単行本 - 人文書
裁判は何のためにあるのか?期待していいのか? 大屋雄裕『裁判の原点』序文公開!
大屋雄裕
2018.01.19
何のためにあるのか? 期待していいのか?
重要判決から考える、正義・民主主義・国のかたち
河出ブックス最新刊!
私たちは、裁判に何を期待すべきなのか。ときに不可解、ときに不正義にも見える様々な判決を、法学的にクリアに解説し、社会における裁判の価値を問い直す。知っておきたい裁判のすべて。
刊行を記念して、書籍収録の序文を公開します。
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序文 裁判は正義の実現手段ではない
というのはやや挑発的に過ぎる表現であり、より正確には「裁判は必ずしも正義の実現手段ではない」とか「実現手段だけのものではない」と言うべきではあろう。ただ、こういった表現によって意図しているのは、何らかの客観的な正義とか真理とか真実といったものがあり、裁判はそれを明らかにすることによって正しい社会のあり方を実現するためのもの、そうであるのが当然のものだという見方は適切ではないし、民主政のもとでの国家・政府の性質について多くの要素を見逃しているということである。
もちろん私は、多くの裁判官が良心的に職務を担っており、彼が信じる正義の実現に可能な場合には取り組んでいることを否定するつもりはない。だが重要なのはその可能性であり、その範囲がさまざまな制度によって仕切られているということなのである。裁判官は、あるいは彼らが集団として機能している裁判所とは、自らの信じる「正しさ」を無条件・無制約に実現することが認められたような存在、映画のヒーローのようなものではない。
このことはおそらく、当の裁判官たちを含む法律家や、一定以上の法学教育を受けた人間にとってはほぼ自明のことだろう。だが一般的には、本当のこと・正しいことがあれば裁判を通じてそれが勝利を収めるのが当然のことだという信念は、まだ強いように思われる。「まだ最高裁があるんだ!」と叫ぶ映画『真昼の暗黒』(今井正監督、一九五六)のラストシーンのように。
自分は本当の事実を知っている、裁判になれば正義が勝つのだから自分が勝つのが当然なのであって、訴訟戦略を練るとか証拠を確認するとか主張内容を検討するとか必要であれば和解を目指して相手方との条件闘争に入るといった小細工は必要ないのだと力説する依頼人に苦しめられる弁護士というのも、実際に多いようだ。そのような信念を持ちながらではあれ最初から相談に来てくれればともかく、実際の裁判が自分の考えたようには進まないという現実に直面して(たとえば)一審で敗訴判決を受けた段階になってから来られても手の打ちようがなくなっている……などという話も漏れ聞く。このような悲劇の背景にあるのは裁判という社会制度に対する誤った、そして過度の期待であるし、それを放置することは無駄な幻滅を抱く人・それによって現実の裁判に対する過度の反感や不審を抱く人を増やすだけの結果に終わるだろう。それは最終的には、裁判への社会的信頼を損なうことになりかねないと思われる。
本書では、裁判という制度をその現実の姿において描き出すこと、立法・行政のような他の国家機能との関係でそれがどのような特徴と権限を与えられており、どのような制約の下にあるかを位置付けることによって、たとえば社会を動かすためにあり得る選択肢の一つとして何をそこに期待すべきなのかという議論を試みたい。それは同時に、裁判が本来そのようなものであることを予定されている姿、いわば裁判の原点を確認することにもなるだろう。あるいはそれによって、「木に縁りて魚を求む」状態にあるかに思えるいくつかの社会運動・市民運動(と称するもの)の再検討が促されることになるのかもしれない。
ありがちな誤解を通じて実際の姿を記述するという狙いを踏まえて、本文では対話形式を採用した。大学のゼミのようなシーンを想定したつもりだが、すべての発言者・発言内容は架空のものである。
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続きは本書でお楽しみください。