単行本 - ノンフィクション

日航123便墜落事故原因に迫る新事実!この事故は「事件」だったのか!?

1985年8月12日。日航ジャンボ機123便は、なぜ御巣鷹の尾根に墜落しなければならなかったのか──。

「この出来事を風化させてはならない。」

三十三回忌を前に、その情熱が生んだ、真相究明に一石を投じる渾身のノンフィクション

『日航123便墜落の新事実:目撃証言から真相に迫る』

青山透子 著

 

*序文の一部を公開中!
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思い出してほしい、あの日の夜を……。
暗い夜空を眺めてほしい、そこに何が見えるのか……。
そして未来のためにともに考えてほしい。今から三十二年前の八月十二日に何が起きたのかを。
群馬県多野郡上野村―。

あの夜は、山々の稜線が漆黒の夜空に隠れ、ペルセウス座流星群の星たちが次々と流れては消えて、まるで死者の魂が飛び交うようであった。

ガーガーガーンと強い衝撃の後、様々な固形物や砂が次々と頭にぶつかり、体が宙に投げ出された。左目は砂にまみれて目が飛び出したように痛い。口は乾き、砂でいっぱいだ。シートベルトが体に食い込んでお腹がちぎれそうに苦しい。
「はあ、はあはあ」と荒い息遣いをしながら、つい先ほどまでの身の毛もよだつ恐怖がよみがえる。
「ああ、墜落したのだ。大変な事故を起こしたのだ」
周辺からも、はあはあと、荒い息遣いが聞こえてくる。
「おかあさん」「早くきて」「ようし、僕は頑張るぞ」そんな声も聞こえてくる。
すると、闇の中からヘリコプターの音が近づいてきた。夏山特有の湿り気のあるもったりとした空気が、一瞬にしてかき乱される。バリバリバリと爆音をたてて、木々の葉を大きく揺らしながらゴーゴー、バババーとホバリングを始めた。辺り一面、埃や砂、機械の臭いが舞い上がる。
「ああ、私は生きている、これで助かる」
全身の痛みをこらえ、かろうじて動くほうの右手を必死に空に向かって伸ばした。
「助けてください、私は…ここに…」と、夢中で手を振る。
「助けて」「帰っちゃいや」「誰か来て」
そのような何人もの声をかき消すように、ヘリコプターは爆音と共に段々と遠くへ去っていった。周りでは、はあはあと何人もの荒い息遣いだけが聞こえてきた。

一九八五年八月十二日(月)。日航ジャンボ機123便(ボーイング747、登録機体番号JA8119)が、東京羽田空港を離陸して、大阪伊丹空港へ向かう途中、突発的非常事態に陥り、「群馬県上野村の御巣鷹の尾根」と後に命名された高天原山系無名の地に墜落した。
前述は、乗客乗員五百二十四名のうち、四名の生存者の一人、非番で乗客として乗り合わせた客室乗務員の落合由美さん(二十六歳)が発表した「落合証言」に基づく記述である。
当時、墜落後に遺体を検死した医師によると、落合さんが救出された場所の周辺には、つい先ほどまで生きていた痕跡のある生温かい遺体があり、早急に救助がなされていれば命が助かっていたのではないだろうかと思われる遺体が百体ぐらいはあった、ということであった。

墜落現場が不明のまま夜が明け、翌日の十三日、落合さんは地元の消防団員によって十時五十四分に発見されたが、それから灼熱の夏山の山頂で放置状態となった。生存者発見の通知をうけた日赤の医師二名と看護婦二名は、警視庁のヘリコプターで十二時十三分に現場上空に到着し、救命用綱で降下した。医師と看護婦による応急処置をしたのだが、その後まったく救護のヘリが来なかった。山頂で生存者を見守る地元の消防団からも、「せっかく救助したのだから早く搬送してくれ、自衛隊のヘリに連絡してくれ」という声が次々上がる。医師も声を荒げながら「物資や自衛隊員の降下よりも、救助された生存者を搬送することを優先させてくれ」とその場にいた自衛隊員に詰め寄り、直接交渉をした。
やっと救護用ヘリが到着し、十三時五分にようやく生存者のヘリへの収容が始まり、子どもから先にヘリコプターで機体に吊り上げられた。落合さんは最後に担架ごとクルクルと回転しながら十三時二十八分に無事収容された。生存者四名を収容した自衛隊ヘリのパイロットは十五分で到着するはずの上野村の本部の場所がわからないという。そこで医師が必死に地図や地上の風景を見ながら場所を指示し、十三時五十分にようやく到着した。結局、「生存者発見から猛暑の炎天下で三時間以上もかかってしまった」と述べていたのは、四名を救出した前橋赤十字病院外科部長の饗場庄一医師である。
さらに上野村役場から救急車で二時間近くも揺れるのは大変危険だと判断をした饗場医師は、子ども二名を再度別のヘリに乗せた。最終的に生存者四名が藤岡の多野病院に着いたのは十四時二十分と記録されている。前日の十八時五十六分二十八秒に墜落してから、すでに二十時間が経過していた。なお、生存者は川上慶子さん(十二歳)、吉崎美紀子さん(八歳)、吉崎博子さん(三十五歳)、落合由美さん(二十六歳)の四名である。
当時、スチュワーデスと呼ばれていた客室乗務員だった私は、日本航空株式会社客室乗務員女子寮、通称スカイハウス(品川区港南)に住んでおり、生存者の一人、落合由美さんと同じフロアに部屋があった。私の同期と落合さんが同じグループで親しかったこともあって、仲間と部屋で開く鍋パーティーにひょっこり顔を出してくれたこともあった。陽気でカラカラと明るい声で笑う親しみやすい先輩であった。
一九八五年八月十二日のこの日、私は明日からのヨーロッパフライトに備えて寮の食堂で夕食を取っていた。食堂のテレビでは、NHKの七時のニュースが流れていたが、突然、緊急放送が入った。日航羽田発大阪行きの飛行機が行方不明という報道であった。その時、食事をしていた全員の箸が一斉に止まった。私も背筋がひやっとしたのを覚えている。そのままテレビを見つめていた直後、スカイハウスのすべての部屋にひかれていた三百三十六台のダイヤル式黒電話のベルの音が一斉に響き渡った。それぞれの家族や友人、知人たちが心配して電話をかけてきたのである。
ジリリリリーン、ジリリリリーン……。
怒りにも聞こえるものすごい音で、外を歩く人々が建物を見上げるほどであった。一晩中電話が鳴り止まない部屋は、落合さんの部屋であった。そして事故機に乗っていた客室乗務員は、私が新人時代に仕事を教えてもらった同じグループの先輩たちだった。
二十五年経った二〇一〇年四月、私は、乗客を励ましながら最後までプロとして行動をした先輩方のこと、当時の新聞報道や資料を読み込むうちに湧き出てきた事故原因への疑問をまとめて『天空の星たちへ―日航123便あの日の記憶』(マガジンランド)を出版した。
圧力隔壁修理ミスが事故原因だと公式発表されているが、現場でこの事故に関わった人たちの中には、腑に落ちない出来事が多数あり、それが今なお心の奥底に大きな疑問となって渦巻いていることにも気付かされた。
事故原因については一部の過激な陰謀説、根拠の薄い憶測も多々あり、それがかえって再調査への道を妨げていることもある。私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた。しかしながら、現場を知る人たちへのインタビューや膨大な新聞等の資料を読み込み、目撃情報や現場の証言をもとに考察を深めると、公式発表に対して違和感を覚えるようになっていった。そして、それを語るとすぐに陰謀説と烙印を押されかねない状況を感じた。もっとも、一般の人々には圧力隔壁修理ミス説が事故原因という報道しか届いていないこともあってしかたがないが、三十二年前の事故時の情報や状況にいまだに疑問を持ち続けている人たちがいることを知った以上、私の果たすべき役割はなにかを考えてきた。
逆に事実を一つずつ積み重ねていけば、新たな真実が見えてくるのではないだろうか。そう思い、墜落現場となった上野村へ行き、当時の村長や消防団の方から話を聞いた。
当時の上野村の村長・黒澤丈夫氏には、取材時にあの日の記憶を語っていただいたが、十二日の晩にすぐ墜落現場は自分たちの村だとわかり、村民にも村内放送をして情報提供を呼び掛けていたという。上野村に落ちたと政府関係者や県に連絡してもまったくテレビに反映されず、長野県やら小倉山やら偽の情報が流れていたことに怒っておられた。
また、川上慶子さんら生存者を最初に発見して救出した地元消防団の方や、歯型から遺体の身元を確定して検死を行った群馬県警察医の大國勉氏にもお会いして、たくさんの資料を見せていただき、話を聞かせていただいた。大國氏も遺体の状況に大きな疑問をお持ちだった。このように詳細に調べていくと、ますます事故調査委員会発表の事故原因は違うのかもしれないと大きな疑念を抱いた。
ちょうどその頃、日本航空が経営破たんし、負債総額二兆三千二百二十一億円というとてつもない金額で、会社更生法を申請したのである。

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続きは『日航123便墜落の新事実』で!

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著者

青山透子

元日本航空国際線客室乗務員。国内線時代に事故機のクルーと同じグループで乗務。その後、官公庁、各種企業等の接遇教育に携わり、専門学校、大学講師として活動。東京大学大学院博士課程修了、博士号取得。前著に『天空の星たちへーー日航123便 あの日の記憶』(マガジンランド、2010年刊)がある。

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