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読後に残るのはまごうことなき『義経記』なのである──町田康『ギケイキ② 奈落への飛翔』書評

 

 町田康『ギケイキ』は、『義経記』の現代語訳というわけではないのだが、だからといって翻案というほど原作から離れているわけでもなく、いうなれば、かなり“盛っている”『義経記』現代語版だ。なにしろ原作の三倍増しぐらいに長い。ところが、読み終わって思い出す『ギケイキ』は、不思議なことにまるっきり『義経記』そのままなのである。

 義経自身を語り手とするいわゆる饒舌体による私語りなのだが、ただしそれはかの時代を生きた義経ではなく、死後にこの世に残り、平成の世までをみつめつづけた霊魂らしきモノの語りなのである。だから義経はいま私たちの生きている社会の事情を知っている。就活のこともメールも知っている。それで現代の読者にはもはやわかりにくくなっていることがらを今にひきつけて「説明」してくれる存外親切な語り手なのである。

 たとえば、『義経記』には、どんな装束で事に臨んだかがいちいち事細かに書かれていたりする。義経が鞍馬を出たときの「出で立ちの衣裳」について「白き小袖一重に唐綾を引き重ね」云々と書きつらね、「薄化粧に眉細やかにつくりて、髪高やかに結ひあげ」ていたことまでを記す。軍記物語だというのに、まことに悠長なことである。読んでるこちらのほうが急いていて、ついつい読み飛ばす。ことによると不要な描写なのではないかとすら思っていさえする。こうした現代の蒙昧な読者に『ギケイキ』の義経は、なんでこんなことがいちいち書いてあるのかを教えてくれる。いわく「人間はなんといっても見た目に左右される。吉次が私に目をつけたのもきっかけはファッション。ということはやはりファッションというものが大事になってくる。だけど似合わなかったニュルルウ、では駄目なのだ。そこで私は以下のようなコーディネートにした。(中略)って、いまこんな恰好で歩いていたら、ロケですか? って聞かれるに違いないが、当時はこれがnew lookだった。このキャラに似合ったfashion、fashion、なのだった」(『ギケイキ①』)。

 実際、階級社会の表徴は外見に大きく依拠していた、だから『源氏物語』の光源氏などは身分を隠して行動するときには、グレード下めの牛車で出かけたりした。などと、私なんぞも授業でやっている。

 あるいは戦というのは主君への忠義で成り立っているという一般の誤解を解く。中世の戦争には、そんなものはまったくなかったから有利なほうへすぐさま鞍替えするのが当たり前。「というと今の人は、「え? マジですか。主君のために命を投げ出して戦うのが武士とちゃうんですか」と言うかも知れないが、当時、そうした武士道的な概念はなく、もちろん、戦うときは命を懸ける、だからこそみんながびびっていた訳だが、それはあくまでも自分と自分の一族・仲間、部下・使用人が生きていくためであって、それは忠誠心などというものではなかった。譬えて言うなら会社より家庭が大事、みたいな感じか」と添える。

 また、嵐の船上で、帆を下ろすために柱に登った片岡の、原文で「髻引つ崩して押し入れ、烏帽子に額結ひて」とあるところ。「というと、いまの人は、そんなんだったら最初から帽子、脱いじゃえばいいじゃないか。なんでわざわざそんな面倒くさいことをするのか、と疑問に思うだろう。けれどもあの頃はそうで、満足な大人の男は人前ではけっして頭を露出せず、もし露出したとしたらそれは死ぬほど格好悪い恥辱だった。どれくらい格好悪いかをいまの感じでいうと、そうさな、ブリーフ姿より、もっと格好悪い、陰茎丸出し、くらいな感じのかっこ悪さだった」と烏帽子をめぐる羞恥の感覚を説く。

 そんなこんなを「ああ、説明、疲れる」「説明しよう。また、説明か。また説明だ。ええっとですねぇ」などとぼやきながらきっちり伝授してくれるのである。

『義経記』が好んで芝居の題材になったのは、原文の義経の超人ぶりや弁慶の怪力ぶりがいかにも作り物めいているせいでもあるだろう。弁慶は大の大人をつかんで屋根の上に放り投げてみせるわ、義経は「九尺の築地より飛び下り給ひけるが、下に三尺ばかり落ちつかで取つて返し、また上にゆらりと飛び返り給ふ」などする、ワイヤーアクションばりの戦法をみせつけるわ、をする。それに読者は、「ンな、あほな」と冷めたつっこみを入れたりはしない。ヤツらならそんなことができるのかもしれないと思って読んでいる。

 よくよく冷静に考えると異様なのだが、そういうわたしたちの常識や倫理を脇に置いておいてはじめて愉しめる娯楽がある。古典物語というのはだいたいにおいてそんなものだが、とくに『義経記』などの軍記物語はまさにその筆頭だ。歌舞伎や文楽の観客は、非道の限りをつくす極悪人がザンッと人を斬ってみせると拍手喝采してしまうようでなければならない。そもそもの『義経記』が徹底してパンクなのである。であるから、このあたりの気味合いは町田康節でこそ是非にも味わいたいのである。

 

木村朗子

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