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フランスで40万部を超えたウエルベック史上最高に暗く美しい愛の物語

『セロトニン』は、〈黄色いベスト運動〉を予言した物語として話題になった。左右を問わず絶賛をもって迎えられ、初版の在庫がたちまち尽きた。〈黄色いベスト運動〉は、今なお国境を超えて拡大を続けている。

 ウエルベックは予言的な作家として知られる。多くの人は虚構と事実の類似の関係をして予言と呼ぶが、しかしながら本当はそれは、予言と言うよりも現在において既に決定づけられた未来なのだと言うのが妥当だろう。現在からまっすぐ伸びる単一の未来。ゼア・イズ・ノー・オルタナティヴ。他に道はない。未来――つまるところ、今ではそれは、グローバル資本主義の席巻による、マーケットの均質化とビジネスプロセスの効率化がもたらした当然の帰結の名にすぎない。

 私たちはウエルベックの小説を通して書かれた未来を確認し、かつての未来を再現する。私たちは私たちの死を予見しながら、破滅に向かってまっすぐ進む。ときに耐え難い苦痛を、白い錠剤〈ホワイト・ピル〉を飲み込むことで乗り越えながら。

 ホワイト・ピル。本書は、幸福物質とも呼ばれる神経伝達物質「セロトニン」を増幅させる錠剤の説明から始まる。曰くそれは、「白く、楕円形で、指先で割ることのできる小粒の錠剤」である。加速主義者たちが好んで使うインターネット・ミームに、〈ブルー・ピル〉=「夢を見続けるための錠剤」、〈レッド・ピル〉=「現実に目覚めるための錠剤」という、映画『マトリックス』に登場するガジェットがあるが、ウエルベックがここで 〈ホワイト・ピル〉を描くのは、そうしたミームを踏まえてのことだろう。

〈ブルー・ピル〉、たとえば『素粒子』や『ある島の可能性』のようにポスト・ヒューマンの夢を見ることで現実を超克しようとするのではなく、〈レッド・ピル〉、つまり『闘争領域の拡大』や『プラットフォーム』のように現実に覚醒し、現実の中で闘争するだけでもなく、〈ホワイト・ピル〉という新たな選択肢をもって絶望に抗おうとすること。それが本書『セロトニン』の最大の主題なのだ。

 むろん、その試みは失敗に終わる。作中で「キャプトリクス」と名付けられた〈ホワイト・ピル〉は、服用者の精神と生活を安定させる。しかしそれは、〈性欲と愛の消滅〉という新たな絶望も服用者にもたらす。つまるところ本作は、社会と折り合いをつけようとした結果、それと引き換えに、根本的で徹底的で原理的な〈愛の不可能性という絶望〉が現出する物語なのだ。そこでは希望は絶望であり、絶望だけが希望になる。

 最後に残されるものは、幸福だった頃のかすかな記憶だけ、写真におさめられ、ノートに書き留められた思い出だけ。消滅した、かつては確かに存在したはずの、わずかな愛の痕跡だけだ。

 私たちは、円滑に生きることはできるが、決して幸福に生きることはない。ウエルベックは、現在から伸びる、既に決定づけられた事実として、そうした未来を指し示している。

初出:「文藝」2019年冬季号

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著者

樋口恭介

作家。89年生。著書『構造素子』

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