単行本 - 日本文学

作家の中村文則さん、女優の秋元才加さんも注目の一作! 異性装者のアイデンティティと愛を巡る物語『クロス』(山下紘加)、冒頭20ページ公開

2015年、少年の人形への愛と衝動を描いた『ドール』で第52回文藝賞を受賞し、鮮烈なデビューを果たした小説家の山下紘加さん。今年4月17日、単行本二冊目となる中編小説『クロス』を刊行しました。刊行を記念し、『クロス』の冒頭20ページ分を公開いたします。
本作の主人公は、ふとしたきっかけで女性の格好をすることにのめりこんだ28歳の「私」。ストッキングを履いたり、自らの手でメイクを施したりと女性性に寄り添うような生活をして、「私」は新鮮な喜びと自由を感じます。あるとき女の姿で訪れたバーで、タケオと名乗る男に出会い、強烈に惹かれ――。異性装者(クロスドレッサー)の、揺らぐ心身の性を大胆かつ繊細に映し出した会心作です。
刊行を前に、作家の中村文則さんと、女優の秋元才加さんに本作をお読みいただき、素敵な推薦のお言葉をいただきました。

解放と迷宮。
性の揺らぎだけではない、
これは「存在」の物語。
――中村文則

あなたといる私も、他の人といる私も私。
どの私も、私の真実。
マナは不自由でとっても自由だ。
――秋元才加

◆文芸時評:4月 私のおすすめ 小川公代(英文学者) – 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20200422/dde/014/070/011000c

◆女装パフォーマー・ブルボンヌが、異性装者のアイデンティティと愛を巡る物語『クロス』を読む
https://www.bookbang.jp/review/article/620259

◆【第89回】間室道子の本棚 『クロス』 山下紘加/河出書房新社 | 代官山 T-SITE
https://store.tsite.jp/daikanyama/blog/humanities/13958-1520030427.html

◆男性と女性、善人と悪人……差異の境界は曖昧なもの 山下紘加『クロス』、滝田愛美『ただしくないひと、桜井さん』評
https://realsound.jp/book/2020/05/post-551223.html

**以下本編**

クロス

 タケオの「気持ちいい」という言葉を、私はいつも彼の「愛してる」という言葉より疑ってかかった。彼が本当に満足できているのか、ということが、自分に対する愛情を言葉にされるよりもはるかに重要だったから。
「マナは何もしなくていいから。もっとリラックスして。俺に身体を委ねて」
 最初の頃は常に手探りで、どこをどうすれば彼が気持ちいいのか、必死になって窺いながら行為に及んでいた。それほどに、臆病だった。間接照明のみ灯された部屋の中で、私は少し躍起になって彼の表情の変化を追う。声を拾い、心の中で問いかける。
 ──ねえ、タケオ。どうなの? 私はこれで合ってる?
 不安げな視線に気づき、見つめ返してくるタケオと視線を合わせることへの身体中が火照るような恥ずかしさ──。
「そんなに見ないで。鼻毛が出てたらどうするんだよ」
 タケオは下から彼の顔をじっと見つめる私に冗談混じりにそう諭す。私は、そんなタケオをかわいいと思う。
「私はいつだってタケオの下にいるね。幸せなのに、ときどきすごく変な気持ちに……なる。女性とのセックスのとき、大抵の場合私はタケオの位置にいて相手を見下ろしていたはずなのに──。たとえ行為の最中に私が下になることがあっても、最後にはいつも上に戻るのよ」
「どっちがいいの?」
「……いまは、もうわからない。でも、少なくともこの瞬間はタケオの下にいたいと思う」
 タケオは満足げに微笑んで首筋に軽くキスをした。
 私はもう、セックスの最中にタケオの目を見つめること、それ自体が意味のないものだと気づき始めている。タケオに言われたからではない。快楽というのは、表情に滲むものではなく、身体に映るものだとタケオに出会って実感したからだ。私の身体の上でタケオの毛が微かに逆立つ瞬間や、伏せた瞼の先で揺れる睫、唾液が流れ落ちてゆく喉、シャワーを浴びたように濡れた背中に触れたとき、初めてタケオが「気持ちいい」と感じてくれているとわかる。
「かわいい、すごくかわいい」
 出会ってからしばらく友人関係を続けていたタケオに誘われてバーに行った日、薄暗いカウンター席に腰掛けて、私の茶髪のウィッグを撫でつけながら彼は言った。
 ──かわいい?
 聞き返したつもりが声にはならない。私は目を見開き、少し呆然としてタケオを見つめていた。
「こんなにかわいい子を、僕は見たことがない」
 たたみ掛けるように、タケオはなおも続ける。
「本当だよ。僕はこう見えて誠実なんだ」
 言葉とは裏腹に、彼は一瞬の内に私の唇に自分のそれを重ね、誠実さの欠片もないような乱暴で強引で卑猥で豪快なキスをした。

 近頃、私は自分がなぜタケオを好きになったのかを考えようとする。それは自分の中で明白にしたいというよりも、もしもいずれ妻や親や周囲の人間に説明するかもしれない場面が訪れたときに、すぐに言葉として伝えられるようにするためだった。自分が同性を愛しているという事実に、少なからず後ろめたさもある。正当な理由付けをして安心を得たかった。
 最初、私は女装趣味の延長線上に、タケオへの好意があると思い込んでいた。女装をし、女性のような外見になったために、心まで男性を求めるようになったのではないかと。けれど、そうは言っても、これまでタケオ以外の男性に、抱かれたいと思うほど強く惹かれたことは一度もない。女装をした私に男性が寄ってこないわけではなかった。かわいいと声をかけられたのも、一度や二度ではない。しかし、冗談か本気か、これまで私に言い寄ってきた男性は、その多くが、女装した私をひとつのキャラクターのように見立てて面白がり、からかいの軽口を叩いてくるか、耳に息を吹きかけるフリをして舌を差し入れてくるようなチープなセクハラに興じる輩ばかりだった。女装界隈でいうところの「純女」と勘違いして「めちゃくちゃタイプなんだ、付き合ってくれよ」と酔った勢いで声をかけてくる男性たちはどんなに甘い言葉を吐いてきたとしても、視線はいつもおぼつかず、私の作り物の胸や、黒いストッキングに包まれた脚にばかり忙しなく注がれる。好奇心から男性とセックスした女装仲間もいたが、タケオに出会うまでの私には、男である自分が同じ男を好きになることは想像できても、実際に関係を持つことなど、どんなに外見の女性化が進んだところで考えがたかった。
 私はタケオの小ぶりな耳たぶをくわえ、いたずらに甘噛みしながら、幸福に包まれる。タケオを好きになったのは、私が女装をしているからでも、女装をした私にタケオが好意を持ったからでもない。ただ、あの日、あの瞬間にタケオに見つめられ、「かわいい」と言われたとき、私は嬉しかった。男としてでも女としてでもなく、その言葉が無条件に自分を肯定してくれたみたいで。おそらく、私にとってタケオが特別なのではない。タケオは私に自分自身が特別な存在だと思わせてくれた最初の男だった。

 バーでキスをした夜、私たちはそのままタクシーでタケオの家に向かい、キスの続きを再開した。緊張からか、私の身体はひどく強張っていた。
「俺としたかった?」
 彼は私のウィッグの毛に触れながら、唇を離し、試すように尋ねる。返答に迷い、思わず視線を彷徨わせる。自分の心を見透かされているみたいで、恥ずかしかった。
 タケオと出会ってからその日まで、私は彼と身体を交わす場面を幾度となく想像しては身を焦がした。彼の纏う香水の香りが肌の上で汗と溶け合い、生まれ持った体臭が扇情的に鼻腔をつくたび、自分だけに向ける特別な優しさと、その他万人に向ける優しさとの区別がつかずに自信を喪失するたび、タケオに触れて真実を確かめたいと気を揉んだ。
 残念ながら、私の乏しい想像力では、タケオと肌が重なるまでは想像できても、ことが最後まで及ぶには届かなかった。あるいは、自分の欲求に忠実になることがタケオを傷つけてしまうような気がして、想像力に歯止めをかけていたのかもしれない。実際、わからなかった。いざ肉体を交わしたとき、自分がどちらの性で、どのような立ち位置で彼を愛すればいいのか──。
 私はタケオの目を見て、自分の想像力の限界を説明する。
「その先を知りたいとは思わなかったの?」
 タケオが私のウィッグの髪に指を差し入れて梳く。それは作り物なの、人工毛なのよ、と私はタケオに教えてやりたかった。あるいは、そんなことタケオは既にわかっていて、それでもこうして触れてくれているのだろうか。悶々と考えているうちに、タケオの指がウィッグを離れ、私の骨ばった耳下の輪郭に沈む。間違いなく、私の肌だった。男であるときも、女へのチェンジを遂げた後でも、変わらず私の皮膚で、私の一部だった。もっとタケオに触れてほしい──。私は瞼を閉じ、タケオが次にとる行動を期待し、言葉を続ける。
「知りたくてもわからなかった。想像できなかった。……想像では補えないこともあるの」
 タケオの親指だけがすばやく移動し、グロスで光る唇の際に添えられたとき、私は自分でも驚くほど従順に、彼の大きな手のひらに自分の顔を預けていた。彼が、想像の続きを見せてくれると確信したのだ。
 しかし、実際にそのときがきてみると、私の想像は現実の行動への足枷にしかならない。私は自分がどうやってタケオを愛するか、そのことばかりに思考が及び、どのように愛されるのか考えてもみなかった。私はタケオを求めているのに、どうしたらいいのかわからない。求めるのと自ら動くのは常にイコールだという考えが染みついた頭とそれと連動している身体は、勢いよくなだれ込んでくるタケオの舌に、どのように向かい合えばよいのかわからない。何が正しいのかわからない。
 身体は強張ったままだった。タケオに抱きすくめられ、彼の唇が耳たぶや首筋に吸いつき、指先が肌をなぞり、これまで感じたことのない快楽に触れ、何かしなくては、と焦りだけが募っていく。不安が生まれる。違う。こんなのはだめだ。私も何かしなくては。タケオに何かしてあげなくては──。
 タケオは無暗に動き続ける私の両腕を自分の肘で固定し、行為の妨げとなる煩わしい二本の脚を自分の両脚で挟み込み、彼への愛情を囁き続ける冗舌な口を一瞬にして塞いでしまう。行為の後、汗で濡れた顔に恍惚とした表情をはりつけたタケオの隣で、ほとんど汗をかいていない私は、想像通りにいかなかった、果たせなかった、尽くせなかった、漠然とした不全感と無能感を抱きながら眠りにつく。
「ふがいない」
 翌朝目が覚めて想像の続きはどうだったかと聞かれた私はそう答えた。タケオはなぜだか腹を抱えて笑う。
「なぜ? なんでそう思う?」
「何もできなかった。私はタケオに何もしてあげられなかった」
「どうして何かをしようと思うの?」
「愛してるから。愛してるから、何かをしてあげたいと思う。満足させてあげたいと思う。それが普通でしょう? 私は昨日、頑張れなかった。タケオに身を任せるばかりで、自分は全然動けなかった。つまり楽だったのよ。そして楽でいることに不安を感じた」
「そう感じるのは、マナが女になりきれていない証拠だよ」
「つまり、男を捨てきれていないっていうこと?」
「そういうことを言ってるんじゃないよ。きみはもともと男だろ。でも女装して僕の前に立ったときは女だ。だったらその瞬間は女を演じればいい。女になりきればいい。僕の下で僕のなすがままになればいいんだ、身を任せるんだよ。簡単なことだろ? 男を捨てなくても、それはできるはずだよ」
 少し苛立ちを交えながらも、ゆっくりと、幼い子供に諭すように、タケオは告げた。
 女はみんながみんな受身で、そして受身であることを当然のように受けいれている──。それは女性を軽視しすぎではないだろうか。
 私はこのとき初めてタケオに対して心の内だけで反発した。セックスに対するタケオの主観が、そのまま彼の女性に対する偏見のようにみてとれたからだ。もっとも、その反発も一時のもので、タケオと身体を重ねるごとに、私は深く考えないようになっていった。つまり私の思考や自発性や想像は、タケオとのロマンチックな性行為に、水を差すだけでしかないと気づいたのだ。

「女装している、きみが好きなんだ」
 タケオと関係を持った後で、彼の性対象が男なのか女なのか、あるいはそのどちらもなのか、そんな当たり前の疑問が頭をもたげて、彼に質問したときのことだった。
 すとんと腑に落ちる感覚と、納得がいかない気持ちが交錯し、質問したことを、私はすぐに後悔した。
 女装している、男の私が好き──。タケオの言葉は、とてもしっくりくると同時に、自分の性対象までも曖昧にさせる。質問そのものが愚問だった。自分自身、投げかけられたら答えに詰まる質問を、自分がタケオに投げかけたのだから。私はタケオと出会うまでは女性としか付き合ってはこなかったし、男性を性的な目で見たこともなく、女装を始めてからも、タケオ以外の男性とは寝ていない。しかし女装によって、男性とのセックスへのハードルが低くなったのは確かだった。私の心も、やや女性性に傾いたからだ。性は固定されたものではなく、はっきりと反転するものでもなく、常に揺らぎ続けるものだった。私は自分の心が女性性に傾き始めている状態を、タケオと愛し合うようになってからようやく受けいれた。自分のこととはいえ受けいれがたい事実を、その緩やかな傾斜を、大切にしたいと思えるようになったのだ。

 ウィッグが外れているのに気づいたタケオが、私に被るように言った。それから下着もつけて、服も着て──。
 タケオに言われるがまま、昨夜彼の手で剝がされたものをひとつずつ身につけていく。どうせ脱がされるのに、と思う一方で、脱がすという工程も含めてタケオが自分とセックスをする醍醐味を感じているような気がして省けない。
 タケオとのセックスで、私は長い時間をかけてコーティングした女の部分をほとんど一瞬で脱がされる。男らしい無骨な輪郭をカモフラージュしているウィッグは仰向けになれば乱れるし、いくらムダ毛処理をするようになったからといって、タケオの身体に生足を擦りつけるのにはまだ抵抗を感じる。腕で必死になって隠そうとする胸は、シリコンなどで作られた本物さながらの人工乳房と少しでも大きく見せたいという気持ちからブラジャーと人工乳房の間に詰め込んだパッドの積み重ねによってできている。タケオは少し強引に私の両腕をどけて、パッドをブラジャーごとぼとぼとと床に振り落とし、胸にぴたりと密着した人工乳房を荒々しく揉む。いかにも作り物めいたピンクと肌色の中間色の乳首をしゃぶり、舌で転がしたり、時折嬲るように歯先で噛んだりしながら、途中で顎を少し持ち上げ、上目遣いに私の表情を確認する。タケオがどんなに乳房を揉もうと乳首を弄ぼうと、私は直接その快楽を享受することはできない。多少の衝撃は受けても、たいした刺激にはつながらない。自分の身体の上で行われていながらどこか他人事のようでもある。しかし私は女として女のような声をあげる。それは演技であって演技ではない。なぜなら声をあげているうちに実際に気持ちが良くなり、エクスタシーにのまれるからだ。
「女装の自分とセックスしてみたいと思ったことはある?」
 まだタケオと出会ったばかりの頃、ベッドの中で彼は私にそんな質問を投げかけてきた。タケオの質問は、ときに核心をついてくる。
「あるよ」
 正直に、私は答えた。事実、これまでにあったのだ。決して誰にも言わなかったけれど。
「でも自分とはできないから、俺とセックスするの?」
「……それは、違うな。女の自分は、自分の一部であって自分ではないから。分身とも違う。別物なんだけど、それでいて圧倒的に自分なんだ。だからなんていうか、変な話だけどとても気を遣うし、どう愛したらいいのかわからない。傷つけたくないの。私は私の中にいるかわいい女性を、傷つけたくない。……タケオはいつも私に優しい。私は嬉しい。きみは愛されてる、幸せものなんだって、私は私の中の女性に話しかけてるよ。……これを聞いてタケオはどう思う?」
 タケオは何も言わずに私の頭をウィッグの上から優しく撫でた。心地良い指の感触に酔いしれていると、不意に強くウィッグを引っ張ってくる。
「何するの!」
 私は思わず大きな声をあげ、ウィッグを外されないよう必死に両手で固定する。タケオは可笑しそうに「きみの恥ずかしがっている姿が、僕をたまらなく興奮させるんだ」と白い歯を見せる。
「生まれ持ったものにあぐらをかいて驕った生まれつきの女より、自分には無いものを後からつけ加えて努力している人間の方が、僕にはよっぽど魅力的に見えるんだ」
 タケオはただ女の恰好をしているだけの女装者には惹かれないのだろうと悟る。女として抱かれたいと思っている男の自分から、「女らしさ」を剥ぎ取ることに、常に快感を覚えているのだと。剥ぎ取られた末に残る自分という人間を、果たしてタケオが愛しているのかは疑問だった。

 射精をし、尽き果てたタケオが、私の身体から抜けた。目の前から彼が消えた途端、徐々に広がってゆく視野の中で、冷静に周囲の光景をとらえる。
 派手な色の下着や洋服とおぼしきものが白いソファの上に乱雑に積み重なっている。レースが施された鮮やかな赤やピンクが、ぼんやりとした寝起きの瞳に沁みる。閉ざしたままのカーテンの隙間から漏れる日の光が反射して、下着そのものが眩しく見えた。布団が敷いてある床にも、スマホに腕時計、茶髪のウィッグに女物のネックレスとイヤリングが片方、靴下やトランクス、使用済みのティッシュやコンドームなどが点在しており、私はそれらにぼんやりと目を凝らす。布団の中で身体を動かして体勢を変えると、右手に、柔らかく弾力のあるものが触れた。掴んで自分の方に引き寄せ、顔を近づけてよく眺める。それはシリコンパッドだった。昨夜の記憶が、一瞬にして蘇る。久しぶりにタケオに会える喜びで調子に乗っていつも以上に盛りすぎた胸、新調した派手なランジェリーにガーターベルト──。セックスの際は決して外さないウィッグは寝ている間にとれてしまい、朝起きた際、寝ぼけた顔で急にスイッチの入ったタケオが私の上に覆いかぶさってきたときには、装着する余裕がなかった。化粧こそしていたが夜の間にほとんど落ちてしまい、口周りのいつもコンシーラーで隠している髭の剃り跡が目立つはずだ。不思議なことに、女装を始めてしばらくは、服を脱いで裸になり、女性らしいアイテムをすべて取り去った後は、急速に「男」の感覚へと戻っていったのに、タケオとの関係が深くなればなるほど、心まで「女」でいる時間が長くなった。
 急に我に返ったように身体を起こし、時計を見る。吞み歩いて早朝に帰宅したことはこれまでに何度かあるが、昼近くになるまで帰らなかったときは一度もない。典子には一応昨日の段階で遅くなると伝えてあったが、彼女が私の話をどこまで信用しているかわからない。嘘をついている手前、些細なことにでも臆病になっているというのに、この時間帯までタケオと過ごしてしまった大胆さには自分でもあきれるものがあった。
 タケオには家庭がない。だからふたりで会うときは、家庭があって会える時間の限られている私にタケオが合わせてくれているのだ。タケオは三五歳で、私より七つ年上だった。
「俺のことをさみしい奴だと思ってる? でもほんとにさみしいのはマナの方だよ」
 セックスを終えた私がそそくさと自宅に帰ろうとするとき、タケオはそんな風に訳のわからない挑発をして、私を引き留めようとする。
「ごめんね。ひとりになるのが嫌なだけなんだ」
 そうかと思えば、急にしおらしく弱さを見せる。
「帰らないと」
 それでも私は帰らなければいけなかった。別れはいつもさみしい。それはわかりきったことでどうしようもないのに、どんなに回を重ねても、別れはいつもさみしく、慣れることがない。一時の別れが永遠の別れへとつながっているような脆さが、私たちの間には常に漂っているせいかもしれない。
「ああ……」
 タケオは私の頬に触れ、親指の腹で愛おしそうに右頬にあるホクロを撫でた後、「またね」と微笑んだ。
「うん、また」
 別れが惜しくて、私はタケオの手のひらに頬を何度も擦りつける。
 男の状態で自分が女へチェンジを遂げるためのアイテムをひとつひとつ回収していく作業ほど、私を虚しくさせるものはない。家に着く頃には見た目も完全な男になっていなければならないので、いつも女装用の服やメイク用品を入れて持ち歩いているボストンバッグから、着替えを取り出す。トランクスに、シャツにデニム。そしてキャップ。キャップはウィッグで押し潰された地毛を隠すために常に鞄の中にあった。タケオがジッと私を見ている。彼の見ている前で着替えをするのが嫌で、浴室に行って着替えを済ませた。洗面所で位置のズレたつけ睫を乱暴に引っ張って外し、持ってきたクレンジングシートでゴシゴシと顔を擦る。分厚いファンデーションで埋められていた毛穴が乳白色のクレンジング剤によって露になり、マスカラやアイライナーが黒く滲む。顔の向きを変える度、瞬きのように明滅するアイシャドウに含まれる細かなラメの光沢だけが、私を女装の余韻に浸らせ、なおかつ誘引しようと輝きを絶やさない。
 部屋の奥から、タケオの話し声が聞こえてくる。きっと友人と電話で話をしているのだろう。彼は交友関係が広く、寂しいときや少しでも時間が空いたとき、友人に片っ端から電話をかける。それは決まって私の帰り際が多く、私に聞こえるよう、当てつけのようにひときわ大きな声で楽しげに話す。
「ひとりになることが怖い」と口癖のように言うタケオに、私はどれほど寂しい思いをさせているのだろう。使い終えたクレンジングシートを洗面台のダストボックスに放り込む。肌はすっきりとしたが、心の憂さは晴れなかった。
 部屋を出る前に、タケオと唇を重ねたかったが、男の恰好で彼の前に立つ羞恥の方が勝ってしまい、そのまま部屋を後にする。よく晴れた朝だった。タケオは朝になってもカーテンを開けなかったので、こんなにも雲ひとつない晴天だとはわからなかった。
 SNSで出会った女装仲間が集うオフ会に顔を出すのも、二丁目の店に行くのも大抵夜だったし、男性とデートをするのもほとんどの場合夜だったが、一度だけ、女装姿で日中に外に出て歩いたことがある。暑い日で、せっかく丁寧に顔に施したメイクが、額からあふれ出る汗であっという間に崩れていくのに苛立ちを覚えながら、いま、この状況を、どこかで死んだ祖父に見られているような気がした。なぜかはわからない。祖父は私がまだ幼い頃に病死しており、会ったのは数回程度だったが、寡黙で、子供相手に愛想を振りまくこともできない、不器用な人だった記憶がある。ほとんど接した思い出もないのに、人に厳しく、模範的で道徳を重んじる祖父の、昔気質の堅苦しさのようなものが、子供ながらに苦手だった。祖父の表情や背恰好などが頭の内で像を結ぶと、自然、肩が内に内にと入り、冷や汗が垂れ、ウィッグで顔を隠すようにして、道の端に寄って身を縮めて前に進んだ。
 それからは、意識的に女装姿での日中の外出を避けるようになった。
 日中でも女装姿で街へ出るのに抵抗を感じなくなったのは、おそらくタケオに出会ってからだ。タケオが私を愛してくれている、女装をした私を、心から愛してくれている──。愛されているという実感は、私に自信を与える。私は必要以上に堂々とし、良い意味で図太くなった。しかしそれ以後も、私は極力女装姿での日中の外出を避けた。俯瞰してみたとき、女装をして堂々と街を歩ける自分に、今度は抵抗を感じるようになったのだ。女装姿が常態化し、男でいる時間が短くなり、この先、自分はどこに向かっていくのだろう。着地点など最初から決めていたはずもないのに、目指すものがないと、些少なことで感情が揺れた。
 ジーンズのポケットに突っ込んでいたスマホが震える。取り出して、画面を見るとタケオからだった。
「……もしもし」
「もしもし」
「どうしたの?」
「ん……? 元気かなあと思って」
「元気って──。ついさっき、数分前まで一緒にいたじゃない」
 私は笑って返す。タケオも電話の向こうでつられて可笑しそうに笑う。かわいいひとだと思った。元気?という挨拶は、しばらく会っていない相手に対する労わりのような言葉だと思っていたから。
「じゃあ、また……ね」
 さんざん笑った後で、私の方から電話を切ろうとする。タケオが沈黙する。
「タケオ?」
「愛してるよ。愛してるよ、マナ」
 タケオの気持ちが嬉しいのに、すぐに反応できず、返す言葉を探している間に電話は切れた。

 自宅の玄関前でバッグの中の鍵を探していると、音がして、ドアが開く。典子だった。帰宅したときは自分で鍵を開けて中に入るのが普通で、妻が自ら私を出迎えることなど、まずない。
 典子に隠れてタケオと会い、朝帰りした罪悪感からか、顔が強張る。しばらく無言で見つめ合った。典子は何も聞いていないのに私の気持ちを見透かすように少し微笑んで、出迎えた理由を話し始める。
「ベランダで洗濯物を干してたの。そしたらあなたが帰ってくるのが見えたから──。おかえりなさい」
 私は「ただいま」と返しながら、家の中に入ろうとする。しかし、典子は私の顔をジッと見つめたままその場から動こうとしない。何か言いたいことがあるのだろうかと彼女の顔を見つめ返してもよくわからない。典子は無口ではないがあまり感情を表に出さないので、ときどき何を考えているのかよくわからないことがある。それがわかるようになるんじゃないかと思って結婚したが、結婚してもわからないままだった。
「昨日の夜、夢でね、玄関の方で物音がした気がして、てっきりあなたが終電を逃してタクシーで帰ってきたんだと思ったの。でも実際には朝起きたらあなたはいないし、昨日もらったLINEを見たら帰りは朝になるって──。なんか、現実みたいな、変な夢でしょ? 澤野さんの家に泊まったんだよね? また朝まで吞んでたの?」
 屈んで玄関のスニーカーや革靴を意味もなく並べ直しながら典子が尋ねる。
「うん、まあね。でもそんなに吞んでないよ。珍しく澤野さんの方が先に潰れちゃって。終電間に合いそうにないし、シャワー浴びてそのまま泊まらせてもらっただけ」
 外泊をするときは、決まって職場の仲の良い先輩である澤野さんの名前をあげる。典子は澤野さんの連絡先を知らないし、たとえバレても澤野さんならうまく誤魔化してくれそうな気がするからだ。
「まあでも、身近に独身の友達がいて良かったね。結婚してたらなかなかそうはいかないでしょ」
「友達じゃなくて先輩だよ」
「どっちも同じようなものじゃない」
 典子が顔を上げて私を見る。私の視線は典子の顔ではなく、痩せた首元へと注がれる。長い髪を後ろでひとつに結わえているせいか、いつになく細さが際立つ。女装した私もよく周囲から細い、華奢だと言われるが、実際こうして典子を前にすると、私とは比べ物にならないくらい華奢で非力に映った。
 丁寧に並べられたスリッパを見ているうち、家に上がる気をなくし、私は玄関の隅にあったゴミ袋を指差す。
「これ、捨ててこようか」
「ああ。これから捨てにいこうと思ってたんだけど……いいの?」
「うん。ちょうど靴履いてるから」
 ゴミ袋を手に外へ出てエレベーターに乗り、また一階まで引き返す。ゴミ集積場にゴミを放り、戻ってみると、部屋の奥からは掃除機の音が聞こえた。
 少しリラックスして、バッグを自分の部屋に放り、リビングのソファに腰掛けテレビをつける。
「ねえ」といつからそこにいたのか急に典子が声をかけてきて、少し驚いて顔を上げる。
「……ねえ、香水をつけてる? さっきから、すごく匂うの……なんだか、あなたじゃないみたい」
 言われて、焦った。何か言わないと、何か言い訳をしないと、と頭では焦っているのに、私の心はなぜかひどく穏やかで、この場合の適切な言葉が、まるで出てこない。
 私が答えに迷っていると、それ以上追及せずに典子はまた掃除機をかけ始める。典子の姿が見えなくなると、私は自分の手や腕を鼻先に近づけて匂いがするか確認する。自分では、よくわからなかった。香水の匂いはしないが、タケオの体臭はうっすらとする。しかしそれは自分がいつも嗅いでいるからわかるのであって、普段タケオと接触していない典子に、わかるはずがない。カマをかけているのだろうか。それでも、なんだかもうどうでもよかった。
 私の頭には近頃、ひとつの考えがしきりにまわり続けている。
 女でなければ意味がない──。

 立ち上がって洗面所に向かい、念入りに手を洗う。洗面台は、いつも以上に清潔で片付いている。水滴ののった白い洗面台の上で水を切りながら、少し前に別れた不倫相手の顔を思い出す。彼女の家の洗面台はいつも汚れていて、気がついたときに掃除をするのは私の役目だった。愛未はどうしているだろう。ときどき、愛未の服を手にとっては、別れる前に彼女に返しておいた方が良かったのではないかと後悔を覚えたりする。いま思えば私の顔に初めて化粧を施したのは愛未だった。ウィッグを被せ女物の服を着せたのも。ストッキングを穿かせ、私に女装のきっかけを与えたのも全部──。もしもあのとき、ふざけて女装などしていなければ、いまの私はないだろうか。タケオを愛してなどいなかっただろうか。タケオに愛されることなど、なかっただろうか。

(全160ページ中26ページ)

作家の中村文則さん、女優の秋元才加さんも注目の一作! 異才の文藝賞作家・山下紘加が放つ、異性装者のアイデンティティと愛を巡る物語『クロス』
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000300.000012754.html

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著者

山下紘加(やました・ひろか)

1994年、東京都生まれ。2015年、『ドール』で第52回文藝賞を受賞しデビュー。

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