単行本 - 文藝

「悪」と名指すもの/名指されるものたちすらも転倒する、 異形の小説。『悪声』いしいしんじ

『悪声』いしいしんじ著(文藝春秋)

『悪声』

いしいしんじ著

【評者】水無田気流

廃寺のコケに置かれていた「なにか」。赤ん坊のような姿だが、あきらかに人間とは異なる物を見、聴くことができる。いや、聴覚や視覚といった感覚の間の垣根が低く、混在した独自の感性を持っていると言ったほうがいいだろう。とりわけ特異なのは、その「声」だ。発声されると「たったいま、特別なものがそこに置かれ、一瞬後には取り払われてしまっている」印象の、触覚が伴ったような声。繁茂するコケが最初の子守であり、幼いころにはコケの言葉が「風景が一気に、耳へ流れこんでくるみたい」に理解できた、という。

「なにか」は子どものいない夫婦に引き取られ、成長し、人間の言葉を覚え、学校で学び、 やがて風変わりな子どもとして「オニちゃん」と呼ばれるようになる。女性の音楽教師にはその歌声を驚嘆されるが、教師が交代するのと同時に悪目立ちする声と決めつけられ、本当に異形の「オニ」扱いの子どもにされてしまう。不穏な空気に閉め出されるように入ったお寺で、お経に魅入られた「なにか」はやがてお寺に入ることを決意する。そこで初めて、住職の「寺さん」に指摘され、「音が目にみえる」自分の声の特殊さに気づかされ……。

全編、音と感覚と超自然的な力の関係にあふれた本作は、世界観をゆるやかに転倒させていく。主役は人ではなく、定型のない生そのもののようにも見える。西欧キリスト教的世界観では、「はじめに言葉ありき」だが、この国のはじまりは、地を覆う湿潤なコケの吐息のような、自然の生勢力のふるえる声かもしれない。著者の駆使する京言葉のまろやかさがこの韻律を増幅し、軽い陶酔感すら覚える。不思議な力をもつ「オニちゃん」にも鷹揚な人々の息づかいが、人と異界との境界線をあいまいにして行く。

寺さんの双子の弟で、西欧的世界観の象徴のようなアムステルダム帰りのサックス奏者・タマと「なにか」の対話は、本作に鮮やかなコントラストを浮かび上がらせる。タマは「なにか」の歌声を、他に類を見ない「へんな声」と評する。「こいつの歌は、歌なんてもんじゃねえ。草がしゃべってる。鳥や虫が、錯覚やたとえじゃなく、ほんとうに人間のことばでぺちゃぺちゃうたっていやがる」と。異界と接続するその歌声は、聴くと「なにか」の世界観が漏れ出してきて、感染したようにその世界を垣間見てしまう、と寺さんは語る。それは日本の伝統的詩歌に通じる感覚だ。花鳥風月、自然の風物が音韻をともない、言葉になり、風景をふるわすこと。それこそが、日本の「ことだま」への信仰と憧憬の根源にある。

寺さんの語る「空のばかでかい目」は、動植物をはじめ自然物すべてを包摂し映し出す「鏡」だ。やがてそれは円環時間のなかに格納され……。本作の中では、線的な始まりと終わりのある物語の世界観が、静かに覆る。表題の「悪声」とは悪い声だけではなく、悪評の意味も含むが、「悪」と名指すもの/名指されるものたちすらも転倒する、異形の小説。

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著者

いしいしんじ

1966年、大阪府生まれ。2003年、『麦ふみクーツェ』で坪田譲治文学賞、12年『ある一日』で織田作之助賞を受賞。他の著書に『ぶらんこ乗り』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』『みずうみ』他多数。

【評者】水無田気流

1970年神奈川県相模原市生まれ。詩人、社会学者。早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得満期退学。詩人として『音速平和』で中原中也賞、『Z境』で晩翠賞を受賞。

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