単行本 - 日本文学

母親に「ヘンタイ」と言われたオカルト嗜好を持った少年の半生 身が凍るようなラストを突き付ける一冊――吉村萬壱 著『流卵』

突き付けられるラスト

 執拗な描写の連続に疲弊する。事情や心情をどうして作者はここまで深掘するだろう。それも独特の比喩を折り込みながら、登場人物の言葉を不気味に擬音化しながらの深掘だ。読む者を自己の深淵まで連れ込まないと気が済まないのか。しかもその深淵は作者の少年時代、読む者を赤面させるような深淵だ。誰にでも恥ずかしく思い出す年少期の想い出はあるに違いない。世界が自分を中心に動いていると勘違いしていた頃の想い出だ。もちろん筆者にもある。しかしこれほど自意識過剰ではなかったと思いたい。自意識過剰ではなかったと断言できないのは、作者や物語に対する共感などではない。知らぬ間に自分もそうだったかも知れないと思い込まされるのだ。予測できない方向に転がる主人公の心の動きや物の考え方、景色の見え方、行動に、囚われてしまう。これほど遊びのない、言葉を換えればスキのない、細部に至るまで作者の神経が張り巡らせている作品にそうそう出会えるものではない。『吉村萬壱版「金閣寺」、ここに誕生』という帯の惹句にも肯ける。

 物語は自瀆を覚えた少年の秘めたる妄想から動き出す。自慰ではない。少年は自らを慰めるのではなく、自らを汚す行為に溺れる。耽溺する。やがて自己を女性化し、深夜の森で悪魔との交合に酩酊して手淫する。偽悪趣味ではない。本気でそう考えていると感じさせる。少年の目に映る光景、馬鹿々々しい所業、深夜の森の匂いまで伝わる描写に、少年の本気を感じさせられる。果てた後に悔恨に苛まれるのは、男性なら、誰しもが経験したことだろう。我に返り、そそくさと森から帰宅した少年は、母親から「ヘンタイ」の一言を投げ掛けられる。その言葉で悪魔崇拝の思い込みが粉砕される。

 物語は進み、次に少年が溺れるのは薄め液だ。もしかして経験があるのではないかと思えるほど、幻覚状態時の描写はリアルに迫る。乱れた文章に幻覚状態を追体験させられる。もちろん筆者は、作者のシンナー吸引を疑う者ではない。これは技巧だ。萬壱節だ。その妙技によって読者は混迷の世界へと誘われる。しかし悪癖はまたしても母親に発覚してしまう。発覚した場面では母の様子と少年の心情が、これまた細密に描写される。薄々明かされていたのだが、読者は少年が抱く母親への屈折を知ることになる。

 これまでの吉村作品であれば、母親の圧力で内向した少年が破滅的な過程を辿るはずだ。ところが予想、あるいは期待に反して、少年はそれまでの呪縛の汚泥から不器用に足を抜き出す。意外な展開に読者は放置される。愛読者であれば拍子抜けするだろう。

 突然の大団円、五十七歳になった少年は、八十六歳の父親の最期を八十七歳の母親と看取る。メモリアルホールで父親を納棺し、仮眠室で葛藤をぶつけ合う老いた母親と少年。そして物語の最終ページで読者は知らされる。少年は汚泥から抜け出てはいなかった。身が凍るようなラストを読者は突き付けられる。

初出「文藝」2020年夏季号

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著者

赤松 利市

作家。56年生。著書『アウターライズ』

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