単行本 - 日本文学

「ラップと小説の語り」陣野俊史ーー『北野武第一短篇集 純、文学』書評

ラップと小説の語り

陣野俊史(小説家・文芸評論家・フランス文学者)

 

 北野武名義での、初の短篇集である。五つの作品が収録されている。「ホールド・ラップ」、「実録小説 ゴルフの悪魔」、「誘拐犯」、「粗忽飲み屋」、そして「居酒屋ツァラトゥストラ」。書き方もリズムもかなり異なる小説たちだ。その点だけとっても、著者が本気で小説を書いていることがわかる。北野の小説家としての美点は、「ホールド・ラップ」と「粗忽飲み屋」に顕著だと思うのだが、その前に「実録小説 ゴルフの悪魔」について少し触れておきたい。
 この小説は「O橋K泉」さんとの交友録がメインだ。K泉さんがとても姑息な手段でゴルフをやる、その可笑しさ、憎めなさについての文章なのだが、K泉さんをめぐる「事件」を書きながら、著者の筆はあらぬ方向に飛んでいく。ゴルフが呼び水となり、長嶋茂雄氏との逸話へどんどん流れていく。周知のように長嶋氏をめぐっては途轍もないエピソードが知られているだけに、小説はK泉さんから長嶋さんへと抗しがたい形で移っていくのだが、事件を事件として語る口調は、ビートたけしの口調に近い。つまり、語り口で勝負しているところは、小説家の語りではない(これは批判ではない)。だが、一箇所だけ、あっと驚くところがある。

 

 四人で1番ホールに行く前には、ミスターがトイレに行くと言い出したので、付いて行った。やっぱり長嶋さんの人気は凄く、隣に並ばれた男がチラッと長嶋さんの顔を見て、「あ! 長嶋さんだ」と小便をしたまんま長嶋さんの方を向いてしまい長嶋さんのズボンに掛けちゃった! 相手に文句も言わず、謝ってる男を置いて、手洗いの蛇口を開いて水出して、タオルを取りに行き、違う蛇口の水出して、手を拭いて前の蛇口の水止めて、タオル戻して、後の蛇口の栓を閉めた。これを流れるようにやったのを見て、やっぱり天才だと思った。

 

 長嶋さんの行動も謎めいているが、蛇口と水とタオルの、理解しづらい(理詰めの?)関係性をこれだけちゃんと掴んでいる文章は素晴らしい。描写として際立つ箇所だ。
 だが、北野武の小説においては、右のような描写は稀である。この著者の小説の特徴は、一言でいえば、リズムと実験性にある。
 漫才師という仕事柄、言葉をリズミックに用いることには長けていると考えられるが、それを小説に活かすにはどうすべきか、と著者は考え尽くしたはずだ。漫才のリズムとは別の形で言葉にリズムを与えること。これがひとまずの結論だったのではないか。それが「ホールド・ラップ」という短篇に結びついた。
 あてどなく歩き回る主人公は、たとえば浅草で「当たり屋」に出会う。ポンと肩が当たっただけなのに、金を要求される。三千円くれ、と言われた主人公は相手を「思い切り殴っ」た挙句、こんな心中をリズミックに吐露する。

 

肩が触れればネイマール
のたうち廻って三千円!
勝手に倒れて、奈良判定、
山根(やまね)のお陰で三千円!
止めた自転車自分の物、
返してもらうの三千円、
ひさご通りの元花魁(おいらん)、
一回触って三百円!
病気がうつって三万円!

 

 随所に挿入されるラップのリリックのような言葉は、律動的に小説を演出するにはどうすべきかの答え、と読んだ。成功しているかどうかは問題ではない。著者が日本語の小説を書くに際して、言葉を実験的に操ろうとしていることのほうが重要だと思うからだ。
 そう、実験性だ。
 五篇のなかでもっとも実験性の高い小説は「粗忽飲み屋」であり、感服しつつ読み終えた。主な登場人物は、藤川(語り手も兼ねる)、島田。この二人が旧知の仲。二人は、足立区にある居酒屋、焼き鳥「吉田」に月に数回、集まる。常連客ばかりの狭い店には、店主以外に、藤川の会社の同僚・元木らが加わって延々と会話が続く。ほぼ下ネタ。おおよそテレビでは発言できないたぐいの、ある意味でデンジャラスな話題が続く。

 

――コンピューターの仕事って、どんなことをやってんだ?
――あのな、よくわかんねえんだけど、ビデオの前で踊ったり、何か食ったりして金貰うんだって。
――そりゃ、ユーチューブって奴じゃねえか?
三人が呆れかえった。
――そりゃコンピューターの仕事じゃねえぞ、俺も会社で教えてもらいながらコンピューターいじるけど。
――チンポもいじる!
――ひまだ!
――島田!

 

「島田」を「ひまだ」と言い間違う(江戸の訛り)ことによって、会話は区切られる。それまでの、下ネタだらけの会話が一回、息をつく。そうしないことには、どの会話を誰が発しているか、わからなくなる。登場人物たちがどんどん会話を続けていく中で、発話主体は、加速度的にその意味を失っていく。「いいんだよ、スジもねえまま、焼き鳥屋で仲間が集まっておい吉田とか、島田、よせよ! とか言ってるだけなんだから」。北野はそう書いている。さりげなく。だが、ここで行われていることは、高度に文学的な営みだ。キャラクターも背景も異なる複数の人間が、徐々に人称による区別を失い、溶け合い、誰が発話しているか判然としないカオスに小説は突入していく。「ふと、思ったのだが、この文を書いているのは誰だ?」 著者のサービスは極まっている。語り手さえ判然としないアマルガムが小説の新しさなのだ、と著者は考えている。「いわばこの現象は、文章のトンネル効果」だと、丁寧な解説まで! この解説は著者の照れ 、、だろう。
 私たち読者は、著者による自註以前に、小説を堪能している。

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