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「怠惰や狂気や邪悪の中にも人間の魅力は潜んでいる」――芥川賞作家・小川洋子に聞く創作の秘密【第2回】

この11月に『約束された移動』を上梓した小川洋子さん。同書は2009年から2019年までに発表された“移動する”物語6篇を収録した傑作短篇集で、ハリウッド俳優Bと客室係、ダイアナ妃に魅せられたバーバラと孫娘など、ユニークで密やかな物語が収録されている。
同書に収録する各作品について、短篇を書くことなど、さまざまな観点から小川洋子さんに話をうかがった。<全2回>
(インタビュー 五所純子)

【第1回】はこちら

【第2回】
言葉を話さないものを描写していると、小説がどういうものなのかがよく見えてきます。

——『約束された移動』に収められた六篇に散りばめられている食べ物も魅力的でした。

小川 食べ物を書くのはあまり得意じゃないんですけど、これもチェスと同じでね。登場人物に言葉を交わさないで同じところにいてもらうにはどうするか。そう、食べてもらうんです。

——「約束された移動」の主任さんの部屋には手作りのフルーツポンチやサンドイッチがあって、想像の旅をする「私」が船を停泊させて休む場所のようでした。所帯じみてない料理が、旅をちょっといいものにしてくれて。

小川  ええ。登場人物たちは所帯じみた生活をしていますけどね。エレベーターもない団地に住んでいたり、デパートのフードコートでおやつを食べたり。庶民的で日常的なところで生きているんですが、それをどう描写するかによって、ふっと境界線を越えていけるんです。
あとをついていったら、知らない間に境界を踏み越えていた。もといたところに帰れるかなって、すこし心配になるくらいに絶妙な境界ですね。

——小川さんの小説では、人物と仕事の関係がとても慈しまれていると感じます。ホテルの客室係(「約束された移動」)、デパートの迷子係(「元迷子係の黒目」)、託児所の園長(「黒羊はどこへ」)など、みんな仕事のコツを述べますし、それが人物のありかたと重なっています。仕事といっても、jobやartというより、workという感じです。

小川  その人がどんな仕事をしているかが決まれば、おおかた書けたも同然という感じになります。客室係の場合は、舞台設定がホテルだったので書く前から決めていましたが、他の職業は書き始めてからだんだん気づいていきました。職業に限らず、だいたいそうなんです。ある人物が浮かんで、その人が動くのをじっと待ちます。逆に言うと、その人が動いてくれないと私はいつまでも書けません。私が動かさなければならない状況に陥ると書きづらいです。
働いている人を描写するときがいちばん、その人の本質がよくわかります。私は小説を書くことしかできないから、世の中で働いている人すべてに尊敬があります。働いている人を見るとじっと観察しちゃうんですよ。そこにはかならず美があります。形の美もあれば、心の美もあって、その人のもっとも善きものが仕事に表れ出てくるんですよね。
一心にその仕事に打込んでいる瞬間は、もう理屈がない状態なんです。お給料のためとか昇進のためとか家族のためとか、仕事をする理由はいろいろあるけれど、そういった目的を逸脱した境地に達しますよね。そこが人間の美徳かなと思います。

——人間の怠惰さはお嫌いですか。

小川  いいえ、決して否定はしません。怠惰や狂気や邪悪の中にも人間の魅力は潜んでいます。好きか嫌いか正しいか間違っているかをジャッジする立場に、作家はありません。作家はただ、人間の複雑さを描写するだけです。

——他に書いてみたい小説はどんなものですか。

小川  今は人形に興味があります。文楽から興味をもったんですけど、人間国宝の人形遣いである初代吉田玉男さんが亡くなられて、お別れ会の様子がニュース映像で流れていたんですね。そこにお人形がやってきて、お焼香をしました。それまで私は何度となくお焼香する人を見てきたけれど、これほど本当に心から“お焼香をする人”を初めて見たと思ったんです。この人はいま誰よりも悲しんでいるというのが見えました。感情のないもののほうが、より感情的なのかもしれません。犬だって、表情をほとんど変えませんけど、感情が伝わってきますよね。

——いま動物と暮らしていますか。

小川  ラブラドールを飼っていたんですけど、5年ほど前に見送りました。その犬にいろんなことを教えてもらいました。文鳥も亡くなってしまって、庭の片隅に犬と文鳥を埋めてオブジェを置いています。
先日、一歳になる孫が庭をひょこひょこ歩いていたら、その片隅にさしかかると急に立ち止まりました。ぱっと両手を広げて、片隅を見つめているんですよ。しばらくしたら方向転換して戻ってきました。結界を感じたんでしょうか。子どもはまだ言葉をもっていませんから、言葉で取り繕えないものをキャッチする力を持っていますね。

 

——子どもは小川さんの小説で大切なモチーフですね。「死産のしは、斜視のしとは意味が違って、あまり気安く口にすべきではないと、子どもの私にも分かっていたからだ」(「元迷子係の黒目」)、「子どもたちはたとえ自分がよく知っていることでさえ、それを言い表す術をもっていない。彼らが知っていることは、とても遠い場所に隠れている」(「黒子羊はどこへ」)、こういった文章が印象的です。

小川 子どもがなぜ迷子になるかというと、言葉が失われているからですよね。自分はどこに住んでいて、どういうふうにここまで来て、なぜひとりぼっちなのかという事情を説明できない。何も喋れない、ただ泣くしかない子どもが抱えている言葉にこそ、何か本質的な意味があるのではないか、と思うんです。

——剥き身で世界に向き合っているんですね。言葉をおぼえた大人も、その状態に返って世界を見てみたいのかもしれません。

小川  そうしたら、いい小説が書けるでしょうね。言葉を話さないものを描写していると、小説がどういうものなのかがよく見えてきます。だから、どこかで子どもが羨ましいんですよね。

——子どもが「合図」を発していて、その「合図」をつかまえる大人がいるのが小川さんの作品世界ですよね。それが職能のひとつとして活かされているのが面白くもあります。

小川 「合図」を受け取る人がいてほしいし、いるはずだという願いもこめられているかもしれませんね。痕跡、合図、目配せ、そういった言葉が私の小説によく出てくるのは、その願望のあらわれかもしれません。

* * * * * *

*『約束された移動』全作品解題 明日公開予定*

約束された移動』小川洋子

ハリウッド俳優Bの泊まった部屋からは決まって1冊本が抜き去られていた――。客室係の「私」だけが秘密を知る表題作など、著者ならではの静謐で豊かな物語世界が広がる、珠玉の短篇6本。小川文学の新境地。

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著者

小川洋子

1962年岡山県生まれ。早稲田大学卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞、「妊娠カレンダー」で芥川賞、『博士を愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞を受賞。

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