単行本 - 日本文学

ジェンダーをテーマにした小説に、ハロプロの名作詞家・児玉雨子が胸を痛めた理由

 帯やSNS等で「ジェンダー文学」と紹介された表題作をふくめ四編が収録された本書だが、その全体を鳥瞰すれば、境界、あるいはアイデンティティも主題のひとつだろう。ジェンダーは自己同一性に抱えられながら、同時にそれを深く穿つ要素でもあるのだが。

 ことばは、わたしとあなたを分かち、互いが別個体なのだと再認識させる装置である。なにかを発言すれば、わたしもあなたも何者かになってしまう。ジェンダー観もまた、他者との分化により形成されてゆく。さらにその間に権力がうまれてしまえば、差別や暴力になり、愛はたやすく呪いになる。たとえそこに悪意がなくても。

 さて本書では、ぬいぐるみ、水、既読のつかないトークルーム、空想上の友人などが、主人公達のコミュニケーション相手やトポスとして登場する。これらは未分化な、無邪気に放っておかれた綿のような、何者でもないだれか達。このだれか達は、名前を持った他者になったり、他者からだれかに遠ざかったりと、変幻自在であるゆえに登場人物達の首を絞める。

 たとえば表題作。大学を休みがちな麦戸ちゃんのぬいぐるみは、ぬいぐるみサークルの中で唯一名前を持たず、境界のうすぼんやりした存在であった。ついぞ彼女はぬいぐるみに固有名を持たせなかったが、物語が進むにつれ、ふたりの間に分化の兆しがみられた。

 関係の変容は、次ぐ「たのしいことに水と気づく」のばあい主人公・初岡自身に引き起こされる。姑がまだ「姑」になる前、恋人の母親であったとき、初岡は「ちょうどいい他人」とみなされていたが、結婚が決まれば、夫や姑はいきなり初岡の生活へ介入してくる。ちまたに転がっている結婚トラブル話、といえばそうなのだが、この変容は初岡の、行方不明の妹とも同時発生している。一方的に初岡が送り、ことばの積もり続ける妹とのトークルームに既読がつく瞬間、うすぼんやりとしていた妹の存在がはじめて輪郭を持って物語に立ち上る。

 人と人のつながりの位相は、物語の内部でも、物語の連なりである本書のなかでも、つぎつぎ反転・変形する。三編め「バスタオルの映像」では、主人公のラインにおびただしい数の通知が届くように。

 最後の「だいじょうぶのあいさつ」では、もう家族なのか他人なのか、わたしなのかだれかなのかも融け合っていてわからない。主人公・まるみの兄が壊れてしまいそうなみずからをテープで補強するのは印象的で胸を締めつける。兄、父母との関係、そしてまるみ自身の瓦解はつまり、アイデンティティの再構築であり、もっとも端的でダサい表現をすれば「自立」なのだろう。

 それにしても、人のかたちに補正され、せっかく自立しても満員電車で潰され、性規範に押し込まれ、そこから脱出したり、しなかったりして、ほわほわ寛ぎ、ちぎりちぎられ。わたしたちってほとんど綿の塊なのかもしれない。

 

だれか、あるいは綿の塊――大前粟生 著『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』書評
(初出 「文藝」2020年夏季号)

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著者

児玉 雨子

作家、作詞家。93年生。

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