文庫 - 日本文学
【一挙78ページ無料公開】名作『星を継ぐもの』に異議あり!? SFの巨匠・山田正紀が挑戦状! - 3ページ目
山田正紀
2022.04.08
2
群衆行動解析システムが働いているうちは──
どんなに焦燥感にかられようと、うかつに走り出してはならない。不用意に隠れることもできない。すこしでも、一般の通行人の行動規範から外れることをしようものなら、たちどころに解析システムに引っかかってしまうからだ。解析システムの注意を喚起せずに、どうやってこの窮地から逃れればいいか。
大通公園の監視カメラは総計で八十台以上もある。それらのデータをぜんぶリアルタイム処理のストリーミングビデオで見ているだけの余裕はない。その必要もない。
以前、監視カメラ・ネットワークのコンピュータ・システムに「ルートキット」を仕込んでおいたからだ。それで、監視カメラ・ネットワークのトラフィックを可視化、高速検索し、その中身を覗くことができる。
覗いた。
Nシステム、Fシステム、顔認識システムはすべて無視し、群衆行動解析システムだけに絞り込んだ。
そして、過去二十分間を遡り、群集行動解析システムというフィルターから、鋭二を不可視な存在にしていく。ないものにしていく……
しらみつぶしのような根気を要する作業だ。いまのように、極端に時間がないときには、じつに神経をすり減らされる作業ではあるのだが……それにひたすら耐えるほかはない。スマホに集中するあまり、こめかみが錐をもみ込まれるようにキリキリ痛んだ。
これはぜひとも必要なことなのだ。どんなに神経をすり減らそうと、やるしかない。
なぜなら、これを終えれば、これから先、鋭二がどれほど極端な行動をとろうと、群衆行動解析システムがそれを異常行動として検知することがなくなるからだ。
実際には、すべての作業を終えるのに、ものの一分とは要さなかった。
これで完全に行動の自由を確保したことになる。どんなに走ったり、あるいは物陰に身をひそめたりしても、群衆行動解析システムがそれを異常行動として検知する恐れはない。安心だ。
が、鋭二がすべきことはこれにとどまらない。ほかにもやるべきことがある。
グーグルマップを検索した。
大通公園からは札幌方面中央警察署が近い。近くに交番もある。
ということは……
──パトカーが大通公園に急行するのに要する時間は三分というところか。
いや、もうすこしかかるかもしれない。四分? 五分? いずれにせよ、鋭二に残された時間はもうほとんどないはずだった。
──それでもやるしかない。
群衆行動解析システムを利用して、追跡チームの行動を不能にする。そして、できればその身元を突きとめる。
追われている人間が、監視カメラ・システムの画像処理技術を逆用して、追跡チームを窮地に追い込もうとはかる……無謀か? 無謀だろう。大胆不敵としかいいようのないことだが、これこそがハクティビストに特有の行動原理であり、発想なのだった。
いついかなる場合でも、相手のセキュリティホール──要するに弱点のことだ──を見つけ出して、そこを集中的に狙う。
そして、いま、鋭二はいきなり走り出す。口にコッペパンをくわえて。さっぽろテレビ塔のほうに向かって。公園を行く人たちがあわてて飛びのくほどの勢いで。
鋭二の突然のこの行動にはさぞかし追跡チームの面々も驚いたことだろう。が、彼らもまたプロなのだ。驚きはしても、いたずらに戸惑ったり、躊躇したりはしない。すぐに反応した。
一斉に動いた。全速力で追ってきた。
「……」
鋭二は走る。逃げる。早くも息を切らしている。首筋に汗が噴き出してきた。
鋭二自身はすでに群衆行動解析システムの処理対象に引っかからない。完全にシステムをスルーしている。
が、追跡チームはそうではない。彼らは大通公園を一斉に走り出した。まさに異常行動もいいところだ。群衆行動解析システムの格好の標的になる。全員、処理分析の対象にピックアップされていることだろう。
それが鋭二の狙いである。作戦でもある。だが、作戦はそれのみにとどまらない。
群衆行動解析システムにかけあわせるようにして、顔認識システムを生データ群の画面に呼び出した。
そして、追跡チームの面々を一斉に顔認識システムのフィルターにかけた。
いま、追われるキツネが追う猟犬に反撃する……
道警の高度情報技術解析協会には、顔認識システムの最高機密ファイルが収納されている。「最高警戒レベル」にランクされる危険人物ファイルだ。国際指名手配のテロリストが多い。ほとんどが外国人だ……もちろん、このファイルにアクセスできる人間の数はごく限られている。セキュリティは高い。
が、どんなにシステムのセキュリティに細心の注意が払われても、それに携わる人間の意識が低ければなんにもならない、というのもまた自明のことなのだ。
スタックスネットというコンピュータワームがある。これはインターネット経由ばかりではなしに、USBストレージ経由でも、システムを汚染することができる。
何カ月も前のことだ。
鋭二は、「最高警戒レベル」ファイルにアクセスすることが許されている田室という幹部職員に密着した。
田室はいわば解析協会札幌支部の広告塔のような存在であり、団体のホームページに頻繁に実名で顔を出していた。仕事に使っているメール・アドレスは、「名前・姓@企業ドメイン名」であることが多いから、それを突破口にすれば、膨大な個人情報を引き出すことができる。
鋭二は、その人間がセキュリティ意識が高いかどうか、一目で見てとることができる。
高度情報技術解析協会という団体の幹部でありながら、田室にはセキュリティ意識が信じられないほど希薄だった。
ホームページに掲載される田室の写真は、自分のノートパソコンを開いているところが多いのだが、USBメモリをそのまま挿しっぱなしにしている不用心さだ。
不特定多数の人間に、自分が使っているUSBメモリを特定される危険性をわかっていない。いや、理屈としてはわかっているのかもしれないが、実感としてまるでわかっていないのだ。
しかも職場のPCに使用しているUSBメモリをそのまま私用でも使っている杜撰さだった。いまどき、ありえないぐらいの無防備さだ。
フェイスブック、ツイッター、ライン、そのほか複数のSNSに積極的に参加していて、膨大な個人情報を無防備にだだ流しにしていた。
昼休みに食べたランチの写真をネットに公開すれば、それだけで彼が頻繁に利用するカフェを特定することができる。
ある火曜日、鋭二はそのカフェで田室のことを待ち伏せすることにした。
それまでのブログへの書き込みから、火曜日に、田室がそのカフェに出入りすることが多いのがわかっていたからだ。
最初の火曜日にもう田室はカフェに現れた。
彼は、カフェでノートパソコンで仕事をし、なんとUSBメモリをパソコンに挿入したまま、トイレに立ったのだ。
田室が使っているUSBメモリと同じものをあらかじめ購入しておいた。それにスタックスネットを仕込んでおいた。
田室のUSBメモリの情報をすべて、スタックスネットを仕込んだUSBメモリに高速コピーした。十秒とはかからない。
あとはUSBメモリをすり替えるだけだった。
これで、完全にスタンドアローンであるはずのコンピュータ・システムにスタックスネットを仕込むことができた。
それ以来、限られた人間にしかアクセスできないはずの「最高警戒レベル」ファイルに難なく侵入することができるようになった。
いつかは役に立つと考えた。その、いつかが、いまだった。
最高警戒レベルにランクされるテロリストたちの顔を次々ドラッグし、順次、追跡チームの顔に貼りつけていった。
顔認識システムが真っ赤に染まった! 一気に加熱した。
これで最高警戒レベルを告げるアラームが道警の解析協会に鳴りわたったことだろう。
こともあろうに国際手配されている凶悪なテロリストたちが、突如として、一挙に十人近くも大通公園に現れたのだ。
常識ではありえないことだし、想像を絶してもいる。緊急事態もいいところだ。
さぞかし道警本部は火がついたようなパニックにみまわれているにちがいない。半信半疑ながらも大量のパトカーを投入せざるをえないだろう。その騒ぎにまぎれて鋭二は逃げだすつもりでいる。
大通公園には一斉にパトカーが集結してくるはずだ。三分か、四分……さすがにそうなれば追跡チームはもう鋭二を追いつづけることはできなくなってしまうだろう。これで鋭二は逃げ切ることができる。
楽勝だった。なんの問題もない。いや、そのはずだったのだが……そうはならなかった。
そこにはとんでもない伏兵が待ちかまえていたのだった。