単行本 - 人文書
「みんな一緒に、みんな同じペースで」は、もう終わりにしよう。数多の現場に携わる教育学者が、「学校」をつくり直す方法を提言!
苫野一徳
2019.04.02
学校システムの限界
どんな親も先生も、子どもたちには幸せな学校生活を送ってほしいと願っているはずです。
でもどういうわけだか、子どもたちが幸せそうじゃない。そう感じている人は、少なくないんじゃないかと思います。
それは一体、どういうわけなんでしょう? そしてどうすれば、わたしたちはそんな状況を変えていけるのでしょう?
問題の本質が分かれば、その問題を克服するための道筋もまた明らかにすることができるはずです。本書では、多くの保護者が、そして先生たちもまた心のどこかで感じている、学校が抱える根本的な問題を明らかにしたいと思います。そしてその上で、その問題を解決するための道筋を示していきたいと思います。
と、ここで大急ぎで付け加えなければなりません。本書は、学校や先生を批判するためのものではまったくありません。むしろ、保護者や子どもたち、地域の人たち、そして先生たちが、互いに協力し合って、よりよい学校を作っていくための道筋をはっきりと示すこと。それが本書の目的です。
本文で詳しく論じるように、今学校が抱えている問題の本質は、一人ひとりの先生や個々の学校にあるというより、むしろもっと構造的なこと、つまりシステムにこそあるのです。いじめ、体罰、落ちこぼれ、小一プロブレム、中一ギャップ、教師の多忙、勉強する意味の喪失、同調圧力、不登校……一見別々に見えるこれらの問題も、その根っこはすべてつながっています。だから、個々の問題状況にだけ目を向けても、抜本的な解決策を見出すことはできません。根っこの問題、教育のシステムそれ自体の問題を解決しなければならないのです。
と言うと、一人ひとりの保護者や先生や子どもたちには縁遠い話のように聞こえてしまうかもしれません。
でもそんなことはありません。むしろ学校は、わたしたち一人ひとりの力なくして、変えていくことなんて決してできないものなのです。
教育学部の授業で、よく学生たちに、「教育を変えるのは国の仕事だから、教師になっても結局自分の力では何もできないんじゃないか」と言われます。そのたびにわたしは、「そんなことはまったくない、こんなこともできるし、あんなこともできる」と話をします。すると学生たちは、「そうか、自分たちにもこんなことができるんだ」とはっと気づいてくれます。より正確に言えば、それぞれの人が、それぞれの現場でできることがあり、そしてそれなくして、教育が変わることは決してないのだと。
本書でわたしは、そんな「こんなこと」や「あんなこと」を、読者のみなさんに存分にお伝えしたいと思います。今、学校の何かがおかしいと思っている保護者の方々、苦しんでいる子どもたち、それを何とかしたいと思っている先生方、行政の方々、そんなみなさんとともに、「『学校』をつくり直す」ためにわたしたちに何ができるか、考えていきたいと思います。
新しい学校づくり
わたしは、哲学者・教育学者というのをやっています。物事の──ここでは教育の──根本、本質を明らかにする哲学をもとに、これからの教育のあり方を構想することを、これまで一つの大きな仕事としてきました。
哲学者、と言うと、何やらおカタそうなイメージがあるかもしれませんが、教育学者としてのわたしは、どちらかと言えばかなり”学校現場”に近いタイプの学者だと思っています。毎月、全国の小中高校などをたくさん回り、多くの先生や子どもたちや教育行政関係の方々などと交流したり一緒に仕事をしたりしています。
また、今仲間たちとともに、幼小中「混在」校、「軽井沢風越学園」の設立準備もしています。二〇二〇年に、長野県軽井沢町に開校予定です。
幼小中「一貫」校ではなく「混在」校と言っているのは、学年や障害のあるなし、また学校種など、さまざまな形で子どもたちを”分けて”きた従来の教育システムとは違った、多様な人たちがもっと”混ざり合える”学校環境を作りたいと思っているからです。
本文でも論じるように、今の学校システムの一つの大きな問題は、あまりに同質性の高い〝閉鎖的な学校空間〟にあります。わたしたちは、これをもっと多様性へと開き、気軽に一人になれる空間から、いくらか同質的な空間、そしてもっと多様性がごちゃまぜになった空間などを、必要に応じて行ったり来たりできる学校システムを作りたいと考えているのです。
軽井沢と言うと、お金持ちの別荘地のイメージがありますが、この学校は、あくまでも地元の子どもたちのための地域の学校です。できることなら公立学校を作りたかったのですが、義務教育段階における公設民営の公立学校は法律で認められていないため、どうしても私立にしなければなりませんでした。が、あくまでも地域の学校であることにこだわり、裕福な家庭の子どもたちしか通えないような学校には決してしないよう、今さまざまな方策を練っているところです。
本文でも論じていくように、これから一〇年、二〇年で、日本の学校教育は、今わたしたちが知っているものとはまったく異なった姿になっていくはずです。その来るべき未来の学校の、一つのモデル、また、日本の公教育の構造転換のための、一つのハブになることを目指したいと考えています。
教育の"現場"とは?
と、以上のように、わたし自身はどちらかと言えば学校現場に近いタイプの学者だと思ってはいるのですが、「教育哲学者」と言うと、(お話をする前から)時折こんなことを言われることがあるのも事実です。
「大学教員が、〝現場〟を知らずに偉そうなことを言うな」
気持ちはとてもよく分かります。実際に、”現場”を知らずに偉そうなことを言う大学教員がいないわけではありません。わたし自身、多くの新しい出会いを通して、自分はこんなにも〝現場〟を知らなかったのかと恥じ入ることもしばしばです。
でも、わたしはこうした声に対して、次のように言いたいと思うのです。
教育の”現場”と一口で言っても、その現場は無数にあるのだと。教育の”現場”は、学校現場だけでなく、教育行政の現場もあれば教育研究の現場もあれば、子育ての現場もあれば社会教育の現場もあるのです。
だから大事なことは、さまざまな〝現場〟の知見を、お互いに持ち寄り、交換し、活かし合うことです。「現場を知らずに……」という言い方は、その機会を自ら捨て去ってしまうことだとわたしは思います。
もうちょっと言うと、「現場を知らずに」と言う先生にわたしが密かに思うのは、その先生が言う〝現場〟というのは、あくまでもその先生が経験してきた、ほんの何校か、何クラスかの〝現場〟にすぎないんじゃないか、ということです。その限られた経験をもって〝現場〟一般を語ってしまうのは、ちょっと乱暴なんじゃないかとわたしは思います。
そんなわけで、わたしは、教育界において、「現場を知らずに」という言葉はできるだけ言い合わないようにしたいと言い続けています。むしろわたしたちが問い合うべきは、「これがわたしの”現場”の知見です。あなたの“現場”の知見は何ですか?」ではないかと思うのです。
教育はきわめて広範な営みです。学校教育に限ってみても、その全体像を把握している人はおそらく一人もいません。文部科学省の人たちには見えていない教育の世界があります。教育学者の知らない世界もあります。学校の先生の視界には入ってこない世界だってもちろんあります。別の言い方をすれば、わたしのような教育哲学徒には見えていないものが、ベテラン保育士さんには見えているということはいくらでもありますし、その逆もまた然りなのです。
だからこそ、わたしたちは、お互いに見えているものを持ち寄って、教育の全景を描き合っていく必要がある。わたしはそう思います。
教育学を役立てる
ついでながら、「教育学なんて何の役にも立たない」というのも、学校の先生方からよく聞く言葉です。
これについても、気持ちは本当によく分かります。わたしでさえ、「それって一体何のための研究なの?」と疑問に思う研究がないわけではありません。
でも、このことについても、わたしは次のように言いたいと思います。何をもって〝役に立つ〟研究と言えるかは、人それぞれの関心によるのだと。
たとえば、わたしは教育哲学徒として、「そもそも教育とは何か、どうあれば『よい』と言いうるか」という問いを解明することにこれまで努めてきました。
でもこの問いは、たとえば目の前の授業に追われていて、どうすれば日々の授業がうまくいくかというノウハウが知りたい先生などからすれば、”役に立たない”研究と思われてしまうかもしれません。
他方、自分の実践を改めて根本から見直したいと思う先生や、何千人、何万人もの子どもたちに大きな影響を与える教育行政関係者などは、わたしの研究に強い関心を持ってくれるかもしれません。「あんな研究、何の役にも立たない」という言い方は、だからとても乱暴なものなのです。
もっとも、あらゆる関心を踏まえた上で、なお、あまり意味がなかったり、時に弊害さえもたらすような研究も、ないわけではないかもしれません。でもそれは、多方面からの検証の過程で、基本的には淘汰されていくものだし、淘汰されなければならないものだとわたしは思います。
ともあれいずれにせよ、自分の関心に引っかからない教育学の研究を、ただそれだけの理由で「役に立たない」と言ってしまうのは、やっぱりちょっと乱暴な話なのです。
本書でわたしは、「学校をよりよいものにする」という”関心”から、さまざまな教育学研究の知見を活かしていきたいと思います。また、本書の内容は、わたしがこれまで、学問研究はもちろんのこと、新しい学校づくりや、国内外のさまざまな“現場”の方々との協働や対話を通して考えてきたものです。その意味で、みなさんの多様な“関心”に引っかかるものは、何かしらきっとあるはずだと思っています。
ただ、本書が最も焦点を当てているのは、小学校です。「小学校を、本気で、もっともっと幸せな環境にする」。そのための道筋を明らかにするのが本書の目的です。中学や高校、大学などについても、論じたい気持ちは山々ではありますが、それはまたの機会にということにして、今回は小学校を中心に考えていくことにしたいと思います。
と、そうは言っても、本書の内容は、中学や高校、高等教育機関、また保育所、幼稚園、こども園や特別支援学校などとも、もちろん密接に結びついています。小学校は学校教育のある意味土台ですから、本書のアイデアはそれ以外の学校種にも十分に適用可能なはずです。ぜひ、読者のみなさんの関心や立場に応じて、大いに役立てていただければ嬉しく思います。
さらに言えば、学校に行くことに意味を見出せない、あるいは、すでに学校に行くのをやめた子どもたちや、その保護者や先生たちにも、本書はきっと何らかの役に立つものになっているのではないかと思います。本書は、子どもたちにとって本当に意味のある、そして幸せな学びの環境をどう作っていけるかを提案するものであり、その意味では、学校に行くことを必ずしも絶対の前提にしているわけではないからです。
本書がささやかな踏み台となって、さまざまな”現場”で、日本の教育をよりよいものへと変革していく動きが起こってくれれば。そう切に願いながら、本文へと進んで行くことにしたいと思います。
(苫野一徳『「学校」をつくり直す』より「はじめに」を抜粋)
とまの・いっとく 1980年生まれ。専門は哲学、教育学。熊本大学教育学部准教授。著書に『教育の力』(講談社現代新書)『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)『勉強するのは何のため?』(日本評論社)他多数。