単行本 - 日本文学

食べられるレシピのレシピ『鳥打ちも夜更けには』【評者】円城塔

『鳥打ちも夜更けには』金子薫『鳥打ちも夜更けには』金子薫

鳥打ちも夜更けには

金子薫

 

 

【評者】円城塔

食べられるレシピのレシピ

 

アルタッドに捧ぐ』で第51回文藝賞を受賞した金子薫の受賞第一作である。
未読の方のために手短に説明しておくと、このアルタッドというのはソナスィクセムハナトカゲの幼体につけられた名前である。ソナスィクセム砂漠に生息し、かつてはエニマリオ族の少年、モイパラシアに飼われていた。雄は繁殖期になると、アロポポルの花粉で頭部を飾る。
見慣れない単語が並ぶがそれは、このトカゲも砂漠も登場人物たちもみな架空のものだからで、金子薫は小説に架空の存在を書く作家なのだが、小説家というものはみなそういう生き物なのだった。
特に検証されたことがないはずなのに一般に受け入れられている命題として、現実と虚構の間には膜や境界が存在する、というものがある。表と裏のようになっていて、何か(原稿用紙など)を突き抜けなければ、お互いに行き来はできないとされる。きれいな構図ではあるが、本当かどうかは誰も知らない。誰も正確には知らない以上、現実と虚構がメビウスの帯やクラインの壺のようにねじれて繫がり、向き付けが不可能だったり、いや別にねじれさえなく地続きに繫がっていることだってありうるわけだ。小説家の特殊技能の一つとして、この現実と虚構を切り替えられるポイントの探知能力がある。金子薫はこの能力に特に秀でており、ほぼ最速、最短距離、最小単語数で両者の自在な切り替えを実現していて、比肩する者をわたしは知らない。
本作の舞台は、本土から離れた島にある、架空の港町。漁業で成り立っていたこの町の新町長は、観光産業への傾注を決め、十三世紀にこの島へ立ち寄ったアレパティロ大王がいたく気に入り、その名で呼ばれることになった稀少にして美しい蝶、アレパティロオオアゲハをその目玉とすることにした。人為的に拡大された花畑によって蝶の数は増加したものの、その影響で海鳥たちの生活環境も変化、この蝶をしきりに捕食するようになった。観光資源を守るためにこの鳥を打ち、駆除するための人員、三人が選ばれてから十年が過ぎているが、肝心の、観光業は斜陽である。
この蝶の幼虫が食べるネルヴォサもまた稀少種であり、鳥打ちたちはロロクリットなる植物から毒物を抽出し、吹き矢で鳥を落とすのである。島の地理や、アレパティオ王の『見聞記』、これら植物や蝶の、見てきたような細かい設定は前作同様、百科事典を読むような楽しさを引き起こすのだが、架空の存在全てが同じ濃淡で並んでいるかというと、実はこの「架空の港町」は、「架空の港町」という名前の実在の町ということになっていたりして油断はならない。
ネルヴォサを蝶の幼虫が食べ、蝶を鳥が食べ、その鳥を人が毒の吹き矢で打つ。連鎖はここで途切れてしまい、生態系はいびつな形になっている。打たれた鳥は「まとめて海中に沈める取り決め」があり、食用にされるわけではない。職務に疑問を抱かない保田、鳥を殺すことの意味を見失い、すっかりまいってしまっている天野、両者の中間的な位置にいる沖山ら三人の鳥打ちたちは、この途切れた連鎖の頂点にいるようにも見えるのだが、実際はその仕事ぶりを、新市長の下にいる監督官たちに見張られている。監督官たちは監督官という虚構の種でしかないように個別の名前を持たず、どれがどの監督官なのかの区別もほとんどつかない。新市長が、とうとう職務を遂行できなくなった天野のために考案した「ありがたき規則」を伝えにくる監督官の口調や振る舞いは、ほとんどアレパティロ王の部下を想像させる。
現実をお伽噺が侵食するということもできるが、このどこの国とも知れず、場所も時代もわからない土地においては、これこそが日常的な現実なのかもわからない。この、自分が無根拠に信じて読み進めてきた土台を崩すことで引き起こされる効果によって、この小説は読者の思考をも侵食していく。
本土から切り離された「架空の港町」の近くには、架空の港町の住人たちからも、ほとんど架空のものとみなされている「リュトリュク」という名の町があることからもわかるように、架空にも段階があり、程度がある。本土から離れた島も、一度舞台とされてしまえば、そこがある種の「本土」となって、天野が脱出する先は本土ではなく、この島からほど近いまた別の島ということになる。つまりここでの虚実は一度寝返りを打てば元へと戻るような素性のよろしいものではなくて、多段な上にダイナミックに変化さえする。
この小説では、現実を最も虚構度の低い虚構として、レベルの異なる虚構たちが相互に食い合いを繰り広げている。ここでやや不満がわくとすれば、最も虚構度の低い虚構たる現実はやっぱり堅固な土台であって、そこをひっくり返すことは困難なところだろうか。
たとえばこの小説を読み終えたところで、この小説自体がなかったことになるとか、本が蝶に変じて飛んでいくというようなことは多分、起こらない。多分というのは、この書評を書くうちにやや自信がなくなってきたからで、はてそういえばここに記されている文章は、小説であったのかどうなのか、文中に挟み込まれる戯曲や日誌、手帖や唱歌の類いは小説の中にちりばめられているのではなくて、小説の文章と肩を並べているように見えてくる。
虚構に段階があるのなら、小説や戯曲にだって程度があって、戯曲のような小説、小説のような戯曲がありえ、あるいはそれは、戯曲が小説を侵食するとかその逆だとか言うことができるのかも知れず、侵食とはつまり何かが何かを食べることで、その連鎖であり、ここにあるのは、読者によって何に見えるのかが違う本なのかも知れず、日々ダイナミックに勢力争いを繰り広げる虚構の生態系があるということになるかも知れない。
むろんその生態系には作者と読者だって巻き込まれているはずであり、この小説を読んでわけがわからなくなったとしたならそれはもしかして、あなたの頭がこの小説によってかじりとられたからなのかも知れない。
金子薫には是非、その能力を生かし、書評自体しようがない小説とか、煙のように消え失せる小説だとか、小説にしか見えない薔薇だとかに取り組んで欲しい。いや、誰にも想像がつかなかったものを書いてもらいたい。

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著者

金子薫

1990年、神奈川県生まれ。慶應大学文学部仏文学専攻卒業。同大学大学院文学研究科仏文学専攻に在籍。2014年「アルタッドに捧ぐ」で第51回文藝賞を受賞しデビュー。

【評者】円城塔

作家。72年生。著書『プロローグ』

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