単行本 - 日本文学

私は生まれてこないほうがよかったのだろうか? 人生をめぐる究極の問いをえぐり出す傑作――倉数茂 著『あがない』

 読みながら、これまでの人生で遭遇した数々の不穏で心もとない一瞬が、水底から立ちのぼる泡のようにふつふつと眼裏へ浮かんだ。道端にしゃがんでこちらを見ていた、年齢も背丈も同じくらいなのに腕の太さが自分の半分しかない子供。うちの母親は馬鹿だから殴っているんだとファミレスで熱っぽい目をして語った同級生。鉄道自殺をした父親が何度も夢の中で死ぬ、と午前零時に電話してきた友人。自分が抱えてきたものとはまったく違う、切迫した他者の苦痛に相対した瞬間の、ひゅうと足場が流れて転びそうになり、とっさに体が強ばる感じ。

 なんどもページをめくる手がとまる。だけど辛くない。むしろ、こうした美化も消化も出来ない感覚を受けとめてくれる小説にやっと出会えたと安堵すら感じて、のめり込む。

『あがない』はゆるやかな始まり方をする。解体業に従事する主人公の祐はある日、仕事の現場で足元を奔り抜ける一匹の蜥蜴を見つける。艶めかしい輝きをまとった、美しい蜥蜴だ。蜥蜴はすぐに奔り去る。現場で野生動物に出くわすのはそう珍しいことではない。廃屋に巣を作るムクドリであったり、床下に隠れた蛇であったり。祐は作業が彼らを傷つけないよう、見かけたら出来る範囲での手助けをするようにしている。その日、祐が出くわしたのは動物ではなく、廃屋内で行き倒れていた身元不詳の青年・成島だった。

 祐には抗不安薬依存に陥り、家庭を壊した過去がある。現在は薬物と縁が切れ、ガラスのコップに一滴ずつ水を溜めていく抑制的な想像を行うことで、日々の不安をなだめて暮らしている。しかし、あけすけに他者への害意や自己破壊の欲求を語る成島は、かつて自分を事件に巻き込んだ薬物の売人・橋野を想起させ、祐を深く混乱させる。

 この作品で、祐に人生を投げ捨てるよう誘惑するのが、虚ろな幽霊とでも言うべき男たちだ。幽霊は、この世の苦痛の髄を知っている。捨てられ、殴られ、蔑まれ、奪われた記憶を通じて、自分を含めた多くの人間は生まれてこない方が良かったと結論づける。破滅へ傾く祐を責めず、笑いながら、優しさと錯覚するような受容を見せる。

 正直さすら感じるトーンで生の営みを否定する幽霊の独白を読みながら、私は奇妙な親しみを感じていた。一つ、また一つと知らなかった苦痛に出遭うたび、足場を流してひゅうと私を飲み込もうとしたもの。身も蓋もない虚無感を、ずっと誰かに当たり前のこととして肯定されたかった。誘惑者の描かれ方があまりに華麗で、待ち人が訪れたような充足感すら得てしまった。そして気づけば幽霊に誘い込まれていた、周囲の人間を食い散らかすおぞましい罪の道にぞっとした。

 押し潰されそうな生存の苦痛と、人生を捨てて墜落することの刹那的な快感を抜群の精度で書き切った上で、この小説は積み上がった絶望をかき分け、その先に向かう。祐がつかんだ綺羅星のような答えを知り、私もまた、不安や寄る辺なさと共存しながら毎日をやり過ごしていくしかないのだと観念した。親しげな幽霊は何度でも現れるだろう。それを拒んで、生きていく。

初出「文藝」2020年秋季号

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著者

彩瀬まる

作家。86年生。著書『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』

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