単行本 - 外国文学

ノーベル賞作家の受賞後最新作!マフィアの脅しに屈しなかった実在の人物をモデルにしたサスペンス

『つつましい英雄』マリオ・バルガス=リョサ『つつましい英雄』マリオ・バルガス=リョサ

『つつましい英雄』

マリオ・バルガス=リョサ著

 

【訳者】田村さと子

 

本書は、マリオ・バルガス=リョサが2010年のノーベル文学賞受賞後に初めて書いた小説である。舞台はペルーのピウラとリマで、『チボの狂宴』(2000)や『ケルト人の夢』(2010)などしばらく海外を舞台に作品を書いてきたバルガス=リョサが故国に復帰し、ペルーのスペイン語を用いて、言葉によるカテドラルのような作品を作り上げたと、高い評価を受けている。
ピウラは作者が少年時代を過ごしたペルー北部の町で、『緑の家』(1966)の舞台の一つとなっている。一方、十歳のときから人生の大半を過ごし、多くの作品の舞台となっているリマは、スペイン国籍を得た今も年末から三月末の誕生日までを過ごす、作者が愛着をもつ都会である。ただし、この作品におけるピウラもリマも、作者が創り出した人物たちの住まう、想像上の世界だ。
これらの舞台同様、彼の読者には馴染み深い人物が再登場する。習作時代の短編を集めた『ボスたち』(1959)所収の「ある訪問者」以降、五作品に登場させ、この人物を通してペルーの一つの時代を描こうと試みているのではないかと思わせる警察署のリトゥーマ軍曹、エロティシズムに正面から取り組んだ『継母礼賛』(1988)の主人公ドン・リゴベルト、ドーニャ・ルクレシア夫妻など、バルガス=リョサの作品に親しんできた読者は久々に旧友と再会したように懐かしく思うとともに、その旧友の現在の生活ぶりを知ることになる。
もちろん、本書が初めて手にするバルガス=リョサの作品であっても、十分楽しめる。彼が「反抗と暴力とメロドラマとセックスが小説の重要な要素である」と述べているように、本書にはこれらの要素がぎっちり詰まっており、主人公を取り巻く慣習主義が支配する環境を、ピウラやリマのありふれた家庭を舞台としながら、おとぎ話や推理小説の手法を用いつつもミニマリズムのみごとな筆致で描いているからだ。

この作品も、バルガス=リョサの『楽園への道』(2003)などと同じように、二つの物語が、奇数章と偶数章で並行して展開していく。そして後半、別々の物語が交差し、重なり合うこととなる。
奇数章の主人公はフェリシト・ヤナケ。五十五歳の小柄な男。下層階級の出身で、生まれてすぐに母親が出奔してしまい、先住民の小作農で字の読み書きもできなかった父親に育てられた。謙虚で正直な働き者で、勤勉に働いた結果、現在はピウラ、砂漠の中にぽつんと立つ町から、加速度的に変貌を遂げて近代化した町で、運送会社を堅実に経営している。二人の息子がおり、夫婦仲は冷えているが、マベルという若くて美しい愛人がいて、老齢で得た幸せを味わっている。
ある朝フェリシトは、自宅の玄関扉に、蜘蛛のような絵が描かれた一通の手紙が貼りつけてあるのを見つける。それは、彼や家族、彼の事業を保護する代償として月々五百ドルを支払え、という脅迫状だった。彼はまず警察に行ってリトゥーマ軍曹に相談するが、まともに取り合ってもらえない。さらに、迷ったときにいつも相談に乗ってもらう占い師・聖像売りのアデライダにも相談する。彼女は払うように助言するが、それには従わずにフェリシトは、この恐喝には屈せず、堂々と立ち向かおうと決心する。彼は父親が死ぬ直前に言い残した「息子よ、けっして誰にも踏みつけにされてはならない」という言葉を常に心に留めて、これまでの人生を生きてきたのだ。そしてこのあと、想像を絶する困難が彼に降りかかることとなる──。
偶数章の主人公はイスマエル・カレーラ。リマで大きな保険会社を経営する八十代の企業家で、そろそろ引退したいと考えている。妻を亡くしており、双子の息子がいる。イスマエルの友人で信頼できる部下は、ドン・リゴベルトである。
イスマエルは心筋梗塞を起こして死の淵にいるときに、彼の遺産を得るために二人の息子たちが父親の死をひたすら望んでいることを知った。その利己的な息子たちに対してイスマエルは報復をもくろむ。妻の死後、愛情を持って忠実に仕えてくれたメイドのアルミダと結婚し、彼女を莫大な遺産の唯一の継承者と定めたのだ。これに対して息子たちは裁判を起こし、父親が老年性認知症で法的に無能力だとして結婚の無効を訴えることに──。

主人公の一人であるフェリシト・ヤナケは作品の中で生をうけた人物だが、モデルが実在する。バルガス=リョサは、恐喝を受けながらも、マフィアに屈することなく正面から立ち向かった人物の存在を新聞紙上で知った。
「時として社会や歴史上の一時期に不幸な状況に陥り、厭世的な考えを持たざるをえなくなることもあるが、この社会を構成するのは信念や道義をもつ善良な人々で、彼らは個々の信条と自らの振る舞いを合致させるべく努力して生きていることを私たちは往々にして忘れがちである。私利私欲に満ちたエゴイスティックなこの社会においても、善意を旗印に掲げる無名のつつしみ深い英雄たちが存在しているのだ。このような人々に対する評価こそ、この作品を手がけた動機である。彼らは日々のニュースに取り上げられることはないが、報われざる犠牲を払っており、社会を向上させているのは歴史で学ぶ英雄ではなくて、つつしみを知る英雄である彼らなのである。彼らこそが国の真の道徳を築き上げる隠れた力なのだ。その道義的な蓄積が失われたときは、たとえ数字の上では経済が発展してきているように見えても、国は衰退に向かっており、いずれ破綻をきたすであろう」
このバルガス=リョサの発言を知れば、本書のタイトルの意味が理解できよう。
巻頭にはホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩の一節「人間のすばらしき本分は、迷宮と一筋の糸があると想像することである」(「寓話の糸」)が掲げられている。これは、生きていく中で絶望的な出来事や人生の有為転変に遭遇し、迷宮の中を彷徨する事態に陥っても、人間には必ず解決に向かって辿るべき糸が結びつけられていることを示唆している。その糸とは、フェリシトを困難の中で導く信念の糸とも、苦境の中のアルミダが手繰った唯一の肉親と結びついている糸ともとれよう。
現在のペルーやラテンアメリカ全体で起こっているさまざまな事件、暴力行為、誘拐、脅迫などがこの作品でも取り上げられている。作品のメイン・テーマは、他人を踏みにじり容易に現金を手に入れようとする行為によって発生する事件が日常生活に多大な影響を与えるが、そのような不条理に対して敢然と立ち向かう勇気や思慮深さや誠実さ、すなわち常識という、現在の社会ではもはや忘れ去られている世界への賛美であろう。

この作品の最大の魅力は、登場人物の間で交わされる会話である。フェリシト、リゴベルト、イスマエル、リトゥーマ、アデライダなどはそれぞれ独自の声を持っている。彼らの言葉は、『楽園への道』や『ケルト人の夢』などの近作で用いられたスペイン本国のスペイン語ではなく、ペルーのスペイン語で、本書はリマに住む知識人、北部の地方都市の先住民文化を継承する階層の人々が用いる土着の言葉づかいなど、多文化社会特有の会話で構成されており、話す人物に合致した会話が展開するのも大きな魅力である。
また、『ラ・カテドラルでの対話』(1969)同様、散文の可能性を追求するために、複数の会話の同時進行や、一つの会話への他の会話の挿入、場面や登場人物の意識の流れの分断という技法が用いられている。小説が物語を語るだけのものではなくて、「いかに」語るものかを示した模範的な作品、との書評もある。

2013年、マドリードのバラハス空港の書店で出たばかりの本書を手にし、あまりに面白いので機中でむさぼり読んでしまった。帰国してすぐに河出書房新社の木村由美子さんに連絡を取り、出版していただくことになった。
わたしは舞台のピウラには行ったことがなく、地図を見ながらあれこれ想像していたが、ピウラに詳しい松本健二さんからの助言をいただき、大いに参考になった。彼とは昨年ペルーで開催された、国民詩人セサル・バジェホを巡る国際会議でご一緒した。詩人にゆかりのあるトゥルヒージョ大学での会議のあいまに、近郊の砂漠の中のモチェやチャンチャン遺跡などを見学しに行った。「ピウラはこのような場所にある町だと思えばよい」と言われて、なんとなく想像できるようになり、とても気分が楽になった。
またフェリシト・ヤナケの仕事が運送業者なので、乗り物について日本語ではどれが適切なのかについて悩んだ。作品中の、いわゆるスペイン語でコレクティーボといわれる乗り物については、リマではコンボと呼ばれるワゴン車タイプやそれより少し大きいマイクロバスを意味し、ピウラ市内では乗合タクシーを意味する。それぞれ状況に応じて、マイクロバス、乗合タクシー、ワゴン車などと訳し分けた。
翻訳に関しては、矢口啓子さん、伊元智恵子さん、イネス・ブラナスさんにお世話になった。とりわけペルーのスペイン語についてはブラナスさんの力添えが大きかった。また今回も編集では木村さんの細部にわたる目配りに助けていただいた。またここにお名前は挙げませんが、いろいろな方々のご厚意のおかげでなんとか翻訳を終えることができたことを心から感謝申し上げます。

2015年10月25日

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著者

マリオ・バルガス=リョサ

1936年ペルー生れ。ラテンアメリカ文学を代表する作家。著書『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』『パンタレオン大尉と女たち』『世界終末戦争』『チボの狂宴』他。2010年ノーベル文学賞。

【訳者】田村さと子

1947年和歌山県生まれ。帝京大学教授。著書に『深い地図』『イベリアの秋』『百年の孤独を歩く─ガルシア=マルケスとわたしの四半世紀』、訳書にフランコ『ロサリオの鋏』、バルガス=リョサ『楽園への道』他。

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