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「この10年ほどの純文学新人賞受賞作の中でも屈指」と絶賛 第57回文藝賞受賞作 藤原無雨『水と礫』【試し読みあり】

第57回文藝賞は史上最多の応募作の中から受賞作として、藤原無雨さんの『水と礫』が選ばれました。砂漠に隣接する架空の町を舞台に繰り広げられる、壮大なスケールの一大叙事詩。「同じ物語の反復」という、大胆な手法で描かれるのは、東京で負った傷を癒すため砂漠を越えようとする男と、その一族の物語。生きづらい現代を生き、違う世界を夢見るすべての人々の心が震える作品です。

文藝賞の選考委員は「自ら立ち上がり、増殖し始める小説を目の当たりにする感動」(磯崎憲一郎氏)、「精密に作り込んだブレやざっくり感が接続させる現代日本と神話的世界」(穂村弘氏)、「小説の外までも、世界がどんどん広がってゆく」(村田沙耶香氏)と驚嘆の声を上げています。

また雑誌「文藝」2020年冬季号に掲載されるやいなや書評でも多数取り上げられ、栗原裕一郎氏は「この10年ほどの純文学新人賞受賞作の中でも屈指」(「週刊新潮」2020年11月19日号)と手放しの賛辞を送っています。

東京という現実の街と、「砂漠」という神話的世界を電車で行き来できる場所として描いた設定、同時に6代にも及ぶ壮大なサーガの構築、そして緻密で的確な流れるような描写は、デビュー作にしてその賛辞に値する傑作です。

クザーノ家系図。この壮大さ!

その一端を感じていただくにはわずかですが、冒頭の試し読みをアップします。壮大で複雑な物語でもぐいぐい先を読ませる、流れるような文体の心地よさをぜひ味わってみてください。

 

藤原無雨 水と礫

 

 第一に、それは乾いた土地でなければならなかった。

 何故かというと天気が崩れると頭痛がするからで、そうなると体調のことばかりに気が向いて、外へ外へと開くべき神経が遮断されてしまうことになる。

 それらはクザーノとは直接関係のないことだけれど、ともかく彼は、クザーノだ。クザーノは自分の部屋の窓を開いた。真っ白に乾ききった木の窓枠に、蝶番は熱い鉄板だ。一匹の虻(あぶ)が飛んできて、窓ガラスにぶつかった。

 かん、かん。

 と二度頭をぶつけて、また飛び去っていった。窓の落とす影は垂直に、庭先の真っ赤なカンナを断ち切っている。母が大切に育てているものだ。もう真昼だった。寝室までベーコンの匂いが届いていた。

 今日は休日だから父もいる。ウェイトレスのシフトは午後からだから、妹もいた。母のパートも休みの日だ。家族全員揃っての昼食は久しぶりだった。ダイニングに行くと、父ひとりが席についていて、パイプの灰をピックで灰皿に落としている。妹は洗面所でヘアアイロンを使って巻き髪を作っている。母はできたての料理を皿に分けて運んできた。髪いじるの、その辺にしておきなさい。大丈夫すぐ行くから、もうすぐ髪できるから。クザーノは母と入れ違いにダイニングから食器棚で隔てられているキッチンに行き、大きなコップに水を二杯飲んだ。水ならいくらでも飲めた。

 食事が始まると、クザーノは油の垂れた厚いベーコンに囓(かじ)りついた。夜はずっと起きているのだけれど、夜食をとる習慣はなかった。そうして昼まで寝ているから、腹が減らないはずはない。そろそろ次のことを考えんとな。父が言った。クザーノのことだ。

 クザーノは去年まで東京でドブ浚(さら)いの仕事をしていた。仕事はきつかったけれど、鼠の糞便にまみれて、仕事仲間と煙草を喫っている時間は結構幸福だった。しかし仕事中、泥を攪拌(かくはん)する機械の中にあやまってシャベルを放り込んでしまい、機械を壊してしまった。それどころか、その壊れた機械の破片が同僚の肩に突き刺さってしまい、彼は一生腕が動かせなくなった。機械の稼働中にいてはいけない場所に同僚が坐り込んでいたのが直接の原因ということで、業過致傷にはならなかったけれど、クザーノは職場にいられなくなり、故郷に帰ってきた。そうして、熱く乾き切った懐かしい空気を鼻から胸いっぱいに吸い込んだのだった。

 ともあれ、次のこと。この小さな町では、どこへ行ってもクザーノには東京からの出戻りという印象がこびりついている。次へ、次へ。東京に行く前に働いていた金物屋でまたお世話になろうかとも思ったけれど、今はどこから現われたのか分からない日焼けした立派な青年が後釜を務めているのを見かけた。あるときはどこででも働けるような気がしたし、またあるときはどこででも駄目なような気がするのだった。昼食のときはどこへ行っても駄目な気がしていたので、そうだよな、とひとこと答えただけで、もくもくと堅いパンを囓って、玉ねぎのスープで柔らかくしていた。

 東京で仕事をしていたのが三年間だから、その一年前、更に仕事を辞めてから一年経つから五年前ということになるか。クザーノは昼食を終えてから部屋に戻り、また窓を開けて、一本一八〇円の安い葉巻をふかしていた。そうだ、五年前だ。クザーノは窓の外に広がる砂漠を眺めた。浅い色をした平地には堅い潅木や枯れ草がところどころに生えていて、芯まで乾ききったキャメル・ソーンの木が複雑な腕を開いて、何かの象徴みたいに立っている。景色を囲うように広がっている巨大な砂丘は鮮やかなオレンジ色で、どんな突飛な思考も受け止めてくれそうな、偉大な単純さを湛えていた。生まれたときからずっと見てきた風景で、そうして飽きるということのない風景だった。クザーノはほとんどの時間を、こうやって窓の外を眺めて過ごしていた。俺が二十一歳で、甲一は俺のひとつ下だからちょうどはたちだった。甲一はクザーノの肩を叩いて、らくだ買ったった! と叫んだ。花田のおっちゃんとこのいちばん元気なやつを買ったよ、歯が白くて長いやつだ。結構したけれど、今からやろうとしてることを考えたら大した額じゃない。俺は砂漠を越えようと思うんだ。東京へはバスと電車と新幹線を乗り継いで行けるけれど、砂漠を越える道はない。でも俺は確信がある。砂漠の向こうにも町があるんだ。俺はそこに行ってみたい。何をしにだよ? そんなことは行ってみなきゃわからねえよ、なあ! 兄ィも良かったら一緒に来るか? 俺は遠慮しとくよ。そのときクザーノはそう答えたのだった。本気で行くだなんて思わなかった。らくだを買ったのも、ちょっとした商売でも始めるつもりだと思ってたんだ。ああ甲一、俺の大事な弟分……気づけば葉巻を喫うのをわすれていて、火が消えていた。

 お兄。窓の外から妹に呼びかけられた。もうお仕着せに着替えている。ぼうっとしてちゃ駄目よ。いつまでもそうしていられるわけじゃないんだからね。んなことはわかってるよ、気をつけて行ってこいよ。巻き髪が跳ねた。我が妹ながら美人だ。若い美人がひとり家にいれば、どうとでも立ち行くものなのだろうと、クザーノは漠然と考えていた。妹の姿が見えなくなると、クザーノは葉巻の火を点け直した。しばらくぷかぷかやっていると、母が部屋をノックして入ってきた。お父さんはあんなふうに言ってるけれど、お前のペースでやればいいんだからね、無理だけはしちゃいけないよ。家族はみんな、クザーノが東京で何をしてきたのかを知っている。新聞の小さな欄にも載ったのだ。ありがとう。クザーノはこう答えるより仕方がなかった。冷蔵庫にりんごケーキがあるからね、好きなときに食べな。ありがとう、頂くよ。母は寝ている子供を起こさないようにするみたいに、そうっとドアを閉めた。

 甲一はなんで砂漠の向こうを目指したんだろう。甲一を構成する水分は、この町が湛えている水分の割合とぴったり一致しているはずだ。ここで生まれて、ここで育ったんだから。これ以上乾きたいなんて思うものだろうか。クザーノは東京で水分をたっぷりと身体に沁み込ませてきた。乾いた故郷に帰ると、それがより酷く感じられた。プールから上がったときに、身体が重くなるのによく似ていた。クザーノは歩くたびにその重みを感じていた。毎日たっぷりと飲んでいる水とは、また別のところに蓄えられている水分だ。クザーノが渇き切って死んだとして、その死体を抱え上げられたら、干涸らびた皮の中からチャプチャプと音がするに違いない。そういった水分だった。

 町の友達に会う気には、なかなかなれなかった。どうしたって、しくじった奴だと思われる。甲一なら平気だったかもしれない。兄ィ、えらい目にあったんだってな、大丈夫だよ、俺がやってる商売があってさ……甲一。甲一となら大丈夫だったはずだ。東京になんか行くべきじゃなかった。甲一と一緒に、俺は砂漠を渡るべきだったんだ。あのオレンジ色を見ろよ。あそこに甲一の足跡がついたんだ。そこに俺の足跡がつくことを考えてみろよ。いつまで親父にグチグチ言われるつもりだ。妹に気を遣わせるつもりだ。母を怯えさせるつもりだ。なあ甲一。俺が悪かったよ。今からでも償いをさせてくれ。俺は肩を怪我させたコマダという男に、まだ一度も謝っていない。コマダがどこの病院に行ったのか、誰も教えてくれなかった。俺もしつこく聞かなかったんだ。そのうちに、俺が職場を去ることになった。甲一。俺はお前の後を追うよ。

 クザーノは久しぶりに出かけて、トンボ屋という商店に入った。ロープとビニールシート、タライ、ガムテープ、あと大きなポリボトルを二十本買った。店長はもちろん顔見知りだったけれど、何も言われなかった。クザーノはそこから町のスクラップ置き場まで行って、壊れた大きな荷車を見つけると、大量に捨てられていた布団を積んで、町中を引きずって歩いた。そこから製材屋に顔を出して、木材を安く売ってもらった。バッカンからいらなくなったものもいくつか頂戴した。それで商売でも始める気か? そんなとこですよ。そんなボロで始めんのかい。まあ、初期投資は安い方がいいやな。製材屋の社長は、今日初めてまともに話した相手だった。

 荷車をガレージに置くと、布団を抱えて屋根に登り、一面に広げた。蚤(のみ)や南京虫を殺すためだ。花柄、黄ばんだ白、血のついたもの、屋根はたちまち布団でいっぱいになった。屋根から降りると、タライに水を溜めて荷車のパンクを修理しようとした。けれどもチューブもタイヤも風化してボソボソになっていた。クザーノは自転車屋にひとっ走りすることになった。タイヤを嵌(は)めると、次は穴が空いてボロボロになった荷台に、色の新しい木材を打ち付ける。水の入ったボトルをたっぷり載せるのだし、クザーノの寝床にもなるのだから、うんと頑丈でなければならない。妹が帰ってきた。お兄、なにやってんの? ちょっと工作だよ。ふぅん。

 布団は翌日になって全部下ろし、荷車に敷き詰めた。母は不安そうな顔でクザーノを見ていたが、何も言わなかった。父は努めて無関心を装っているようだった。妹はときどき声をかけてきた。工作、順調? おう、順調だよ。

 クザーノはまた出かけて、今度は食料品店に行った。干し肉、ドライフルーツは山のように、真空パックのハムはごちそうに少し、それにチーズ。レジ打ちの店員は同級生だったけれど、なにも言わなかった。けれどもきっと、この買い物は噂になるに違いない。いや、噂ならスクラップ置き場から荷車を引きずっていたときに、もうなっているはずだろう。商品からときどきチラチラとクザーノの顔を見上げるこの同級生は、子供の頃クザーノが好きだった女の子だった。けれども今は、懐かしい時代を思い起こすための可愛らしいスイッチに過ぎなかった。大きな目は変わらなかったけれど、好きだったツンと尖った鼻は、大人になって特徴がよりはっきりすると、両側のくぼみがあらわになって、少し尖りすぎているようにも見えた。もちろん不美人ではない、なんのことはない顔だった。

 パンはパン屋であらかじめ予約していた、これもたっぷりと買った。それから最後に、花田のおっちゃんのところだ。荷車を引くらくだがいなければ話にならない。らくだ牧場の手前にあるスーパーハウスの扉をノックすると、オーバーオールを着て、口髭を生やした花田のおっちゃんが出てきた。あの、良いらくだが一頭欲しいんです。花田のおっちゃんはしばらくじっとクザーノの顔を見つめてから口を開いた。なんだ、甲一みたいな顔で来たな。あの甲一だよ。そんな顔して来たんだよ。何も後ろめたいことはないはずなのに、クザーノはどきりとした。鍵ぃ、取ってくるわ。花田のおっちゃんがスーパーハウスから出てくると、頭にベレー帽を被っていた。

 おっちゃんはスーパーハウスに鍵をかけて、らくだ牧場の入り口の南京錠を開けた。らくだたちは、夕方の光を浴びながら、巨大な干し草の塊を咥(くわ)えて、振り回しながらほぐしていたり、坐り込んでのんびり反芻していたり、あちこち歩き回ったり、後ろ向きのペニスから放尿したりしていた。若くて元気な奴がいい。高いぞ。お金なら持ってきてる。それならいいんだけどな。花田のおっちゃんは腰の後ろに手を回し、ウェストポーチの上に拳を置いて、ゆっくりと歩いた。こいつだろうな、きっとこいつに決まる。そう言って、花田のおっちゃんは坐り込んでいる一頭のらくだの前に立った。アップ。花田のおっちゃんがそう言うと、らくだはまず前脚を立てて、ぐううんと起き上がった。花田のおっちゃんはウェストポーチから緑の錠剤のようなペレットを取り出すと、らくだに食べさせた。カサンドル、こいつはカサンドル。立派な雌らくだだろう。身体の大きならくだだった。花田のおっちゃんは隠すようにして、クザーノの手にペレットを握らせた。クザーノはそれを前に出して広げると、カサンドルは首を伸ばしてペレットを食べた。手のひらに柔らかいくちびるを感じた。こいつでいいか。いい、何も文句は無いよ。よし。花田のおっちゃんはカサンドルにバネの首輪をつけて、緑色の札にクザーノの名を書いた。

 スーパーハウスに戻ると、黒いソファに坐ってお金の話をして、クザーノは現金でそれを支払った。荷車を牽(ひ)くための輓具(ばんぐ)や、長い旅に必要な山のような干し草も一緒に買った。いつ届ける? 明日の早朝、四時とかでも大丈夫です? ああ、問題ないよ。ふたりでインスタントコーヒーを飲みながら、しばしぼうっとしていた。煙草は喫うのか? 葉巻をやります。クソ生意気なガキだな。花田のおっちゃんはそう言って、煙草をクザーノに咥えさせて、火を点けた。どうもです。花田のおっちゃんは自分の煙草にも火を点けて、ひと喫いすると、カサンドルをよ、死なすような真似はするなよ、大事に育ててきたんだ。わかってます、カサンドルが死ぬときは、きっと僕も死ぬときです。馬鹿か人間の命と秤にかけるようなもんじゃねえよ、そういう馬鹿を言うのが馬鹿なんだよ、この馬鹿野郎が。そうですね、馬鹿ですねえ、死なないようにします。商売やるって感じじゃねえもんなあ。花田のおっちゃんはため息のように深ぁく煙を吐いた。危なかったら帰って来いよ、そしたらカサンドルもまた買い戻すからよ、それ以上はお前、何も言えねえよ俺ぁよ。ありがとうございます。久しぶりに喫った煙草はなんだか紙みたいだった。帰り道、煙草屋に寄って、チューボ入りの一本五千円の長い葉巻を二本買った。

 夕食を終えて部屋に戻ったクザーノは家族に向けて長い手紙を書いた。面倒に思えたこの作業は、あっという間に終わってしまった。クザーノは便箋を畳んで、封筒に入れた。明日、食卓にそっと置いていくつもり。荷物は全部荷車に載せてあるし、もはや準備はすべて終わっている。窓を開けると、冷たい外気が入ってきた。砂漠は月の光を浴びて青ざめている。クザーノは上等の葉巻を一本開けて、吸い口を切り、丁寧に火を点けた。喫ったことのない銘柄だ。当たりか外れか。ひとつ、ふたつ、みっつ、ふかしてみて、ああこれは。カフェオレみたいな口当たりで、切ったばかりの杉のような香りもする。香ばしくて、なめらかで。

 クザーノは二時間くらいかけて、なんにも考えずにゆったりと葉巻をふかした。

 

続きは11月16日発売『水と礫』でお楽しみください。

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藤原無雨

(ふじわら むう)
1987年、兵庫県姫路市生まれ。2020年、「水と礫」で第57回文藝賞を受賞しデビュー。マライヤ・ムー名義の共著『裏切られた盗賊、怪盗魔王になって世界を掌握する』がある。

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