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天祢涼さんの最新作『県警の番人』から収録作の雑誌掲載版を期間限定公開!

天祢涼さんの最新作『県警の番人』から収録作の雑誌掲載版を期間限定公開!

天祢涼さんの最新作『県警の番人』が6月23日に発売になります。
発売を記念し、第一話「組織の論理」雑誌掲載版(「スピン」8号・9号掲載)を、【8月17日まで期間限定公開】します。

なお、「スピン」掲載時タイトルは「県警の番人」でしたが、単行本化にあたり「組織の論理」に改題しました。

ぜひ『県警の番人』発売後に読み比べていただき、一体どの部分が加筆/修正/削除されたのかをお楽しみください!

 

【著者コメント】

雑誌掲載時は1話完結の読み切りのつもりで書いており、タイトルは「組織の論理」ではなく「県警の番人」でした。主人公の監察官・鏡真人のキャラクターも微妙に違いますし、伏線も取捨選択しています。

そしてラストシーン。悩みに悩んだ末に、単行本版では視点人物の行動を変更しました。どちらの方が好みか、ぜひ感想をお聞かせください!

 

県警の番人
amazon、 楽天ブックス ほか全国書店で予約受付中

 

***

[短編 警察小説]

 
組織の論理
天祢涼
 
   1
 
「やめるのをやめることはできないわけ、佐々倉ささくらさん?」
「できませんよ、定年退職なんですから」
 佐々倉嶺夫みねおが答えると、石崎いしざき直子なおこはしわだらけの顔をくしゃりと歪めた。二週間前も同じやり取りをしたのに。苦笑する佐々倉に気づく様子もなく、石崎はため息をついた。
「本当に残念だわ。佐々倉さんと初めて会った日のことは、はっきり覚えてますよ。足を捻って道端に座り込んだ私に、颯爽と駆け寄って、おんぶしてくれて──」
 交番に設置されたカウンターに両手を突き、石崎は熱弁をふるい始める。この話も二週間前に聞かされた。その前から合わせると、何度目かわからない。苦笑が濃くなる一方で、佐々倉の目頭は熱くなっていった。
 先週は、交番の前を通る度に挨拶を交わしている幼稚園児の少年が、母親と一緒に佐々倉の似顔絵を持ってきてくれた。
 このQ県戦場山せんじようやまちよう山間やまあいにある小さな街なので顔見知りが多く、佐々倉の定年退職が一ヵ月後に迫っていることは住民の間に知れ渡っている。それを差し引いても、駐在所勤務でもない警察官相手に、こんな風に住民が立て続けに会いに来ることは珍しい。同僚からも「さすがです」「人望がありますね」などとほめそやされている。
「部長」と呼ばれるので偉いと勘違いされることもあるが、佐々倉の階級は巡査部長だ。最下級の巡査より一つ上に行っただけで退職することになる。出世とは無縁の警察人生だったが、こう思う。
 ──悪くなかったな。
 石崎はその後も、佐々倉との思い出を十分以上語って帰っていった。この交番は朝の散歩コースにあるらしいから、佐々倉が退職するまであと二、三回は訪ねてきそうだ。伸びをしながら席に戻ると、後藤柚葉ごとうゆずは巡査が近づいてきた。両手に持った盆の上では、湯飲み茶碗が湯気を立てている。
「お疲れさまです、部長。そろそろ終わるころだと思って緑茶をご用意──!」
 床になにもないのにつまづき、柚葉はたたらを踏んだ。盆の上で茶碗が揺れ動く。
「気をつけろよ──後藤」
 ユズちゃん、と言いかけてしまい、妙な間が空いてしまった。
「……すみません」
 なんとかバランスを保った柚葉が消え入りそうな声で呟き、頭を下げる。佐々倉の口許に、石崎を相手にしていたときとは別種の苦笑が浮かんだ。
 二年前、警察学校に入校した柚葉は、フレームが真四角の見るからにお堅い眼鏡をかけていることもあって、同期から「」「ザ・クール」などと呼ばれていたらしい。かくいう佐々倉も、少女時代の柚葉に何度か会ったときは、しっかり者という印象を受けた。
 しかし柚葉が部下として配属されて半年以上が経とうとしているいまは、その印象が先入観に基づく誤りだったと断言できる。日報に名前を書き忘れる、寝坊して朝礼に遅れかける、エンジンキーを挿したままパトカーから降りようとする……目の当たりにしたドジは枚挙にいとまがない。
 それでも失敗らしい失敗を犯していないのは、要領がいいと言うべきか、悪運が強いと言うべきか。いまだって、緑茶は盆の上に一滴もこぼれていない。
「部長のためにと思って淹れたのに、ってご迷惑をおかけするところでした」
 柚葉は小柄な体躯をさらに小さくしながら、佐々倉の前に茶碗を置いた。
 ──こういう気遣いをしてくれるだけでうれしいもんだよ、ユズちゃん。
 いつものように心の中では「ユズちゃん」と呼びかけた。このご時世、部下の女性を「ちゃん」づけ、それも下の名前で呼んだら、セクハラだ、軽く扱っているなど方々から目くじらを立てられることは目に見えている。それでも佐々倉にとって彼女は「後藤」ではなく、「ユズちゃん」だった。
 ──柚葉は美人になりますよ。俺じゃなくて妻に似ましたからね。
 頬をだらしなく緩めていた後藤一輝かずきは、いまの柚葉を見たらどんな顔をするだろう? 子どもがいない佐々倉には想像もつかない。
「部長、手紙が届いてます」
 外で立番りつばんをしていた三上みかみ孔太こうた巡査が、封筒を手に戻ってきた。郵便局がすぐ傍にあるので、この交番には午前九時前には郵便物が届く。
 交番宛に送られてくる郵便物は多くないが、ゼロではない。本日届いたのは、封筒一通だった。宛名には「佐々倉嶺夫様」と印字されている。思わず眉根を寄せてしまう。
 右脇から柚葉が、封筒を覗き込んできた。
「また部長宛ですか。最近よく来ますね」
「感謝の手紙が立て続けに来てるんだよ」
 寄せてしまった眉根を笑みでかき消したところで、交番の引き戸が開く音がした。
「おはようございます」
 交代の浦沢うらさわ和也かずや警部補が部下を二人引き連れ入ってきた。
 Q県警が管轄する交番の勤務体制は、三つの班に分かれた警察官がローテーションで担当する三交代制である。勤務時間は、午前九時から翌日の午前九時までの二十四時間。交代が来た段階で勤務終了となり、その日は非番となる。その翌日は休日。このサイクルが繰り返される。警察官の数が多い警視庁の交番は四交代制らしいが、万年人手不足のQ県警には望むべくもない。
 浦沢は佐々倉と目が合うと、軽く目礼しただけで視線を逸らした。浦沢は佐々倉より十歳以上年下だが、階級が上であるだけではない、この交番の責任者「ハコ長」である。佐々倉とは接しにくいのだろう。
 柚葉が浦沢に一礼する。
「お疲れさまです」
「おはよう、後藤。眠そうだな。若いからって無理すると、身体をこわすぞ。帰ったらゆっくり休めよ。あ、彼氏と予定があるか」
「彼氏なんていません」
「そういうことにしてやるけど、妊娠には気をつけろよ」
 柚葉がなにも言えずうつむくと、浦沢は愉快そうに唇を歪めた。
「その辺にしておいてあげましょう」
 見兼ねた佐々倉が口を挟むと、浦沢は「すみません」とばつが悪そうに言って席に着き、部下二人と一緒に三上と引き継ぎを始めた。
 浦沢に較べたら「ユズちゃん」呼びなんて軽いものだと思いながら、佐々倉は封筒を持ってトイレに入った。便座の蓋を下ろしたまま、ゆっくりと座る。最近は交代の警察官が来ると緊張の糸が切れるのか、腰がじんじん痛み出す。
 三月に入り寒さが少しやわらいだからいいものの、冬場は特にひどい。
 年を取ったもんだとため息をつき、改めて封筒を見た。今回の消印は、今回は隣町のものだった。これで五通目だが、毎回、Q県内ではあるものの消印が異なる。裏面にある住所と名前は、今回もでたらめだろう。
 封を開ける。入っていた便箋は、これまでと同じものだった。向かって右下に、二頭身にデフォルメされた黒猫のイラストが印刷されている。ネットで検索しても引っかかってこなかったが、どこかなつかしさを感じさせる、なかなか上手なイラストだ。
 このイラストにそぐわない一言が、中央に縦書きで印字されている。
〈真実を黙ったままやめるつもりか?〉
 かわいいイラストとはアンバランスで、一度目にしたら忘れられない不穏な雰囲気が漂っていた。手紙の送り主はそれを狙って、この便箋を使っているのだろうか。
「真実か」
 呟き、LED電球がぶら下がった天井を見上げた。
 連絡が取れないという高齢者のアパートに行って、腐乱死体を発見したこともあった。若者の喧嘩の仲裁をしたら、半グレ同士の抗争に巻き込まれたこともあった。どれも普通の体験ではないが、同僚たちと較べたら平穏な警察人生だったと思う。特筆すべきは、十年前のあの件くらいだ。ほかに、こんな手紙を送られる心当たりはない。
 あの件には、柚葉の父──後藤一輝が深く関与している。では、手紙の送り主は柚葉か? しかし柚葉は採用試験の面接で「市民の安全を守った父を尊敬しています」と語ったと聞いている。彼女の中であの件の「真実」は、既に固まっているということだ。
「夫を誇りに思います」と語っていた後藤の妻も、同様だろう。
 後藤の遺族以外に、あの件を蒸し返す者がいるとは思えない。となると、単なるいたずらか? 判断を任せるため上層部に届けるべきか? が、なんらかの理由で柚葉の中で「真実」が揺らぎ手紙を送ってきたのかもしれないと思うと、躊躇してしまう……。
 天井を見上げたまま目を閉じ、眉間を揉んだ。十年前のあの日、後藤が起こした事件と、あの男──〝Q県警の番人〟に聴取を受けたときの記憶が蘇る。
 
   2
 
 後藤一輝は佐々倉より年齢は五歳下だが、こちらが大卒、あちらが高卒で警察官になったため、キャリアは一期しか違わなかった。
 大きな声で笑う、豪放磊落ごうほうらいらくを絵に描いたような男だった。他人の目を気にしてしまう佐々倉は、うらやましく思っていた。
 一方で後藤の方も、人当たりのいい佐々倉を慕っていたらしい。警察学校の飲み会で互いに抱いている感情を打ち明け合ってからは、つるんで行動するようになった。その関係は、現場に出てからも変わらなかった。ベテランと呼ばれる世代に差しかかってから二人そろって幸鐘こうがね駅前交番に配属された後は、家族ぐるみで会うことも度々あった。
 事件が起こったのは、幸鐘駅前交番勤務になって二年目。連日猛暑日で、これからも当面続くという予報が出されていた、真夏の日のことだった。
 午後二時五分、迷子の少年を無事に母親に会わせて一息ついていると、県警本部から無線が入った。
〈幸鐘市幸鐘町三丁目の美空みそらアパート前から通報あり。このアパートの住人と思われる男がいきなり襲ってきたとのこと。通報してきたのは被害者本人。男は刃物のような物を持っており、被害者は激しく出血している模様。現在、男は逃亡中。直ちに美空アパートに向かうように〉
 緊張が走った。幸鐘市は治安が悪い方だが、ここまでの大事件は初めてだ。後藤とともに、すぐさまパトカーに乗り込んだ。
「決めつけはよくないが、美空アパートの住人でいきなり襲ってきたとなると、渡会わたらいの可能性が高いな」
「決めつけもなにも、渡会に決まってます。またヤバい薬物ヤクをやったんでしょう」
 ハンドルを握った後藤が吐き捨てた。
 渡会龍一郎りゆういちろうは重度の薬物中毒者として、Q県警内で悪名高い人物だ。十九歳のとき大麻所持で補導されたのを皮切りに、二十年以上娑婆シヤバと刑務所を行き来している。両親とは早くに死に別れ、周囲には支えてくれる友人知人もいない。刑務所でほかの囚人から暴行を受けたことが原因で人間不信に陥ってもいて、薬物中毒者を支援する団体が手を貸そうとしても頑なに拒否し続けているらしい。
 境遇に同情すべき点はあるが、薬物摂取も暴力沙汰も許すわけにはいかない。
 記録によると、渡会はこれまで二度、薬物による錯乱で暴行事件を起こしている。不幸中の幸いで凶器を使ったことはなく、被害者はいずれも軽傷で済んだ。今回のように刃物を用いたのは初めてだ。
「渡会が刃物か。よほどヤバ……ヤバい薬物ヤクに手を出した、んだろうな」
 佐々倉が緊張でうまくしゃべれないでいると、後藤は鼓舞するような笑みを浮かべた。
「しっかりしてくださいよ、佐々倉ササさん。そんなことだと、捕まえられるものも捕まえられませんよ」
「すまん」
 謝りながら、肝が据わった奴だと内心で舌を巻く。
 助手席の佐々倉からは見えないが、いまの後藤の右目下には青紫色の痣がある。三日前、家庭内暴力をふるうひきこもりの対応に当たった際に殴られた跡だ。
 ひきこもりは四十代の男性で、両親から通報を受けた佐々倉と後藤が部屋の前に行くと、いきなりドアを開けて金属バットを振り回してきた。あと少し避けるのが遅かったら、後藤の頭蓋骨は陥没していたはずだ。
 その後は暴れるひきこもりを佐々倉と二人がかりで押さえつけ、終わってみれば後藤は右目下を殴られただけで済んだ。とはいえ、命の危険に曝されたことに変わりはない。それなのに、こうも平然としているとは。
「これ以上の被害者が出る前に、渡会をとっ捕まえましょう」
 言い終えるや否や、後藤はアクセルを踏み込んだ。
 のちにわかったことだが、渡会が摂取したのはKICKキツクと呼ばれる危険ドラッグだった。少量摂取しただけで激しい幻覚に見舞われ、自傷・他害行為に及ぶ事例が続出し、この一年後に違法薬物に指定された。
 
「この辺りですね」
 後藤がパトカーを停めたのは、通報があった美空アパートの前ではなく、そこから三百メートルほど離れた幸鐘第二公園の傍だった。アパートに向かっている最中、無線で新たな指示を下されたのだ。
〈Q県警本部から幸鐘。刃物のような物を持った男が幸鐘第二公園付近を歩いていたとの通報あり。美空アパートには、現場付近に偶然いた県警刑事が既に臨場している。アパートに向かっていた者は目的地を幸鐘第二公園に変更して、住民の安全確保に努めよ〉
 この無線を受けた直後、さしもの後藤も表情が硬くなった。鏡を見るまでもなく、佐々倉も同じ表情になったことがわかる。
 右腰のホルスターに入れた拳銃が、重みを増した気がした。
 パトカーを降りると、防災行政無線の放送が耳に飛び込んできた。
〈繰り返します。緊急放送です。刃物を持った人物が幸鐘第二公園の近くにいる可能性があります。家にこもって、鍵をかけてください。安全が確認されるまで、絶対に外出しないでください。いま外にいる人は、直ちにすぐ傍の建物に入ってください〉
 放送の効果に加え、もともと町内の人口が少ないこともあってか、辺りは静まり返っていた。公園の砂場には、ほとんど汚れていないプラスチックのバケツとシャベルが放られたままになっている。
 誰もいないと判断しかけたが、砂場のすぐ傍に置かれたベンチに座る、枯れ木のようにやせ細った初老男性の姿が目に留まった。佐々倉は近づいて声をかける。
「おじいさん、ここにいたら危ないよ」
「は?」
「危ないよ!」
「え?」
 男性は、佐々倉に左耳を向けてきた。耳が遠いようだ。無線放送も聞こえていないのだろう。佐々倉が身振り手振りを交えて大きな声で説明すると、男性の顔はみるみる青ざめていった。
「おじいさん、おうちはどこ?」
「ここから歩いて二、三分だけど……」
 男性は不安そうに答えた。佐々倉は、後藤に言う。
「万が一のことがあったら困る。送っていってやろう」
「了解です」
 まずは男性をパトカーに乗せ、聞き出した住所をカーナビに打ち込んでから出発した。一分もかからず、男性の家に到着する。大人が三人も並べば一杯になる幅の道に面した小さな平屋の日本家屋だった。念のため、佐々倉が玄関まで付き添う。後藤には生け垣の外で、周囲を見回しながら待機してもらった。
 門から玄関までのアプローチは短く、辺りに人の気配はなかった。それでも、どこかに渡会が潜んでいるかもしれないと思うと佐々倉の背中には汗が滲んだ。街全体が静寂に包まれているから、余計に緊張するのかもしれない。しかし玄関ドアの前に立ち、男性に「安全が確認できるまで、しっかり戸締まりをしてね」と言っている最中さなかだった。
〈繰り返します。緊急放送です。刃物を持った人物が──〉
 突如静寂を破った無線に、佐々倉の心臓は跳ね上がった。聞こえていない男性は、不思議そうな顔をしている。佐々倉は苦笑しつつ、無線が終わった後で、戸締まりをするよう改めて男性に言い聞かせた。頷いた男性がドアを閉める。鍵がかかる音が聞こえてから、佐々倉は後藤のもとに戻った。
「待たせたな」と言おうとしたが、後藤は荒々しい呼吸で、佐々倉から見て左前方を見つめていた。ただならぬ気配を察した佐々倉は後藤と同じ方向に目を向け、息を呑んだ。
 後藤の視線の先、五、六メートルほど離れた地点は、右に曲がるL字路になっていた。その角のすぐ手前に、男が立っている。だらしなく伸びた髪と髭、異様に見開かれた双眸そうぼう。服装は、飾り気のない白いシャツと黒いチノパン。
 渡会龍一郎だった。
 渡会は左手を塀につけた体勢で、こちらを凝視していた。だらりとぶら下がった右手には、大振りの包丁。先端は、赤い液体で染まっている。真夏の陽光を浴びたその色が、佐々倉には場違いに輝いて見えた。
 目が合ったと思うのと同時に、渡会は奇声を上げて左手で塀を突き、その反動を勢いとするかのように迫ってきた。薬物のせいか、覚束ない足取りはやけに緩慢でスローモーションのようだったが、佐々倉は金縛りに遭ってしまったかのように動けない。こうした局面に対処する訓練は、何度もしてきたのに。
 後藤がなにか叫んだ。声がひび割れ聞き取れなかったが、「とまれ!」か。渡会は構わず迫ってくる。包丁が振り上げられる。
 それでも動けない佐々倉の鼓膜に、轟音が突き刺さった。後藤が両手で構えた拳銃の銃口から煙が立ちのぼり、硝煙のにおいが鼻孔をかすめる。聴覚、視覚、嗅覚。三つの感覚器が反応してから、理解が追いついた。
 後藤が発砲したのだ、と。
 渡会は、そんなはずがないのに発砲に気づかなかったかのように歩をとめない。後藤が再び叫び声を上げ、二発目を発砲する。それでも渡会はとまらない。日常的に射撃しているのでもないかぎり、動く相手に銃弾を命中させることは困難だ。ましてや、「致命傷を与えないため脚や腕の先を狙う」というのはフィクションの中だけの話である。現実にはそんな余裕はないし、命中したとしても部位によっては出血多量で死に至るので無意味だ。
 後藤が三発目、四発目を立て続けに発砲する。そのどちらが当たったのかはわからないが、渡会の胸から血が噴き上がった。ただでさえ見開いていた双眸をさらに大きくして、渡会が仰向けに倒れる。後頭部がアスファルトに直撃する鈍い音が響く。
 そのまま渡会は、動かなくなった。
 この現場に来る前、交番で保護した迷子の少年のために、後藤はアニメキャラの絵をいくつも描いていた。少年はぐずっていたのが嘘のように「そっくり」「うまい」と喜び、「次はこれ」などとリクエストまでするようになった。絵心がある後藤は得意になって、リクエスト以外の絵も描いていた。
 あれからまだ、二時間も経っていないのに……。佐々倉が呆然とそう思っている間にも、渡会の白いシャツは赤く染まっていく。チノパンの黒との色取りが、やけに鮮やかに見えた。
 
 市民を負傷させた上に包丁を持った薬物中毒者が、それも暴行の前科持ちが襲いかかってきたとあっては、発砲もやむをえない。もっと警告するべきだった、過剰防衛だった、などと批判してくる連中もいるだろうが、毅然と突っぱねるべき──〝Q県警の番人〟から聴取を受けた佐々倉は、そう主張した。あの局面で自分たちが渡会の凶刃に倒れていたら、さらなる犠牲者が出ていたかもしれないのだ。後藤の判断は正しかったと心の底から思った。
 ドラッグ摂取後の渡会の行動について詳細が判明した後も、その思いは変わらなかった。
 後藤も「人を一人殺してしまったことは一生背負わないといけないと思っている。しかし、発砲はやむをえなかった」と主張し、Q県警はマスコミに「発砲に問題はなかった」と発表した。予想どおり、一部からは批判の声が上がったが、「市民の安全を守るためには当然の判断」「批判する奴は実際に刺されそうになってみろ」などと後藤を擁護する声の方が圧倒的に大きかった。
 二週間もしないうちに世間の関心は別のニュースへ移り、批判も擁護もなくなった。
 とはいえ上層部は、それまでどおり勤務させるわけにはいかないと判断したのだろう。翌春、佐々倉と後藤は遠方にある別々の交番に異動になった。佐々倉は心機一転のつもりで仕事を続けたが、後藤の方は一年後に退職した。
〈自分が間違った判断をしたとは思ってません。でも周りから『発砲した警察官』という目で見られることが嫌になったんです〉
 退職すると聞いて電話した佐々倉に、後藤は重荷を下ろしたような声で言った。
 それから後藤は警察OBの伝手つてで警備会社に転職し、X県に転居した。物理的に距離ができてしまったものの、佐々倉は折りを見て連絡を取り、半年後には飲みにも行った。
 佐々倉はうわばみで、大学時代は毎晩のように酒を飲んでいたが、警察官になってからは晩酌を少なくし、飲み会でもビール一杯にとどめている。後藤の方はそんな配慮は一切なく、この日もビールを何杯もあおった。
「相変わらずよく飲むな」
「警察をやめたらほっとして、酒の量が増えましたね。佐々倉ササさんもそうなりますよ」
「俺はやめてからもビール一杯を貫く。いつまでも心は警察官だ」
 二人して笑っていると、後藤のスマホに電話がかかってきた。
「職場からだ。ちょっとはずします」
 店を出た後藤は、佐々倉がスマホを見て時間をつぶすのにも飽きたところで、ようやく戻ってきた。
「なにかトラブルか」
「スーパーの警備をしていた部下が、なにもしてない中学生を万引き犯扱いして、保護者と店長から大目玉を喰らったんです。そのクレームが、俺のところにも来ました」
「そいつは大変だったな」
 その部下は、後藤からも雷を落とされることだろう。内心で同情していると、後藤は首を横に振った。
「部下の失敗は、上司である俺の責任ですから。あんまり怒鳴ると萎縮して失敗を報告できなくなるし、やんわり注意するだけにしておきますよ」
 そう語る後藤の顔は、警察官時代とは別人のようにいでいた。転職後も警察の流儀が抜けず、民間企業に順応できない者もいるが、後藤は違うと思った。
 それからも後藤とは、年に数回飲んだ。思ったとおり警備会社の主力として頼りにされているようだったが、警察退職から四年後に病死。そのことを佐々倉は、後藤の妻から葉書で知らされた。本人の希望で、葬儀は家族のみで済ませたという。
 あまりに突然のことで、佐々倉は自殺を疑った。間違った判断をしたとは思ってない、と言ってはいたが、人を殺した罪悪感に押しつぶされたのかと思った。しかしそれなら、佐々倉に一言くらい相談してきたはず。転職後は、部下を思いやる余裕もあった。
 病死だと判断するしかなかった。
 
   3
 
「お久しぶりです、佐々倉部長」
 十年前の事件が頭から離れぬまま当直を終えて署に戻った佐々倉は、更衣室のドアノブに手をかけたところで呼びかけられた。声の方を振り向いた次の瞬間、全身が硬くなる。
 佐々倉の様子を見て誤解したのか、相手は申し訳なさそうに一礼した。
「私のことは覚えていませんよね。十年前に一度会ったきりですからね」
 返事に窮した佐々倉は、背筋を伸ばしてから一礼した。
「そんなことはありません。お久しぶりです、かがみ監察官」
 鏡真人まさと。階級は警視。所属はQ県警本部警務部監察官室で、基本的に﹅﹅﹅﹅監察官だ。
 監察官とは、物議を醸す言動や規則違反などをした警察官の聴取・捜査を行う役職である。その職務内容ゆえに豊富な経験を必要とされるが、Q県警では癒着や馴れ合いを防ぐため、任期は三年、例外的に延長される場合も五年とすることが不文律となっている。
 ところが鏡は、三十路みそじすぎに監察官になったのを皮切りに、三年の任期を終えて警務部厚生課に異動した一年後には、再び監察官に復帰した。三年後に今度は総務部人事課に異動、その一年後に監察官に復帰……というサイクルを繰り返している。鏡以外に同種の人事はなく、異例中の異例である。
 かつてのQ県警は、裏金づくりや違法捜査などの不祥事を連発しており、マスコミから「日本で最も信頼できない警察」のレッテルを貼られていた。街中でQ県警の警察官が「お前らは信用できない」「税金泥棒」などと罵声を浴びることも度々あった。佐々倉もその経験がある。
監察官までも不祥事に加担する事態が頻発したため、任期に関する不文律ができた。
 しかし鏡が監察官になってから悪徳警察官は階級に関係なく処分され、世間からの信頼は劇的に回復した。その手腕を買った警察庁のキャリアたちが、鏡が監察官を続けられるようQ県警上層部に圧力をかけている。鏡も自分の役割を心得ており、人事課時代に県警内の人事権を掌握、誰も逆らえない体制を築き上げた──そんな噂がまことしやかに囁かれている。
 そのため鏡は〝Q県警の番人〟という異名も持つ。
 しかし本人は、物騒な異名とは裏腹に、見るからに人がよさそうな顔つきをしている。いまも佐々倉を見上げる双眸は穏やかで、口許は笑み崩れそうだ。
 十年前、監察官として後藤の発砲に関して佐々倉を聴取したときも、そうだった。
 鏡が一礼を返してくる。
「覚えていてくださって光栄です」
「忘れるはずがありませんよ」
 嘘ではない。十年ぶりでも、鏡であることは一目でわかった。それなのに全身が硬くなった理由は二つ。一つは、鏡の外見が十年前と変わっていないから。痩躯も、やや青白い肌も、癖の強い黒髪も、なにもかもそのままだ。年齢は確か五十に近いはずだが、とてもそうは見えない。
 もう一つは、こんなところで再会するとは思っていなかったから。
 佐々倉が鏡と接したのは、十年前の発砲事件の際、聴取を受けたときのみだ。わざわざQ県のはずれにある警察署まで来て話しかけてきたのは、この件のこと以外に考えられない。鞄の中には、今朝届いたばかりの封筒が入っている。そちらに目が行きそうになる佐々倉に、鏡は言った。
「来月で定年だそうですね。お疲れさまでした。いろいろなことがあったと思います。特に十年前の件は、後藤部長はもちろん、佐々倉部長もさぞ辛かったことでしょう」
 やはりその件か。警戒しながら頷く。
「そうですね。あの後、後藤は退職してしまいましたし」
「それから間もなく亡くなったとも聞いています。ですが後藤部長は、立派な警察官だったと思いますよ。ご息女が警察官になったことが、その証拠です」
 鏡が未だ後藤を階級をつけて呼んでいることに、佐々倉は気がついた。
「ご息女──後藤柚葉巡査の採用面接には、私も参加しました。少し話しただけで、彼女には警察官としてやっていくのに充分な能力があるとわかりましたよ。ただ、一度ひとたび父親への尊敬の念が崩れたらどうなるかわからない危うさも秘めているように思いました。どんな警察官になるかは、これからの彼女次第です」
 鏡が佐々倉の顔を見据える。
「現在の彼女は、佐々倉部長の部下だと聞いてます。定年まであと一ヵ月、できるかぎり導いてやってください」
 もしや鏡は、この話をするため佐々倉に声をかけてきたのだろうか。
「もちろん、できるかぎりのことはします」
「お願いします」
 鏡は再び一礼して背を向ける。遠ざかっていく背中に、佐々倉は自然と敬礼した。
 
 三時間後。電車を乗り継ぎ幸鐘町に到着した佐々倉は、後藤が発砲した現場を目指し歩いていた。当直明けに遠出するのは、いつ以来かわからない。出がけに妻の冴子さえこに随分心配されたが、居ても立ってもいられなかった。
〈真実を黙ったままやめるつもりか?〉。あの手紙を送ってきた者が誰なのか必ず突きとめる──鏡と話をして、そう決意したからだった。もしも手紙の送り主が柚葉なら、なぜあんな手紙を送ってきたのか聞き出し、誰にも知られぬよう穏便に事を済ませたい。
 無論、いまさら現場を見たところで得られるものがないことはわかっている。それでも事件以来一度も足を運んでいないあの場所を、この目で見ておきたかった。
 現場に到着する。あの日送っていった男性の家は既になく、空き地になっていた。門があったとおぼしき辺りで足をとめる。当時は気づかなかったが、周囲には古い木造住宅が立ち並んでいた。その大部分は、ブロック塀がたわんでいたり、蔦が壁に這っていたりと人の住んでいる気配がない。家を継ぐ者がいなくて空き家になっているのか、あんな事件があったから転居する者が相次いだのか、その両方か。
 昼時とは思えないほど静まり返った道を、渡会が塀に左手を突いて立っていた場所、L字路を曲がってすぐの地点へと歩を進める。身体が震えたのは、寒さだけが理由ではなかった。
 当時あったと記憶している速度制限の道路標識は、撤去されていた。車も人もあまり通らないからだろうか。しかし、自転車と歩行者の接触事故の目撃情報を呼びかける看板は立てられている。道路標識は老朽化かなにかが理由で撤去したのかもしれないが、代わりにカーブミラーを設置すればよいものを。予算を割く価値がない過疎地域と見なされているのか。
 L字路を曲がる。道の両脇には民家と商店が三軒ずつ並んでいた。そのすべての窓にカーテンがかかっておらず、家具のない屋内が丸見えになっていた。十年前の時点からこの状態だったと鏡から聞かされたことを思い出す。
 得られるものがないと思っていたが、間違いだった。もともとが寂れた場所だったのだ。事件のせいで転居を余儀なくされた住人がいたとしても、佐々倉に復讐心を抱くはずがない。たとえ抱いても、あんな手紙を送ってくるほどの執念は燃やさないだろう。
 手紙の送り主が現場近辺の住民、もしくは元住民である可能性は無視していい。
 
   4
 
「父は毎日、『自分が生きているのは佐々倉さんのおかげだ』と言ってるんですよ」
「本当ですよ、佐々倉さん。あなたがいなかったら、私はどうなっていたことか」
「そう言っていただくのは光栄ですが、私はなにもしてません」
 佐々倉が恐縮しても、小石川壮一郎こいしかわそういちろうとその娘はとまらない。
「佐々倉さんには、本当に助けられたんです。トラウマで出歩けなくなった私のために、佐々倉さんは何度もアパートに来て──」
 小石川は、十年前、渡会による暴行の被害に遭い通報してきた美空アパートの住人である。既に定年退職していた小石川は、あの日、買い物から帰ってきたところを背後から襲われた。以来、誰かに背後に立たれることに恐怖を覚え、日常生活に支障をきたすようになった。
 その話を聞いた佐々倉は、巡回がてら、小石川のもとを訪問し続けた。ほかにも仕事があるので、それほど頻繁に通ったわけではない。しかし小石川は娘の協力もあって、トラウマを克服した。
 いまはその娘と暮らしており、佐々倉が定年退職するという話を聞きつけ、二人で礼を言いにきてくれたのだ。ありがたくはあるが、今日ばかりは勝手を承知で「なにも朝っぱらから」と思ってしまう。
「犯人に襲われたときは一人きりだったから、パニックに──」
「少し殴られたくらいで大袈裟だと自分でも思ったんだけど、どうしても──」
「佐々倉さんは、私の泣き言を嫌な顔一つせず聞いてくれて──」
 小石川の話は長くなりそうだった。気づかれぬよう、腕時計にそっと視線を落とす。交代の浦沢班が到着するまで、あと十分。もし引き継ぎを済ます前に事件や事故の通報があれば、対処するのは佐々倉たちだ。その場合は残業となり、最悪、夜まで帰れない。今日は夕方から後藤の妻、 千紗都 ちさとと会う約束をしているので、できるだけ早く引き継ぎを済ませて帰宅し、仮眠を取りたかった。
 無論、千紗都に会うのは、手紙の送り主を調べるためである。十年前の件に興味を持っている者はいないか、最近さぐりを入れてきた者はいないか。なんでもいいから情報がほしかった。
 千紗都や柚葉が送り主か否か、見極めたい気持ちもあった。
 既に柚葉の方には、昨夜、勤務中にさぐりを入れてある。三上が立番に出たタイミングで「最近、誰かとお父さんの話をしたり、したいと思ったりしたことはないかな?」と訊ねると、柚葉は小首を傾げた。
「どうしたんですか、唐突に?」
 本当に唐突だと自分でも思った。こういうことだから出世できなかったんだと自覚してはいるが、佐々倉はほかに方法を知らない。「定年が近いせいか、最近、お父さんのことをよく思い出すんだ」などと言い訳していると、柚葉は言った。
「仕事に慣れるのに精一杯で、そんな暇ありませんよ」
 柚葉は笑ってこそいたものの、話している最中、眼鏡の向こうにある瞳を不自然に逸らしたように見えた。
 心証は灰色といったところだ。
 
 なんとか定時であがった佐々倉は帰宅後、仮眠を取ってから千紗都の家に向かった。
 後藤の死後、千紗都はそれまで住んでいた一軒家を引き払い、同じX県内の別の市にあるマンションに転居していた。Q県からは二時間近くかかる。柚葉も警察官になるまで、この家に同居していたという。
「ご無沙汰してます、佐々倉さん」
 玄関のドアを開けた千紗都が会釈した。会うのは、後藤の死を知らされてすぐ、線香をあげに行ったとき以来だ。千紗都が「事前にお伝えしなくてすみません。でもあの人は、弱っている姿を家族以外に見せたくないと言っていたんです」と俯き加減に謝罪してきたことを思い出す。
「急に押しかけて申し訳ない」
「構いませんよ。どうぞお入りください」
 千紗都に促されて中に入る。佐々倉を先導して廊下を進む足取りはゆっくりで、少しふらついていた。どこか悪いのか? 佐々倉の視線を感じ取ったか、千紗都が振り返る。
「リューマチなんです。去年の秋くらいから、ちょっとひどくなりまして。知り合いの会社で事務を手伝っているんですが、週三回の勤務に減らしてもらいました」
 リューマチか。最後に会ったときは、そんな様子などなかったのに。全身が丸みを帯びたのは、加齢だけでなく、趣味のジョギングができなくなったことも影響しているのか。送られてきた手紙の消印がすべてQ県内の違う場所だったことを考えると、千紗都は無関係と考えていいかもしれない─共犯者がいる可能性もあるので、まだ断定はできないが。
 居間に通される。後藤の写真は、窓際の小さな仏壇に飾られていた。両端が持ち上がった唇からは、いまにも豪快な笑い声が聞こえてきそうだった。千紗都が椅子に腰を下ろしてから、佐々倉は写真に手を合わせた。
 ─もし手紙の送り主がユズちゃんだったら、俺がなんとかしてみせる。
 後藤に誓ってから、佐々倉は千紗都に顔を向けた。
「本日はお時間いただき、ありがとうございます。誰かと後藤の話をしたくなりまして」
「そう言ってもらえて、後藤も喜んでいると思います」
「かわいい後輩でしたから。千紗都さんの方は後藤について、なにか話したいことはありませんか」
 佐々倉の質問に、千紗都は当惑気味に答えた。
「話したいこと、ですか。それは、まあ……いろいろありますけど……」
「具体的には?」
「出会ったころのこととか、柚葉が生まれたときのこととか……」
「もっと後のことはどうです? なにか気になっていることはありませんか?」
「そう言われましても……」
「では最近、誰かと後藤の話をしたり、したいと思ったりしたことはありませんか?」
 柚葉にしたのと同じ質問をぶつけると、千紗都の当惑が大きくなった。その様を見て、佐々倉は心中で断じた。
 ─白シロだ。
 千紗都は、佐々倉がなぜこんな質問をしてくるのかわかっていない様子だった。あの手紙を送ってきたのなら、こうはなるまい。共犯者がいる線も捨ててよさそうだ。
「ところで、警察をやめてからの後藤はどうでした? 親しい友人や、新しい職場の同僚で仲よくしている人はいましたか?」
 当惑していた千紗都の面持ちに、怪訝の色が滲んでいく。俺は本当に質問が下手だなと自嘲しそうになったが、強引に続ける。
「どうです? いましたか?」
 佐々倉の勢いに押されたか、千紗都は怪訝そうにしながらも答えた。
「新しい職場で頼りにはされていたようですが、個人的に親しくしている人はいなかったと思いますけど……Q県警の人でつき合いが続いていたのも、佐々倉さんくらい……」
「最近になって、後藤のことをあれこれ訊ねてきた人は?」
「いませんけど……」
 千紗都が嘘をつく理由はない。Q県警及び後藤の転職後の職場に、いまさら十年前の件に関心を持つ者はいないと見ていい。彼らは手紙と無関係ということだ。
 そうなると単なるいたずらか、やはり柚葉の仕業なのか。昨夜の時点で柚葉の心証は灰色だったが、千紗都の可能性が消えたいまとなっては怪しくなったと言わざるをえない。
「柚葉はいま、佐々倉さんと同じ交番で働いているんですよね」
 佐々倉の心の声が聞こえたかのように、千紗都は柚葉の名前を持ち出した。怪訝の色が濃くなっていた顔に、今度は不安が広がっていく。
「もしかして、あの子が後藤のことでなにか言っているんですか? それでさっきから、妙な質問をしているんですか?」
 佐々倉は、慌てて首を横に振った。
「違います。ユズちゃんと後藤の話をしたことは、ほとんどありませんよ」
「なら、いいんですけど……。もしかしたら、あの子が後藤のことで無理をしているんじゃないかと思ったものですから」
「そういう気配があったのですか」
 渡りに船とばかりに訊ねると、千紗都は「気配というのとは、少し違うのかもしれませんけど……」と言い淀んでから続ける。
「後藤は発砲したときのことを、私と柚葉に直接説明してくれたんです。マスコミからねじ曲がった形で私たちに伝わるのが嫌だったんだと思います。私はもちろんですが、柚葉はものすごくショックを受けていましたね。部屋に引きこもったかと思えば、親の目を盗んでどこかに出かける、そんなことを何日も繰り返していました。でもある日突然、なにかが吹っ切れたように言い出したんです。『市民を守るために銃を撃ったパパを尊敬する。将来は、私もそういう警察官になる』と」
「それについて、後藤はなんと?」
「後藤には内緒にしていました。いつか時が来たら言うつもりだったようですが、その前に亡くなって……。私は柚葉が警察官になることに反対だったんですよ。でも、娘の人生に親が口出ししすぎるのもよくないですからね」
 千紗都は、少しさみしそうに笑ってから訊ねてきた。
「あの子は、ちゃんとやってますか?」
「ええ、それはもう」
「そうですか。柚葉は子どものころからしっかりしてましたけど、その分、思い詰めてなにかしてしまうんじゃないかと心配で……」
 意外としっかりしてない面もありますよ、と冗談めかして言ってやれば千紗都も少し安心するかもしれないが、とてもそんな気にはなれなかった。
 後藤が渡会を射殺したとき、柚葉は中学生だった。多感な年ごろだ。一度は現実を受け入れ、「警察官になる」と言ったものの葛藤はあったはず。それがいまになって蘇り、発砲の裏になにかあると思って佐々倉に手紙を送ってきた線は充分ありうる。
 しかし、たとえ柚葉が手紙の送り主だとしても証拠はない。昨夜さぐりを入れた際に白を切ったということは、柚葉はこの先も佐々倉に手紙を送り続けるつもりなのだろう。そうすれば佐々倉が罪悪感に負け、「真実」を口にするとでも思っているのだろうか。あまりに佐々倉宛の手紙が続いては、さすがに三上が不審に思って上層部に報告するかもしれない。そうなる前に柚葉をとめたい。しかし、どうすれば……。
「柚葉には、美術の先生が向いていると思ったんですけどね。後藤に似て、絵が上手だから。本人は『教師はそれだけでやっていける仕事じゃない』と顔をしかめてましたけど」
 適当な相槌を打つ寸前、佐々倉は気づいた。
 もしかしたらあの手紙は─そんなミスをするはずが─いや、ありえなくはないか?
「佐々倉さん? どうしたんですか?」
 千紗都の声は、ぼんやりとしか聞こえなかった。
 
   5
 
 柚葉を公民館の貸し会議室に呼び出したのは、三日後の当直明けだった。完全な個室なので、第三者に話を聞かれる心配はない。
「佐々倉部長と仕事以外で会うなんて、警察官になってからは初めてですね。なんだかデートみたい。全然おしゃれな恰好をしてませんけど」
 部屋に入ってきた柚葉はおどけた調子で、白いセーターを見せるように両腕を広げた。しかし、口許に載せた笑みはぎこちない。
 柚葉が向かいの席に座ると、佐々倉は五通の手紙を前置きなく机に置いた。
「これを送ってきたのは、ユズちゃんだよね」
 敢えて子どものころの呼び方をして告げた。柚葉の瞳が、先日の再現のように逸らされる。それをごまかすように、柚葉は首を横に振った。
「意味がわかりません。これは一体なんの手紙ですか?」
「言わなくてもわかってるんだろう。私には、こんな手紙を送られる心当たりは十年前の件くらいしかない。あの事件の関係者の仕業だろうと踏んで、ユズちゃんのお母さんに話を聞きに行ったんだ」
「なにを言っているのかわかりませんけど、佐々倉さんが家にいらしたことは母から聞いています」
「お母さんの話を聞いているうちに、思い出したことがある」
 佐々倉は封筒から便箋を取り出すと、右下に描かれた黒猫のイラストを指差した。
「このイラストは、私に送られてきたすべての便箋に印刷されていた。初めて見たときから、なんだかなつかしい感じがしてね。どこかで見たのかと思ってネットで調べたが、わからなかった。でもユズちゃんのお母さんと話しているうちに思い出したんだよ。後藤─君のお父さんが、絵が得意だったことを」
 十年前のあの日も、後藤は迷子の少年のためにアニメキャラの絵をいくつも描いていた。
「お父さんがこの黒猫の絵を描いているのを、私はどこかで見ていたんだろう。だから、なつかしい感じがしたんだ。お父さんはこの絵を気に入っていて、オリジナルの便箋をつくった。私はこの便箋を見たことがないし、お父さんは警察をやめた後、親しくしていた人はいなかったとお母さんから聞いたよ。つまり、自分や家族のためだけにつくったもの。この時点で送り主は、ユズちゃんかお母さんに絞られる。だが、お母さんはリューマチで歩くのが大変そうだった。手紙の消印はすべてQ県だったから、X県に住むお母さんが投函するのは無理だ。消去法で、送り主はユズちゃんということになる」
「でも─」
 なにか言いかけた柚葉だったが、目を伏せると絞り出すように言った。
「……ごめんなさい」
 その一言を聞いた佐々倉は、大きく息をついた。
「認めるんだね」
「はい。定年が近い佐々倉さんに、こんなものを送るべきではありませんでした。しかも、父の便箋を使うというミスをするなんて……自分が嫌になります」
 言葉とは裏腹に、柚葉は肩の荷を下ろしたような、安堵の表情を浮かべていた。
「父は声が大きいからよく誤解されていたけど、優しい人でした。相手が凶悪犯だろうと銃を撃ったなんて信じられなくて、父から事件のことを聞かされた後すぐ、こっそり現場に行ってみたんです。どんな相手だったら父が発砲するのか、渡会が出てきた角に立って考えましたよ。自分が渡会になったつもりで、いろんな顔をしたり、暴れる真似をしたりしながら。後ろから自転車が来る度にベルを鳴らされて、随分迷惑をかけましたけどね」
 まだ中学生の柚葉がそうしている姿が思い浮かび、佐々倉は胸が痛くなった。
「でも、だめでした。私がなにをしようと、想像の中の父は銃を撃たなかった。それに娘の勘ですけど、父はなにかを隠しているような気がしてならなかった。本当のことを教えてほしい、と私がいくらせがんでも『もう話すことはない』と拒否されましたけど、絶対に。だから思ったんです。父は誰かをかばっているんだ、と」
「誰か」と口にするのと同時に、柚葉は佐々倉を見据えた。
「渡会を撃ったのは、本当は佐々倉さん。父は、身代わりになったのではありませんか。私はその証拠をつかむために、警察官になろうと決めたんです。Q県警に入れば、外にいたのではわからない情報をつかめるはずだから。父が亡くなってからは、その気持ちが一層強くなりました。何年かかっても構わなかった。でも配属先の交番に、佐々倉さんがいた。こんなチャンスは滅多にない。配属されてから、ずっと様子をうかがっていたんですよ。でも佐々倉さんは本当のことを話してくれそうにないし、どうやって問い詰めたらいいのかもわからない。もう強行手段に出るしかないと思って、それを」
 柚葉の視線が、便箋に向けられた。
「なるほど。私を脅して罪悪感を刺激すれば、全部しゃべると思ったわけか」
 首肯した柚葉は、そのままうな垂れた。父を思うがあまり身勝手な行動に出た挙げ句、単純なミスで自滅するとは。
 ─愚かな娘だ。
 上層部に報告すれば、柚葉には間違いなく処分が下される。しかし佐々倉は、とてもそうする気にはなれなかった。この娘が中学生のときから「真実」を知るべく生きてきたのかと思うと、胸が締めつけられていく。
「これからする話は、誰にも─お母さんにも言わないと約束してもらえるかな」
 柚葉が顔を上げる。
「これからする話って……父のことですよね。誰にも言うなということは、やっぱり父は佐々倉さんを─」
「そうじゃない。でもユズちゃんの勘は正しいよ。お父さんには、確かに隠していることがあった」
 一旦目を閉じ、内心で後藤に手を合わせてから佐々倉は告げる。
「お父さんが銃を撃ったとき、渡会は左足を負傷していたんだよ。かなりの出血で、歩くのもやっとの状態だった。あのときの奴に、危険はなかったんだ」
 
 十年前のあの日。口裏合わせを避けるためだろう、佐々倉は、後藤とは別の部屋で鏡から聴取を受けた。後藤が責めを負う必要はないという佐々倉の話を一通り聞いた鏡は、大きく頷いた。
「佐々倉部長のおっしゃるとおりだと、私も思います」
〝Q県警の番人〟と呼ばれている相手だけに畏縮していたが、思いのほか話がわかる─胸を撫で下ろした佐々倉だったが、鏡は「ですが」と柔和な顔を苦しそうに歪めた。
「渡会は負傷していました。自分で自分の左大腿部を刺し、出血しながらあなたたちの前に現れたのです」
 意味がわからない佐々倉に、鏡は説明を始める。
 渡会はドラッグによって錯乱状態に陥り、自傷行為に及んだと見られる。現場となったL字路を曲がってすぐの場所からは、渡会のものと思われる血痕が発見された。検視官の所見によると、左大腿部から出血したものである。出血量から、まともに歩ける状態でなかったことは確実─そう聞かされても、佐々倉は理解が追いつかなかった。
「負傷なんて、そんな……」
「渡会が出血していることには気づかなかったのですか?」
「包丁に目を奪われていましたから。でも、渡会は塀に左手を突いていたような……」
 左手を塀に突き、こちらを凝視していた渡会の姿を思い出す。鏡は微かに頷いた。
「負傷のせいで立っていられなかったのかもしれませんね。後藤部長も出血に気づいていなかったのでしょうか?」
「そんな余裕はなかったはずです」
「ほかに気になることは?」
「……渡会が現れる前に、防災行政無線が流れていました。渡会が大腿部を刺したとき悲鳴を上げても、無線に紛れて聞こえなかったかもしれません」
 無線に驚いていたまさにあのとき、渡会は自分で自分の足に包丁を突き立てていた─首筋が粟立った。
「では、渡会の包丁についた血は……」
「渡会自身の血です」
「被害者の血も混じっていたんですよね。激しく出血していると通報してきたと聞いていますよ」
 佐々倉はすがるように身を乗り出したが、鏡は首を横に振った。
「被害者は恐怖のあまり錯乱していて、実際には殴られて瘤こぶができただけだったんです。本人は出血しているという話をしたこと自体、覚えていませんでした」
「ほかに被害者は?」
「いません」
 そういえばこちらに迫ってくる渡会は、足取りが覚束なかった。薬物のせいもあるだろうが、負傷していたことも原因だったのか。スローモーションのように見えたのは、実際にゆっくりだったということか。ということは……動揺する佐々倉に、鏡は結論を口にした。
「後藤部長の発砲は、過剰防衛だったと見なされますね」
「待ってください!」
 あの状況では包丁に注意が行ってしまうので、大腿部の出血に気づくのは無理だった。渡会のチノパンの色が黒だったので、出血が見えづらくもあった。第一報で「激しく出血している」と言われたら、包丁の血は被害者のものだと誰もが思う。後藤が発砲した後も渡会は迫ってきたから、左足を引きずっていることに気づかなかったのも仕方がない─佐々倉は必死にそう主張した。情けないほどしどろもどろになったが、鏡は適度に相槌を打ち、最後まで耳を傾けてくれた。
「佐々倉さんのお話はわかりました。ここでしばらく待っていてください」
 その一言を残し、鏡は部屋から出ていった。それから佐々倉は、長いこと一人で待たされた。忙しなく手を組んだり、爪を噛んだりしているうちに一時間以上が経過する。監察官は俺のことを忘れてしまったのでは、と半ば本気で思いかけたところでドアがノックされ、鏡が戻ってきた。
「確認しなくてはならないことがあったので長引きました。大変失礼しました」
 鏡は上官に接するように一礼してから、佐々倉の向かいに腰を下ろした。
「現場付近は空き家が多い。佐々倉部長が送っていった男性は耳が遠く、状況を把握している可能性は低い。あのL字路には速度制限の道路標識は立っていますが、車の通りはほとんどない。L字路を曲がった先にある家と店舗はすべて空き家。目撃者の心配をする必要はありません。また、捜査記録によると、渡会には両親だけでなく、親類縁者もいません。県警の息がかかった葬儀業者と寺院に頼めば、無縁仏として弔ってもらえるということです」
 鏡が言わんとしていることは、つまり、
「渡会の負傷を隠蔽できる、ということですか」
「現在、現場は通行止めにしています。渡会の血痕は、近隣住民に気づかれず消すことができる。念のため、当面は現場に近づかないようにしてください。既に後藤部長には話を通してあります。この件を墓場まで持っていくと誓ってくれましたよ。人間、いつどんな形で死ぬかわかりませんが、後藤部長は約束を守ってくれるでしょう。あとは佐々倉部長が─」
「黙っています」
 一瞬も迷わなかった。
「渡会が負傷していたことを知ったら、世間は間違いなく後藤をたたく。Q県警の信頼も損なわれる。後藤がどれだけ責任を感じるかわからない。薬物中毒者のせいでそんな目に遭うのは、あまりに理不尽です」
 鏡は、佐々倉の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「Q県警のためにも、そうしていただけるとありがたいです」
 
「嘘……」
 佐々倉の話を聞いた柚葉は、かすれた声で呟いた。
「噓じゃない。この前、渡会に襲われた小石川さんが交番に来たとき、『少し殴られたくらい』と言っていただろう。渡会が刺したのは、自分自身だけだったんだよ」
 柚葉が目を見開く。その姿に胸が痛くなりながらも、佐々倉は言った。
「私と君のお父さんは上層部の方針に従って、隠蔽に協力した。お父さんが隠していた秘密は、これだったんだよ」
「でも、お父さんが銃を撃つはずが……相手が負傷しているかどうかに関係なく……」
 柚葉が後藤のことを「父」ではなく「お父さん」と呼ぶのを聞くのは、警察官になってから初めてだった。佐々倉は、意識して感情を押し殺す。
「どんなに普段優しくても、身の危険を感じたら発砲してしまうことはありうる。警察官が現場に出るとは、そういうことなんだ」
「だとしても、そのことを隠すなんて……不正じゃないですか」
「そうだね。だが、この不正によってQ県警の信頼は保たれ、治安は維持された。たくさんの人々が安心して暮らせたということだ。不正ではあるが、正しい。これが警察という組織の論理なんだ」
 ─自分が間違った判断をしたとは思ってません。
 そう、後藤は判断したのだ。過剰防衛を隠すという不正を行うことを。その覚悟を踏みにじる真似をしてしまったが、柚葉にならわかってもらえると信じた。
「ユズちゃんだから話したが、お父さんのために、このことは心にしまっておいてもらいたい。この通りだ」
 頭を下げようとする佐々倉を、柚葉は手で制した。眼鏡の向こうにある双眸が、別人のように鋭くなっている。わかってもらえないのかと肝を冷やしたが、柚葉は頷いた。
「これが警察なんですね」
 
   6
 
 佐々倉が定年退職して、そろそろ二年になる。この間、特筆すべきことはない─いや、傍目にはあるのかもしれないが、現役時代に較べれば、どれも些細なことだ。平均より平穏な警察人生だと思っていたが、市井の人々と較べれば波乱に満ちた毎日だったことを思い知る。
 今夜、冴子は友だちとの飲み会で留守にしていた。雪が降るという予報だから家にいればいいだろうとは思うが、飲みにいく相手がおらず、かつての同僚ともほとんど連絡を取っていない佐々倉からするとうらやましいかぎりだ。
「まあ、これはこれで悪くないが」
 佐々倉は独り言ごちつつ卓袱ちや ぶ台に着き、冴子がつくり置きしてくれたコロッケに箸をつけた。お伴は三百五十ミリリットルの缶ビールだ。警察官時代の癖が抜け切らず、いまもこれ以上は飲まないようにしている。
 ニュースを観ようとテレビをつけると、若い女の顔が映った。見覚えがある。誰だか考えるまでもなく、画面右上に表示されたテロップが目に飛び込んできた。
〈IT企業広報担当 後藤柚葉さん〉
「ユズちゃん?」
 声を上げ、画面を凝視してしまう。眼鏡をかけていないのですぐにはわからなかったが、同姓同名ではない。間違いなく、あの柚葉だった。しかし「IT企業広報担当」とは?
〈弊社では、SNSの投稿をAIで分析し、自殺のリスクがある人を発見してNPO法人につなげるための研究を─〉
 黒いスーツをきっちり着こなした柚葉は、交番にいたころとは別人のように落ち着いた口調で話していた。転職したのか。警察をやめること自体は珍しくないが、佐々倉になんの報告もないことが意外であり、さみしくもあった。後藤の件があるから話しづらかったのだろうか。こちらから連絡してみるかと思いながらスマホを手に取り、LINEを開く。
 柚葉のアカウントは、削除されていた。
「どういうことだ?」
 既にテレビは、次のニュースに移っている。訳がわからないまま柚葉の名前をスマホで検索すると、先ほどのIT企業のサイトがヒットした。自社の製品を紹介する動画に、柚葉が映っている。ここでもやはり、柚葉の口調は交番にいたときとは別人のようだった。警察学校時代の柚葉は「氷姫」「ザ・クール」などと呼ばれていたという。動画の柚葉は、そのあだ名にふさわしい空気を纏まとっている。
 ─交番で俺に見せていた姿は、芝居だったりしてな。
 冗談交じりに思った瞬間、気がついた。交番に配属された柚葉がドジを連発しながらも、失敗らしい失敗は犯さなかったことを。
 もしも柚葉が、佐々倉の前でドジなふりをしていたとして。
 そんな女が、後藤が描いたイラスト入りの便箋を使うなどというミスを犯すだろうか。手紙の送り主が自分であることを気づかせるため、わざと使ったと見る方が自然ではないだろうか。なぜ柚葉はそんなことを? そうすることで彼女はなにを得た? 答えは、すぐに出た。
 ─発砲事件の真相。
 佐々倉は、ドジな娘が父親のため必死にあがく姿を目の当たりにしていたたまれなくなり、真相を話した。これこそが、柚葉の狙い。発砲事件の真相を知るには佐々倉の同情を引くのが手っ取り早いと踏み、半年以上かけてそれを実践した─そういうことなのではないだろうか。
「目的を達成したから、もう警察に用はなくなったのか」
 スマホを卓袱台に置いた佐々倉は、まんまと一杯食わされたかと思いながらコップに注いだビールに口をつけた。たいした娘だという、驚きともあきれともつかない気持ちはある。
 一方で、警察をやめたことに釈然としない思いを抱いてもいた。
 後藤の覚悟を知った柚葉が、そう簡単に警察をやめるだろうか? 釈然としないまま、二年前、柚葉に発砲事件の真相を伝えたときのことを思い返す。
 違和感が芽生えた。
 あのときは気づかなかったが、柚葉の話には妙なところがあるような……。彼女の話と、後藤が発砲したときの状況。双方の記憶を突き合わせているうちに、違和感の正体が見えた。
 事件の直後、現場に行った柚葉は渡会が出てきたL字路の角にしばらく立ち、後ろから自転車が来る度にベルを鳴らされたという。だが、それはおかしい。角を曲がってすぐのところに立つ柚葉の姿は、近づいてくる自転車の側からは視認できない。ベルを鳴らす間もなく衝突するはずだ。柚葉は嘘をついたことに……いや、落ち着け。
 ─カーブミラーに映っていたんだろう。
 L字路にカーブミラーが設置されていることは珍しくない。自転車の側から、カーブミラーに映る柚葉の姿が見えた。柚葉は立ったまま動こうとしない。だからベルを鳴らした、それだけのことだ─と思ったところで、「あ」と声が漏れた。
 カーブミラーがあったなら、その気になれば柚葉の側からも近づいてくる自転車を見ることができた。それは、あの日、後藤には角を曲がる前から渡会の姿が見えていたことを意味する。防災行政無線が流れる中、自身の左大腿部を包丁で刺す渡会の姿が。
 渡会の負傷がわかっていたなら、制圧は難しくなかった。仮にカーブミラーに映る姿が小さくて自傷行為に及んでいることがわからなくても、「渡会があの角にいる。なにか妙なことをしている」と佐々倉に警告することはできた。
 しかし後藤は、そうしなかった。
 被害者から、激しく出血しているという通報があったからか? 平然としているように見えたが、あの三日前、ひきこもりに金属バットで殺されかけた恐怖が残っていたからか? 理由はわからない。とにかく後藤は、パニックに陥った。
 そして渡会がL字路から現れると、パニックのまま発砲した。そのことを佐々倉を始め、聴取した鏡にも、家族にも言わなかった。
 だとしたら、後藤が警察をやめた本当の理由は罪悪感のせい。やめた後も、その感情に苛まれていた。この考えが当たっているなら、後藤が死んだのは病気ではなく、最初に疑ったとおり─。
「自殺だったのか?」
 気がつけば佐々倉は立ち上がり、部屋の中を歩き回っていた。
 考えすぎだと思いたくて、否定の材料をさがす。しかし、後藤の死が突然だったこと。闘病について一切知らされなかったこと。葬儀を肉親だけで済ませたこと。見つかるのは、肯定の材料ばかりだった。
 後藤が死んだのはX県に転居した後だ。自殺だとしても、Q県警に情報は入ってこない。自殺したことを遺族が内密にしたいと希望すれば、部外者に知る術すべはない。
 柚葉が警察官になった真の目的は、後藤が自殺した理由をさぐることだったのか? 転職先にあのIT企業を選んだのは、自殺リスクのある人を発見するAIを研究しているからなのか?
 震える手でスマホを拾い上げる。直接の連絡先はわからないし、既に警察を退職した身なので、すぐにはつながるまい。それでもとにかく鏡に連絡して、この考えを伝えるべきだと思った。
 自分のように出世とは無縁の輩やからならともかく、〝Q県警の番人〟ともあろう者がカーブミラーを見落とすミスを犯すとは。さすがに動揺するに違いない。
 ─鏡監察官は、本当に見落としていたのか?
 不意に疑問が湧き上がった。
 聴取の場で、鏡は佐々倉にこう言った。
 ─あのL字路には速度制限の道路標識は立っていますが、車の通りはほとんどない。
 鏡は、道路標識の存在を認識していたということだ。なのに、カーブミラーは見落とした? そんなことはありえない。
 道路標識などなかったのではないか。
 鏡はカーブミラーの存在に気づいていながら、現場にあるのは道路標識だと佐々倉に思い込ませるため、あんなことを言ったのではないか? お世辞にも有能とは言えない佐々倉が、カーブミラーの存在を認識していないと見越した上で。そして佐々倉に当面は現場に近づかないよう命じ、カーブミラーを撤去させて証拠を隠滅した。佐々倉は、それに誘導された。二年前、現場に行ったときも、道路標識の代わりにカーブミラーを設置すればいいなどと思った。
 鏡は佐々倉から話を聞いた時点で見抜いていたのだ─後藤がカーブミラー越しに渡会を視認していながら、パニックに陥って発砲したことを。
 聴取を受けたとき、鏡は佐々倉を残して部屋から出ていき、一時間以上戻ってこなかった。あの間に、真相を黙っているよう後藤に強要したに違いない。後藤はそれを呑まされ、負傷を知っていたにもかかわらず渡会を射殺したことだけでなく、鏡に見抜かれていながら内密にするという二重の秘密を抱えることになった。
 退職後の後藤が、部下のミスに寛容だったことも頷ける。自分が苦しんでいるからこそ、部下にはミスを正直に話す機会を与えていたのだ。
「全部、俺の憶測だ。なんの証拠もない。どこかに穴があるはずだ」
 呟きながらメモ用紙を卓袱台に置いて自分の考えを列記し、何度も読み返す。その度に、血の気が引いていく。
 証拠はないが、矛盾もない─そう結論づけるしかなかった。
 もしも柚葉が、今日になって佐々倉がたどり着いた真相に、二年前たどり着いていて、それが原因で退職したのだとしたら。
 ─これが警察なんですね。
 あの一言は、まるで違う意味を孕はらんでいたことになる。
〈もしもし、鏡です〉
 気がつけば握りしめたスマホから、鏡の声が聞こえていた。どこにどう連絡したのか記憶は曖昧だが、思いのほかすんなり電話がつながった気がする。部屋の中を歩き回りながら、佐々倉は言った。
「Q県警を定年退職した佐々倉です。十二年前の後藤一輝の発砲事件についてお話があります」
〈ご無沙汰しております、佐々倉部長〉
 鏡は記憶にあるとおりの穏やかな声で、後藤同様、佐々倉のことも階級をつけて呼んだ。
〈そろそろ連絡が来るころだと思っていました〉
「なぜです?」
〈最近、後藤柚葉が広報としてマスコミに出てますからね。部長が彼女を見たら退職したことを知って不審に思い、カーブミラーの存在に気づくと考えました〉
 やはり鏡監察官は、最初から─スマホを握る手に力がこもる。
「二年前わざわざ署まで来て、私に彼女を導くように言いましたよね。なにが狙いだったんですか?」
〈後藤柚葉に、渡会が負傷していたことを教えてほしかったんですよ。心優しい佐々倉部長のことです、彼女にほだされて教えたのでしょう?〉
 沈黙が、鏡への答えになってしまった。
〈十二年前、カーブミラーを撤去するのに数日かかりました。その間、いつまでも現場を通行止めにしておくわけにはいかなかったのですが、佐々倉部長さえ近づかなければ問題ありませんでした。ただ、後藤柚葉は当時、現場に足を運んでいたようですね。賢い彼女なら、そのとき得た情報と佐々倉部長から聞いた話を組み合わせ、後藤部長が渡会の負傷を知りながら発砲したことにも、Q県警がそれを隠蔽したことにも気づいたはず。私としては、優秀な彼女に警察がそういう組織であることを理解し、受け入れてもらいたかったのですが、残念ながら退職してしまった。能力はあっても、警察向きの人材ではなかったということです〉
「鏡監察官は、人事権を握っているという噂を聞いたことがあります。彼女が私の部下になったのも、あなたの差し金なのですか」
〈はい。採用面接で彼女と話してなにを企んでいるかおおよそ察したので、佐々倉部長に接触させることが最善と判断しました。佐々倉部長がすべてを知らされていないことがわかれば、警察という組織への理解がより深まりますから〉
 鏡に悪びれる様子はなかった。
〈後藤柚葉なら父親の覚悟のほどを理解して、発砲事件の真相を語ることは決してない。警察向きではない人材を排除できたし、Q県警のためには最善の結果になりましたね〉
「罪悪感はないのか!」
 こらえ切れず叫んだ。
「本当のことを公表するべきだったのかどうか、俺にはわからん。だが後藤は、真実を黙っていたことが後ろめたくて自殺したのかもしれないんだぞ。家族は病死したと言っているから確認するわけにもいかないが─」
〈自殺ですよ〉
 佐々倉を遮り、鏡はあっさりと言った。
「は?」
 惚けた声を上げることしかできない佐々倉に、鏡は変わらぬ口調で説明する。
〈X県警には懇意にしている幹部が何人かいますから、特別に教えてもらいました。後藤部長は、薬物中毒者とはいえ危険性の低い犯罪者を射殺したのです。Q県警のため、ひいては治安のため隠蔽するのは、警察官として当然のこと。それに苛まれて死を選んだとしても、仕方のないことです。もちろん、天寿を全うしてほしいとは思っていましたが〉
 言葉の意味が染み込んでくるにつれて、佐々倉の頭に血がのぼっていく。
「よくも……よくもそんなことを……」
 まともにしゃべることができないでいるうちに、十二年前、鏡が口にした一言が蘇った。
 ─人間、いつどんな形で死ぬかわかりませんが、後藤部長は約束を守ってくれるでしょう。
 震える声で問う。
「まさか、あんたは……最初から、後藤が自殺するかもしれないと思っていたのか?」
〈佐々倉部長は、天寿を全うするまで黙っていてくれるでしょうね〉
 直接の答えになっていないが、充分だった。
 これが〝Q県警の番人〟─。
 
 始めたときと同じように、気がつけば鏡との電話は終わっていた。佐々倉は座布団の上に、力なく座り込む。
 偉そうに組織の論理を語っておきながら、自分は完全に蚊帳か やの外だった。鏡によって、肝心なことから目を逸らされていた。だから後藤が口にした「間違った判断をしたとは思ってません」という言葉の真意にも気づけなかった。
 柚葉はそれを見抜いたから、佐々倉になにも言わず警察を去ったに違いない。
「でも俺は住民に慕われていた。退職間際に立て続けにお礼を言われる警察官なんて、滅多にいない」
 自分に言い聞かせるように口にする。そうだ。
「俺の警察人生は、悪くなかったんだ」
 缶ビールをコップに傾けたが、既に空になっている。
 二本目を取りに行くため、佐々倉は立ち上がった。
 

==ぜひ『県警の番人』と読み比べてお楽しみください!==

県警の番人
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