の助けになるだろう。本書を読むことで、自分が何者であるかを知って、自尊心を育める人が増えることを願ってやまない。

 

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