単行本 - 日本文学

黒野伸一『あさ美さんの家さがし』試し読み

NHKでドラマ化もされた『限界集落株式会社』の著者、黒野伸一さんの新刊『あさ美さんの家さがし』がついに発売になりました。
ある港町を舞台に色々な世代の登場人物たちが、それぞれに苦しみながらも前向きに生きて行く姿を描いた連作長編です。
第一話を公開しますので、ぜひご一読ください!
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黒野伸一『あさ美さんの家さがし』試し読み

第一話 タワーマンション 前編

「いやあ、ぷにぷにの肌だねえ。ぷにぷにでぴちぴちで、ぷるんぷるん。二十歳だって? 若いねー。えっと、名前何だっけ? もう一度教えて」

 男は皮脂でギットギトにてかった巨顔を、新米キャストに近づけた。

「ま、まひろです……」

 身を引きながらキャストが答える。

 Vネック・オープンバックのミニドレスが良く似合う。胸の谷間も見事だ。とはいえ、酔っぱらいのスケベな中年客には、まだ慣れていないらしい。

「まひろちゃんか。いい名前だねー。ぐふふふふふふ」

 男の下瞼が、特大の涙袋と見まがうばかりに盛り上がった。ここは昭和の時代からある、場末のキャバクラ。

「今度、寿司でも食べに行こうか、まひろちゃん。うまい店、知ってるんだよ」

 男がにやけた顔で、ドレスからむき出しになった太ももを撫ではじめた。禿げた頭に、ミラーボールが照り返している。まひろが救いを求める眼差しを、あさ美に向けた。

「ダメですよ、斎藤さん。新人をからかっちゃ」

 禿げオヤジの古びたグローブのような手を摑み、まひろの太ももから引き剝がした。手を離さず握りしめると、向こうも握り返してきた。

「からかってなんかいないよー。何? 嫉妬してるの? あさ美ちゃん。ぐふふふふ」

 斎藤が歯垢の浮いている黄色い歯をむき出した。あさ美は空気を変えるため、今日の日経終値の話をはじめた。

「そうなんだよ。株価、また下がっちゃったんだよ。まったく、経済政策がなってないねー。じゃぶじゃぶ金融緩和した挙句、今度はマイナス金利だって? 冗談だろって──」

 即座に斎藤が反応する。

「そうですねー。金融政策だけじゃ、なかなか株価は回復しませんよねー」

「だけど、セキサイ工業の株だけは上がってるんだよ。おれ、あそこの株、かなり仕込んだんだ」

「え〜っ! すっごいー。あの会社は不況に左右されない優良企業だって、聞いたことがあります」

「さすが、あさ美ちゃん。よく知ってるねー。ぐふふふふふ」

 禿げ頭の斎藤は、満足顔で帰って行った。次もあさ美を指名するだろう。あさ美は、ナンバーワンのキャストだった。

 閉店時間になり、更衣室で着替えていると、まひろが近づいてきて、ぺこりと頭を下げた。

「あさ美さん、さっきはありがとうございました」

「まだ二日目だっけ?」

 後ろ髪をさっとかき上げ、ブラウスのボタンを留める。

「はい、今週の火曜からです。なかなか慣れなくて」

 まひろは、狭い眉間にシワを寄せた。

「ここは客層、よくないからねー」

「やっぱ、そうなんですか。事前にもっと調べておけばよかった」

「他のお店、受けなかったの?」

「ん〜。まあ、ここがいいかなって、すぐに決めちゃったんです」

 あさ美たちが勤めるキャバクラ「」は、激安店だ。盛り場からは少し離れた、倉庫街の近くにある。安いだけあって、キャストの質も高いとはいえない。まひろも、胸や尻は立派だが、鼻がペシャンコで顎はしゃくれている。おそらく他の店を何軒か受けたが、断られた口だろう。あさ美のように。

「だけどすごいですねー、あさ美さんて。さすがにあたしより、一回りは年上なだけありますよ」

「そうかな」

「そうですよ。年の功っていうんですか? やっぱり年増の人には敵わないと思いました」

 無邪気に言っているので、悪気はないのだろう。近頃の若い子だ。

「株のこととか、勉強してるんですか」

「まあ、ちょっとだけね」

 つい二年前までは、横崎市内の地方銀行に勤めていた。

「あたしもやっぱ、新聞とか読まないといけないかなー。でも苦手なんですよね。漢字読めないし。政治とか、何だかわからないし」

 まひろがミニドレスを脱いだ。小さな布切れからはみ出した、形のいいヒップがあらわになる。

「別に苦手なら読む必要ないよ」

 下着姿のまひろの身体に視線を走らせた。どうしても若い子の身体に目が行ってしまう。元々痩せているあさ美は、若い頃からせり出した胸やお尻とは無縁だった。おまけに今は、ピチピチの肌もないから、トークで勝負するしかない。

「でも会話、続かないんですよー。はっきりいってここ、もう、勘弁して〜ってキモ客ばっかりですね。もっとロマンスグレーの、素敵なおじ様とか来ると思ってたんですよ。お金持ちで、黙っていてもワンルームとかポンとプレゼントしてくれそうな」

 んな客、いるわけないじゃないの、と口には出さず、心の中でつぶやいた。

「言ったでしょう。ここは客層よくないって。ただでやらせてもらおうと、ギラギラした目つきで迫って来る、港湾のおじさんばかりだから」

「どうやったら、やらせずに、大金巻き上げることができるっすかね」

 口調が段々フランクになってきた。

「それは人それぞれやり方があるんじゃない」

 まひろが私服に着替え終わった。お尻が半分見えている極浅ホットパンツに、レースの入ったベアトップ。キャバの仕事着とほとんど変わりない出で立ちだ。

「寒くないの?」

 まだ四月になったばかりだった。

「平気っす。若いですから」

 まひろはバッグからタバコを取り出し、火を点けた。フーと吐き出された煙が、ゆらゆらと天井を舞う。

 スタッフに挨拶し、店を出た。潮の香りを含んだ風が吹き、ぶるっと身震いする。まひろがピンクのカーディガンを羽織り、脇を締めた。

「あさ美さん、これからどうするんすか」

 二本目のタバコが、ぽってりした唇にくわえられている。

「帰るよ」

「え〜っ! もう帰っちゃうんですかー。まだ早いっすよ。どっか行って、カクテル飲みましょうよ。聞きたいこといろいろあるし」

「悪いけど、疲れてるから」

 もう夜中の十二時を回っている。遊び盛りには序の口だろうが、三十路過ぎにはベッドが恋しくなる時刻だ。

 つまらなそうな顔をしているまひろにさよならを言って、駐輪場に向かった。

 スマホを確認すると十三件の着信があった。すべて客からのLINEである。スクロールしながら画面に目を走らせる。

(今日の昼は、春のえび塩キャベツ牛丼を食べました。ちょっと塩辛かったですが、おいしかったです)

 添付画像には、食べかけのぐちゃぐちゃになった牛丼が写っていた。なぜ食べる前のきれいな状態で撮らないのか不思議に思ったが、すぐに余計な詮索はやめた。

 音声入力で返信する。このシステムが登場して親指の疲労が減り、助かっている。

(おいしそうですね。わたしもぜひ、食べてみたいです! 今度連れて行ってくださいね♡)

 食べてみたくなどないし、同伴で牛丼屋に行くつもりもない。本気になって誘って来れば、のらりくらりとかわすだろう。とまれ、リアクションは大切だ。大げさに反応すれば、次回も本指名が取れる。

 別の着信を見ると、今度も他愛もない日常生活の報告だった。社員食堂でスペアリブを食べていたら、骨をかじってしまい、歯が痛かったとか、どうでもいいことが延々とつづられている。

「みんな、かまってほしいんだね」

 あさ美はため息をついた。

 とはいえ、メッセージの主は、近ごろろくに店を訪れない。なのにメールの量だけは日に日に膨れ上がっている。そろそろ切る潮時かもしれない。スペアリブの話には返事を打たず、次の着信に目を通した。

(これがおれの素直な気持ち。あさ美ちゃん最高!)

 添付画像を見て、危うくスマホを落としそうになった。画像に写っていたのは、男の屹立した一物だった。こういうバカが少なからずいるので、疲れる。即着信拒否にした。

 駐輪場の前で、すべての着信メールをチェックすると、買ったばかりの電動自転車にまたがった。自転車を漕いで二十分のところに家はある。丘を登ったり下ったりしなければならないので、電動アシスト機能は不可欠だ。せこい店なので、タクシー代は半額しか補てんがない。だから運動も兼ねて、自転車通勤している。

 丘の中腹にある、古いモルタル造りの家屋の前で自転車を降りた。家の中からは、明かりが漏れている。

 玄関を開け、薄暗い廊下を歩いた。突き当りにあるダイニングルームに足を踏み入れるや、金髪の人物があさ美をふり返り「おかえり〜」と野太い声で挨拶した。

「ただいま」

「どうだった? 仕事は」

「いつもと変わりない」

 二階に上がろうとするあさ美に、女装した父親が「まあ、ちょっと座りなさいよ」と促した。

「なんか用?」

「別に用はないけど、近ごろすれ違いばかりで、会話がないし」

「おかあさんは?」

「もう寝てる」

「今日はおとうさん、遅かったみたいだね」

「部のみんなと新人の歓迎会があったの。久しぶりに飲んだわ。でも実は、ちょっと物足りないの。ねえ、ビール一杯つきあわない?」

「う〜ん。今日は仕事で飲み過ぎたから。疲れてるし、もう休む」

「そ? じゃあ仕方ないわね」

 父はすねるように唇を尖らせ、肩をすくめた。あさ美は父におやすみを言って、階段を上った。

 メイクを落とし、洗顔をすませ、パジャマに着替えてベッドに横になった。木目の天井には雨漏りの大きな染みが浮き出ている。今日一日のことをふり返りたかったのに、十秒も経たないうちに、あさ美は浅いいびきをかいていた。

 翌朝目覚めてキッチンに下りていくと、ばっちりとメイクをし、ピンクのスカートスーツに身を包んだ父が、コーヒーを飲みながら、朝刊を読んでいた。

 今年で五十八になる。とはいえ、化粧と染めた金髪のおかげで、同年代の男性よりずっと若く見えた。

「おはよう。早かったわね。もっと眠っていればよかったのに」

 父は新聞から目を上げ、黒く縁どられた目元を細めた。

「なんか、早く目が覚めちゃうの。もう年かな」

「何言ってんの〜。まだ三十二でしょう」

 くねくねした女言葉ではあるが、おしゃべりになった。女装をする前は、岩のように押し黙った、典型的な昭和の男だったのに。

「さてと」

 新聞を畳み、コーヒーの最後の一滴を飲み干す。

「おとうさん、そろそろ会社に行くから」

 こんな姿になった父だが、新宿二丁目ではなく、以前と同じ地元の運送会社に勤めている。

「そこにお味噌汁と、ベーコンエッグがあるからね。温めて食べなさい」

 朝ごはんは、父が作るのが日課だ。以前は縦の物を、横にもしない性格だった。

「おかあさんは?」

「さあ、庭で植木の手入れでもしてるんじゃないの?」

 両親が一緒の布団で寝なくなって久しい。父は居間のソファをベッド代わりにしている。身体が大きいので、いつも窮屈そうにしているのが、ちょっとかわいそうだ。

 出勤した父を見送りがてら、庭に出た。家のまわりを一周すると、裏庭で沈丁花にホースで水をやっている母に出くわした。

「おはよう、おかあさん」

 母は娘を無視して作業に没頭していた。どうやらまた機嫌が悪いらしい。

「今日もいい天気だね」

 ここのところ晴天が続いている。雲一つない青い空に、チュンチュンとすずめの群れが舞う。開花したばかりの沈丁花が、甘酸っぱい香りを放っていた。

 爽やかな朝とは対照的に、母が重いため息をついた。

「まったくもう、夜の夜中に帰って来て、ガタガタうるさいんだから。あんたもおとうさんも」

「ゴメン、起こしちゃった?」

 母はホースの水を止めると、ジロリと娘をにらんだ。

「家の中に入りなさい。ご近所に見られるわよ。みんなが真面目に出勤していく時刻に、ぼさぼさな髪してパジャマ姿で庭をうろつくなんて」

「はいはい」

 素直に従い、家の中に入った。母は未だに、娘が夜の仕事をしていることが気に入らない。

 二年前、真面目一辺倒だった父がゆっくりと女装の道を歩み始め、同じく真面目一辺倒だった地方銀行勤務の娘が、キャバ嬢に転身した。母にとっては耐えがたいダブルショックだったに違いない。以来家族の関係は、ずっとギクシャクしたままだ。

 そもそも、三十路を超えた一人娘が、結婚もせず親と同居しているのがいけないのかもしれない。だから家を出ることを考えている。

「あんた、近ごろおとうさんと結構しゃべってるわね」

 キッチンで父が作ったベーコンエッグを食べていた時、庭から戻って来た母が言った。

「別に、そんなにしゃべってないよ」

 以前は女装した父が薄気味悪くて、接触を避けていた。しかし、父が何事もなかったように、自然体で話しかけてくるので、徐々に会話を交わすようになった。

「そうかしら。昨日の夜遅くだってしゃべっていたでしょう。寝室まで聞こえてきたわよ。やっぱり、父と娘なんだって思った」

 父のことは嫌いではない。しかし、あの格好の父と二人で外出できるかと尋ねられたら、無理と答えるだろう。母はキャバ嬢の娘と、女装趣味の父親が、似た者同士だと皮肉りたいのだ。

 朝食を食べ終わるや、普段着に着替え、家を出た。母と二人きりで家の中にいると、息が詰まりそうになる。

 不動産屋に行ってみよう。ネットで物件探しをしているだけでは、掘り出し物は見つからない。

 神奈川県横崎市は、面積四万四千ヘクタール、総人口三百五十万人の、東京湾に面した巨大都市だ。あさ美の住む、中区傘寿町三丁目は、丘の中腹にある昔ながらの住宅地。丘の頂上は山手台と呼ばれ、外人墓地や港を見下ろす自然公園などがあり、観光客も多い。丘の下、傘寿町一丁目は港湾労働者などが住む、いわゆるドヤ街として有名だった。丘の天辺から下るにつれ、見事に上流・中流・下流に階層分けされている。

 あさ美が引っ越したいと思っているのは、傘寿町からほど近い「PORTみらい」地区だ。横崎港周辺、約七十ヘクタールを埋め立てて造った、総面積百五十ヘクタールのエリアで、巨大な劇場やテーマーパーク、商業施設、公園、高層マンションなどが建つ。

 家賃は高いだろうが、ベランダで港の夜景を眺めながらシャンパンを空けるアーバンライフには憧れた。どうせ越すなら、現代的でおしゃれな場所に越したい。

 PORTみらい駅で地下鉄を下り、「PORT21」というしゃれた屋号の不動産屋の窓にあった広告を眺めた。PORTみらいにある分譲マンションの写真が、間取り図つきで掲示されている。

『ザ・ベイタワーレジデンス 20階 2LDK 80㎡ 八千万円。PORTみらいタワーズ・イーストタワー23階 3LDK 82㎡ 九千万円。みらいミッドタウン・レジデンス 40階 3LDK 87㎡ 一億二千万円……』

 どうやら、タワーマンションというのは上階に行くほど値が張るものらしい。

 ごくりと生唾を飲み込んだ。引き返そうかと思ったが、かぶりを振り、深呼吸をして自動ドアの前に立った。

 扉が開いた瞬間、人々の目があさ美に集中した。若い従業員たちは、皆品のいいダークスーツに身を包み、糊の効いたシャツを着ている。

 あさ美は、ダメージジーンズにボーダー柄のニットソー姿だった。ちょっとご近所の不動産屋さんに行ってきます的ノリで出て来た。

「いらっしゃいませ」

 髪の毛をひっつめにした、小顔にえくぼが魅力的な女性が丁寧に頭を下げた。

「あの、実は……」

 PORTみらい地区で賃貸マンションを探している旨、伝えた。

「かしこまりました。あちらにかけてお待ちください。ただいま担当者がまいります」

 一分もしないうちに、ふちなし眼鏡をかけた四十くらいの痩せぎすの男性が現れ、名刺を差し出した。高層住宅事業部・木村次郎と書いてある。

「よろしかったら、この用紙にご記入ください」

 住所、氏名、職業、希望物件の詳細などの記入欄がある顧客登録用紙。氏名・細野あさ美。年齢・三十二歳……。職業のところで、一瞬筆を止め、飲食業と記入した。

「お住まいは、この近くですね。傘寿町三丁目。え〜と、ご希望の家賃は五万円以上、十万円以下。間取りは1LDKと……」

 木村は持ってきた分厚いファイルのページを捲った。

「この条件だと、PORTみらい地区では残念ながらお勧めの物件がございませんねえ」

 申し訳なさそうな表情に若干の蔑みの色を湛えながら、木村が言った。

「どの辺りならありますか」

 木村が告げた地名は、どれもPORTみらいからはほど遠い、あまり治安のよくなさそうな場所ばかりだった。

「こういったところでも、1LDKはちょっと難しいですね。ワンルームなら八万円、九万円台でございますが」

「PORTみらい地区で、1LDKを借りるとすれば、家賃はどのくらいでしょうか」

「二十万円台なら、ご満足いただける物件がございます」

 木村がファイルのページを見せた。高層マンションの中層階にある1LDKだ。駅から徒歩五分で、商業施設や映画館にも近い。その他にも二、三件似たようなクオリティの物件があった。

「見学ってできますか?」

「もちろん。今から行きますか?」

 会社のセダンに乗って、三分のところに物件はあった。築七年。エントランスの天井は高く、採光がいい。

 エレベーターに乗って、物件のある七階に上った。十五畳のリビング・ダイニング。キッチンは五・五、ベッドルームは七畳。収納スペースはあまりない。バスルームはなかなかゴージャス。ベランダの目の前に別のタワーマンションが建ち、港の景色を遮っているのが玉に瑕だ。

 これで家賃二十万五千円というのは、まあ妥当なのだろう。

 年間二百四十六万円かぁ……。

 払えない額ではない。

 とはいえ、生まれた時から親元で暮らしているあさ美にとって、ただ住まうためだけに、これだけの大金を払うのは、どうにももったいないような気がした。かといって、立地やクオリティで妥協はしたくない。貯蓄に励んできたし、キャバではナンバーワンキャストを張っている。

「どうですか。なかなかクオリティが高いでしょう。マンションには住民専用のジム、プール、ゲストハウスなども完備されているんですよ」

 木村がわが家の自慢でもしているように胸を張った。ここはちょっと高級すぎて、お前には手が出ないだろう、という心の内が透けて見える。

「そうですね。なかなか、ステキです。他の物件も見たいのですが、案内していただけますか」

「もちろんですとも」

 木村は微笑みながら、わずかに鼻を鳴らした。次の物件はそこから徒歩で行けた。駅から歩いて一分。タワーマンション、十二階の角部屋だった。

 最初のマンションにはなかった、ウォークインクローゼットがあり、パウダールームも広い。コの字型のベランダから見下ろす港町の景色は格別だ。昼間でも息を吞むのだから、日が落ちたら、さぞや美しい夜景を堪能できることだろう。

 ぐらっと気持ちが動きかけた。

「こちらのお値段は」

「二十四万円でございます」

 月額二十四万、年額は二百八十八万。十年住めば、二千八百八十万の負担となる……。

「どうなさいますか?」

 ふちなし眼鏡の奥から意地悪な目が覗く。

「ちょっと、考えさせてください」

 木村がコホンと咳払いした。

「どうでしょう、細野様。PORTみらい地区がご希望であれば、別のタイプの物件もご紹介できますよ」

「別のタイプ、ですか?」

「現在ご紹介しているものより、ワンランク下の価格帯です。部屋は狭くなり、駅からも遠くなりますが、港の景色が見えて、テーマパークや商業施設からもさほど遠くない場所にあります。きっとご満足いただけると思いますよ」

 妥協はしたくなかったものの、下の価格帯でも満足のいく物件が見つかれば、それに越したことはない。

 マンションを出て、駐車場に向かっている時、反対側の歩道を歩いている若い男女が目についた。女のお腹はずいぶんと大きかった。

 二人が誰かわかった時、思わずあさ美は視線を逸らした。脇を歩いていた木村が、怪訝な顔をする。

 二人はどうやら、あさ美には気づいていないようだ。そういえば、PORTみらいのタワーマンションに新居を構えたと、風の便りに聞いた。

「あの……すみません。あたし、今日はここでもう失礼します」

「えっ? まだご紹介する物件が残っていますが」

「本当に申し訳ありません。急用を思い出したんです。またご連絡します。すみません」

 木村の返事を待たず、背を向けた。楽しそうに手をつないで歩く二人の後ろ姿を見失なわないよう、後を追う。

 新藤正也はスーツを着ていた。ということは仕事中なのだろう。昔から、外回りでサボることに長けた男だった。そして。以前よりややふっくらした、幸せそうな顔。お腹の大きさから見て、夏ごろには出産するのだろう。

 二人が入って行ったのは、あさ美が最初に訪れた、二十万五千円の物件のあるタワーマンションだった。しばらく外から入口を眺めていたが、意を決して建物の中に入った。

 エントランスには郵便受けがあった。新藤という名前を探すと、あった。他に新藤がなかったので、正也が新居として購入した物件に違いない。1807と番号がついているから、おそらく十八階にある住戸なのだろう。このマンションは、二十五階建てだ。

 マンションから出て、窓の数を下から順番に数えて行く。十八番目の窓は、かなり高いところにあった。あそこからなら、房総半島まで見渡すことができるかもしれない。

 どうせなら賃貸より、買ってしまおうか?

 こんな思いがふと、頭をよぎる。

 フヨフヨと鳴きながら、カモメの群れが上空を通過して行った。

 客の入りが一段落したので、待機室で休んでいる時、まひろがにやけた顔で近づいてきた。

「やっぱ、あさ美さんにはいいお客さんがついてるんですね、うらやましいなあ」

「いいお客さん? 誰かな」

「ストライプのシャツ着て、眼鏡かけたお客さん。ちょっといいなって思ってたら、やっぱりあさ美さんを指名してましたね」

 小林邦彦のことだ。

「常連さんなんですか」

「うん。まあ、そうかな」

「いつも一人で来るんですか」

「そんなことはないよ。お客さんの接待とかで来ることもあるし」

「ちょっとステキな人っすね」

「そうかなー。普通だと思うけど」

「ま、確かに昼間街中を歩いていたら、普通の人に見えるかもしれませんけど」

 まひろはバッグからタバコを取り出し、火を点けた。

「だけど、ここにはキモ客しかこないから、その中では王子様に見えたんすよ。あ、やっとマトモな人類の男を見つけたって」

 思わず噴き出してしまった。

「ねえ、あさ美さん。コツ、教えてくださいよ〜。どうしたら、ああいう良客ゲットできるんですか?」

「良客かどうかなんて、わかるの?」

「わかりますよ〜。全然ギラギラしてないし、がっつかないし。普通の感じであさ美さんと話してたでしょう。あたしがつく客で、あんな人いないっすよー。加齢臭ムンムンで、脂ぎってて、耳毛なんかもボーボーで、あたしの太もも触りながら、今度一緒にスッポンを食べに行こうとか言うやつばっかりで」

「誘ってくれるんだからいいじゃない。無視されるのが、一番辛いよ」

「そうですけどー。スッポンみたいな顔したオヤジとスッポン食べに行くなんて、まるで共食いじゃねーかよって。行ったらなんか、面倒なこと起こりそうだし」

「だったら、行かなきゃいいのよ。限りなく行きそうな素ぶり見せて引っぱれば、ずっと本指名入るし」

「あたしにそういう技、ないんですよー。気安く脚とか、お尻とかタッチされたくないんです。もっとあさ美さんみたいに、自然体接客でナンバー張りたい。自然体っていっても、裏にちゃんとテクニックあるでしょう。そのテクニックを盗みたいんですけど、ぜんぜんうまくいかなくて」

「テクニックを駆使しなきゃいけないのは、あたしみたいなオバサンは、外見だけじゃお客さんつかないからだよ」

「そもそもあさ美さん、なんでこの仕事、始めたんすか。前は金融機関とか、結構お堅いところで仕事してたって聞きましたけど、本当ですか」

「本当よ」

「どうして辞めちゃったんですか」

「いろいろ理由がある」

 男尊女卑の古い体質。現場の仕事を一切しない、天下りの上司。意味のない書類の山。仕事に対する不満は山ほどあった。とはいえ、そんな悩みなど、会社員なら誰しもが抱えている。

「このままこれ、いくつまで続けるのかなってふと思ったら、辞めたくなっちゃった。人生一回切りだからね」

 スタッフに呼ばれ、会話を中断した。その後は接客に追われ、まひろと続きを話す時間はなかった。最後の客が帰り、更衣室に入った頃には、すでにまひろは帰宅していた。

 仕事を終え、家に帰ってシャワーを浴びた。ベッドに横たわり、天井の染みを見つめる。

 そもそもなぜ、勤めていた銀行を辞めたのか?

 理由はいろいろある。だが、最終的に辞職を決意させた理由はひとつだった。

 新藤正也──。

 四年後輩の正也が、同じ部署に異動してこなかったら、おそらく今ごろはまだ喧騒の飛び交う店内で、うんざりしながらも伝票や書類の山と格闘していたことだろう。

 新藤正也は、銀行員にしては甘いマスクの、おしゃれな青年だった。女子行員にもファンが多く、あさ美が所属する法人営業部に異動になると噂が流れるなり、部の女性たちから黄色い声が飛んだ。

 男子行員は当然、面白くない。団塊ジュニア世代のおじさんたちの中には、正也に対し、露骨に厳しく当たる者もいた。運が悪いことに、正也の上司になったのは、そんなタイプの嫉妬深いおじさんだった。

 坪井次長は、事あるごとに正也を呼び出した。デスクの前に立たせ、ガミガミるので、オープンスペースにいる行員全員に丸聞こえだった。

 正也は器用なタイプではなかった。上司に相談してから動くべき時に、やみくもに突っ走ったりするから、格好のターゲットにされた。

「まったく、何度言ったらわかるんだ! お前の脳みそがどうなっているのか、一度頭をかち割って、中を覗いてみたいよ」

 聞こえよがしに暴言を吐かれ、正也はすっかり意気消沈していた。

 ある日、正面のデスクに座っている正也が身を乗り出してきた。

「細野さんって、坪井さんと長いんでしょう」

「まあね」

 気難しい坪井のアシスタントを、四年前からやっていた。

「お忙しいところ、先輩にこんなこと頼むの、本当に恐縮なんですが、坪井さん対策をご教示願えませんか」

「対策って言われても、特別なものなんかないよ」

「いえ。細野さんは上司の扱いが、メチャうまいですよ。ぜひ、その技を伝授頂けたらありがたいです」

 ひそひそ声で会話する二人に、女子行員たちが目ざとく反応した。

「教えてあげてもいいけど、ここじゃ無理」

「わかりました。それなら──」

 昼休みに駅前で待ち合わせすることにした。五分遅れで現地に到着すると、正也が白い歯を見せ、大きく手を振ったので、思わず辺りを窺ってしまった。どこに同僚の目があるか知れたものではない。

「東口にいい店がオープンしたんですよ。うちの人間はまだ見かけませんから、落ち着いて話せます。行ってみませんか?」

 北アフリカ料理の店だった。スパイスの利いたクスクスを食べながら、乞われるがままに話した。坪井次長の性格。仕事上では何を重要視するのか。嫌いなこと、好きなこと。部下のどういうところを見ているか……。

「すごいっすね。細野さん、さすがだ」

 正也がカバンの中からノートを取り出し、メモを取った。作りたてのクスクスが、手つかずのままどんどん冷めていく。

「もう、こんな時間だ。あたし、行かなくちゃ」

「本当だ。今日はどうもありがとうございました。助かりました」

 正也が立ち上がり、深々と頭を下げた。

「よしてよ。腰、折り過ぎだから」

 正也はそのまま外回りを続け、あさ美は店に戻った。いつも一緒に食事をする女子グループに、どこへ行っていたのかと訊かれたが、高校時代の同級生とランチをしていたと噓をついた。

 坪井次長の対処法を伝授したにもかかわらず、相変わらず正也は怒られ続けた。

「すみません。またアドバイスいただけませんか」

 憔悴しきった正也を不憫に思った。今度は昼ではなく、夜に付き合うことにした。

 港の見えるおしゃれなラウンジで、シャンパンを一本空けた。大型融資を一件まとめてきたのに、坪井が行内手続きの不備を理由に、あれこれいちゃもんをつけてきたのだという。

「自分的には、今までで一番大きなディールを成功させたんだから、褒められたい気分なのに、坪井さんときたら──」

「わかるよ。あの人、理不尽だからね」

 あさ美も坪井の愚痴を言った。坪井とは表面的にはうまくいっているが、それは多大なる妥協の産物だ。ストレスが溜まらないわけがない。

 その日は久しぶりに酔ってしまった。足元がおぼつかなかったので、正也に支えられて歩いた。正也は何度も「飲ませ過ぎちゃって、すみません」と謝った。こんなに酔っぱらった自分が恥ずかしかった。

「でもちょっと安心してるんです。細野さんも、ぼくと同じように上司には頭にきていることがわかったから。今後とも引き続き相談に乗ってください」

 これがきっかけで、二人だけの秘密の飲み会が始まった。最初のうちこそ、坪井のことだけを愚痴っていたが、そのうちに日銀や大手都銀から天下った役員のていたらくや、不透明な組織運営なども指弾するようになった。

「まったく、とんでもない銀行ですよね。ぼくらみたいな人間のことを、世間じゃ社畜って呼ぶんでしょうね」

「あたしたちの世代が、もっと風通しのいい組織になるよう、変えていかないと」

「そうです! おっしゃる通りです。いやあ、細野さんと話すと楽しいなあ。ぼくたち、同じ価値観を共有してますね」

 帰りのタクシーの中で、手を握られた。降りる間際に唇を奪われた。

 同期の男性の中には、正也のことをよく思っていない人間がいた。

「あいつ、外回りん時、パチスロで時間潰してるって有名だから」

「小さな取引先の前では、うちが金貸してやってるから潰れないんだぞって、露骨にデカい態度取るみたいだな。結構嫌われてるよ」

 様々な雑音が聞こえてきたが、あさ美は真に受けなかった。みんな正也に嫉妬している。素顔の正也は、不器用だが表裏の無い純朴な青年だ。

 飲み会デートを重ねているうちに、いつしか正也との将来を夢見るようになった。二十代が終わるまであと数ヶ月。結婚するなら今しかないと、焦っていた時期でもあった。

 元々年下に興味はなかったが、年齢にこだわり過ぎても婚期を逃がす。世間では姉さん女房とうまくやる男もいる。

 とはいえ相手はまだ大学生といっても通用するほど、プルプルの肌をした青年。一方、あさ美の肌は年相応に疲れていた。目じりのしわや、ほうれい線も目立った。

 安くはないコラーゲンドリンクを一日三本飲み、顔面ヨガとリンパマッサージを毎晩寝る前に行った。洗顔後には化粧水、二種類の美容液、乳液、クリームを順に塗り、完璧なスキンケアを心がけた。

 あさ美と正也の密会は、いつの間にか行内の噂になっていた。二人で横崎の繁華街をうろついているところを、同僚の行員に見られたらしい。

 とはいえ波紋は広がらず、女子行員たちから嫉妬の眼差しを向けられることもなかった。なんとも複雑な心境だった。

 そんなある日、正也が婚約したというニュースが流れた。

 相手は本店の事務局に勤める、新人行員。まだ二十一歳の、花音というメルヘンチックな名前の子だ。くやしいけど、あの子なら仕方ない、と怖いお局さんたちも白旗を揚げるほど美しい女だった。

 聞くところによると、四ヶ月前から付き合っているという。ちょうど、あさ美が正也と秘密の飲み会を始めた時期とかぶっていた。

 最初から自分のことなど、女として見られていなかったらしい。ならばなぜ、手を握ったりキスをしたりしたのか──。

 ひそひそ声や、好奇の眼差しを感じた。お前は何を勘違いして、婚約者がいる年下の男と二人で盛り場をうろついていたんだと、あざ笑われているような気がした。

 正也が大きなミスをやらかして、坪井から大目玉を食らった日の晩、性懲りもなくまた秘密の飲み会に誘われた。

「ったく、坪井のヤロー、ほんと、いい加減いなくなってくれないかな」

 ガミガミる坪井も坪井だが、同じ過ちを繰り返す正也も正也だと思った。

「あれ? 細野さん、今夜はあまりフォローしてくれませんね」

 正也はいつになく酔っぱらっていた。坪井に怒鳴られたことが、よほど頭に来ていたらしい。

「フォローしてるよ。だけど、気を付けるところは、付けるべきだと思う。教えたじゃない。坪井さんは、ああいう書類の不備を見つけると、激高するって」

「なんだ、先輩として説教ですか?」

 正也はワインの残りを飲み干し、ふーっと息をついた。

「細野さんも結局、どうでもいいことで怒るおじさんたちと、大して変わりがなかったわけだ」

「どうでもよくなんかない」

 正也をじっと見据えた。

「ところで、婚約したんだってね、おめでとう。人づてに聞いたのがちょっと残念だったけど。なぜ、言ってくれなかったの」

「言うつもりでいましたよ。今晩あたりにね。ああ──」

 合点がいったように、正也がうなずいた。

「なぜ今晩は細野さんがぼくに意地悪なのか、わかったような気がします。つまり、あのことでしょう」

 正也があさ美の瞳を覗き込んだ。

「なんていうか……して欲しそうな顔してたから。二回目も三回目も同じ顔してたんで、帰り際に手を握って、キスするのが習慣になっちゃった。あっ、でもお世話になってるって意識はありましたから、お礼の意味も込めたんですよ」

 椅子を引いて立ち上がった。外国の女なら、手にしたグラスの中身を男の顔にぶちまけ、カツカツとヒールを鳴らして立ち去っているところだ。

 翌日、辞表を提出した。銀行側は引き留めたが、あさ美の決意は固かった。前から辞めたいと思っていたのだ。正也の一件は、いい引き金となった。

 母は「まったく何考えてるの! 親になんの相談もしないで、勝手に銀行を辞めるなんて!」と、怒りを露わにした。仕事の虫だった父にも、怒鳴られるかと覚悟したが、何も言われなかった。父の女性化、ソフト化が着々と進行していたおかげだろう。

 辞めてからは、一ヶ月くらいは何もせず、フラフラしていた。温泉旅行に出かけたり、アメリカンドラマのDVDを数時間ぶっ通しで観続けたり、ミステリー小説を徹夜で読んだり──。

 しかし、何もしないでいることにも程なく飽きてきた。元来貧乏性なのだ。

 とはいえ、もう以前のような会社員に戻るつもりはなかった。熟慮した末、夜の仕事にトライしてみようと思い立った。昼間のOLに戻ったところで、せいぜい不安定な契約社員の仕事しかないだろう。どうせまた、わがままおじさんの世話を任されるだろうから、同じことを夜の世界でやって高給を得る方が利口だ。

 ところが現実は甘くはなかった。面接に行った横崎のそこそこ名の知れたキャバクラでは、門前払いも同然に追い返された。帰り際にキャストの控室を盗み見て、まあ仕方がないのかも、とため息をついた。控えていたのは、アイドルと見まがうばかりの、はちきれんばかりに若くて美しい女たちばかりだった。

 物の本によると、夜の仕事の偏差値は年々高くなっているという。昼の仕事のほとんどが、薄給で不安定になってしまったため、腹をくくって夜の世界に足を踏み入れる女が後を絶たないらしい。

 最初の店より格下の店の面接を数件受けたが、全部落とされた。最終的にあさ美を受け入れてくれたのが、場末の激安店「濱乙女」だった。他店に比べ時給は安いが、歩合制なので、指名が入ればそこそこの見返りをもらえる。

 濱乙女に勤め始めて一ヶ月でナンバー入りし、三ヶ月でナンバーワンになった。坪井次長のおかげだ。飛び切りわがままでプライドの高い上司に、四年も仕えてきたのだから、キャバクラの客などちょろいものだった。

 客観的に見れば、転職に成功したといえるだろう。だがあさ美の心の渇きがこれで治まったわけではなかった。

 週末の渋谷は、若い人たちでごった返していた。

 正直、ごちゃごちゃしたこの街はあまり好きではなかったが、観たい映画を今の時期にやっているのが、渋谷だけだったので妥協した。

 渋谷で知り合いと合流するほとんどの人間がそうするように、ハチ公前で待ち合わせをした。ハチ公像が見えないほどの黒山の人だかりの中で、落ち合うことができるか不安だったが、小林邦彦は目ざとくあさ美を見つけ、控えめに手を振った。

 手をつなぎ、映画館まで歩いた。バター醬油味のポップコーンを買い、前から三列目の座席に陣取った。二人とも近眼なので、スクリーンには近い方がいい。

 メジャーではないフランス人監督の映画だったので、土曜日なのに人影はまばらだった。とまれ、あさ美はこの監督の作品が嫌いではなかった。マニアしか知らないような監督を邦彦も知っていたので、今度一緒に観に行こうと約束した。

 映画は退屈だったが、まあこんなものだろうと思った。映画館を出て電車で横崎まで行き、馴染みのすし屋に入った。邦彦と同伴出勤をするのは、今日で三度目だ。生ビールを注文し、乾杯した。

 新鮮なマグロやサーモンに舌鼓を打っているうちに、そろそろ出勤の時間となった。

「あのさあ、おれ、実はさあ……」

 邦彦が冷酒をグビリと飲み、口許を引きしめた。いつになく酔っている。

「三栄商事じゃないんだよ、勤め先は」

 三栄商事は、日本で三本の指に入る総合商社だ。学生の人気企業ランキングでも毎年十位以内に入っている。

「おれの本当の就職先は、三栄インポート。商事じゃなくてインポートなんだよ」

「どう違うの」

「インポートは商事の関連子会社だよ。輸入専門で、扱っている商品はヨーロッパの高級食材だけ。小さな会社なんだ。ほんと、米つぶみたいな会社なんだ、商事に比べれば」

「そろそろ出る?」

「出てもいいけど、あんまりうるさいところには行きたくないな」

「お店がうるさいのは仕方がないよ」

「だったら別のところに行こう。二人だけで落ち着ける場所がいいな」

 あさ美はフンと鼻を鳴らし、スマホをバッグから取りだした。店に電話をかけ、今晩は休むと告げた。

「いいよ。話はついたから」

 邦彦が驚いた顔をしていた。

「本当にいいの?」

「いいよ。さあ、行こう」

 店を出て、タクシーを捕まえた。

 ベッドの中で邦彦があさ美の肩を抱いた。

「枕営業って、やっぱりあるんだな」

「あたしは枕営業なんかしたことないよ」

「じゃあこれはなんだ」

 邦彦の鼻息が耳にかかった。

「さあ」

「枕営業じゃないのか」

「さあ」

 邦彦は苦笑いし、起き上がった。裸のまま、備え付けの冷蔵庫まで行き、中から缶酎ハイを二つ取りだした。一つをあさ美に渡し、プルトップを引いて、ごくごくとあおる。

「ねえ、なんでさっき、商事じゃなくてインポートだって言ったの?」

「えっ? おれ、そんなこと言ったか」

 邦彦がベッドの縁に腰かけた。

「言ってたよ。何だか悲壮な顔して」

「まいったなあ、酔っぱらってたからなあ」

 ガリガリと頭を搔いた。

「どう思った?」

「何が?」

「おれが実は三栄商事じゃなくて、三栄インポートに勤めてたことを知って」

「あなたが三栄商事に勤めていたことさえ、とっくに忘れてた」

「そうか……そんなモンだよな」

「うん。そんなモンだよ」

 あさ美はベッドから起きて、バスルームに向かった。

 邦彦の趣味は映画、演劇鑑賞、読書……。乱読だがミステリーが一番好きらしい。クラシックや流行のJポップも聴く。ゴルフはたしなみ程度にするが、好きなスポーツはテニス。但し、忙しいのでコートにはご無沙汰している。アートに詳しい。印象派の展覧会は外さない。グルメではない。食べ物のウンチクを語るのを嫌う。贅沢を言わず、何でもモリモリ食べる。

 趣味といえば競馬とパチンコと酒と、女の尻を撫でることくらいしかない濱乙女の常連の中で、異彩を放っていた。

 初めて店を訪れたのは、昨年暮れ。四、五人のグループでやって来た。取引先との忘年会の流れだという。無礼講で騒ぐ客たちの世話に追われていたので、テーブルの端で静かに酒を飲んでいた邦彦のことなどまったく忘れていた。

 年明けにふらりと一人で店に来て、あさ美を指名した。酔っ払いをうまくあしらっていた姿に見惚れたという。静かに酒を飲み、時おりため息をつくような男だった。あさ美もあえてしゃべらず、一緒に古くなった店のミラーボールをぼけっと見つめながら、ちびちびとバーボンを舐めた。

 その後も邦彦はちょくちょく店を訪れた。慣れて来ると、徐々に会話が弾むようになった。共通の趣味があることを知ってからは、「大切な客」に昇格した。下卑た客の接客に奔走する中、邦彦と過ごす時間はあさ美にとっても癒しとなった。

 印象派絵画展が横崎国際美術館で催される話で盛り上がり、初めて店外デートをした。店外は極力避けていたあさ美だったが、邦彦だけは例外だった。二人で、モネやシスレーのことを語りながら絵画を見て回るのは楽しかった。展覧会の後は食事をし、店に行った。同伴出勤というやつだ。

 二度目の店外デートは、テニス。あさ美は学生時代テニス部にいたので、腕には自信があった。邦彦は思っていたより下手くそだった。打ち損ねたボールを必死になって追いかける後ろ姿が可愛いと思った。テニスの後も同伴出勤した。

 そして三度目の今回、初めて親密な関係になった。

 小林邦彦は「大切な客」からさらに昇格したが、何になったのかは、まだあさ美にもわからなかった。

 まひろから電話がかかってきて、店を辞めたいと相談された。

 今から会いたいというので、PORTみらい駅前で、午後三時に待ち合わせをした。まひろは、十分遅れで改札に現れた。ゼブラ柄のミニスカートに、おへそが見える短いトップスと、今日もド派手な身なりをしている。

「寒くないの?」と思わずまた訊いてしまった。「平気っす。若いですから」と定番の答えが返って来た。

 スタバに入ってホットティを頼み、席に着いた。まひろは、キャラメルマキアートとバナナクリームパイを注文した。

 口の周りをクリームだらけにして、まひろが話し始めた。濱乙女では、触られまくっている。まるで痴漢電車の中にいるみたいだ。痴漢なら警察を呼べばいいが、キャバクラではそうもいかない。もううんざりだ。これ以上みじめな思いをしたくない。

「うん。わかる。わかるよ」

 自分がもしそんな扱いを受けたら耐えられない。まひろが不憫だった。

「店長に相談した?」

「したけど、のらりくらりとかわされてます。あたしの太もも触りたがる客のおかげで、店の売り上げが伸びてるわけですから」

「あたしのほうからも、言ってあげようか」

「いえ。もう、いいんです。それよりあたし、あることに気づいたんですよ。すっごい発見です。コペルニクスクラスの大発見です。今までなんで、こんな単純なことに気づかなかったんだろうって」

 まひろは、セクキャバに転職したいと言い出した。セクキャバとはセクシーキャバクラの略。つまりお触りOKのキャバクラである。

「何で頭来たかって、ずっと考えてたんです。そしたら、サービス内容に含まれていないことされるのが、一番頭くる理由だってことに気づいたんです。お前ら、ルールちゃんと守れよって、ホント、客に言ってやりたい。でも、セクキャバ行けば、そういうストレスはなくなるじゃないですか。触らせるのが仕事なんですから。触らせればちゃんと、金貰えるわけですから。おまけに濱乙女なんかより、よっぽど稼げるんですよ」

 本当にそれでいいのかとあさ美は問い質した。

「理想形じゃないっすけど、その辺は割り切りじゃないのかと。あさ美さん、どう思いますか」

「まっひーの人生だから、とやかく口出ししたくないけど、あたしはやっぱり、止めたほうがいいと思う」

「どうしてですか?」

 まひろが目を剝いた。あさ美には後押ししてもらいたかったのだろう。

「いったんそっちに行っちゃうと、どんどん過激な方向に走っちゃうような気がするから」

「キャバクラだって、昼の世界とは違うじゃないっすか。あたしたち、もうすでに行っちゃってるんですよ」

 確かにそうかもしれないが、あさ美としてはここが最終ラインで、超えるつもりはない。

 結局まひろは店を辞めていった。代わりに入店してきたのが、瞳という二十歳を超えたばかりの女だった。小さくて細くておどおどしている。四六時中緊張していて、あさ美が目の前を通るたびに、サッと腰を折った。

「あたしは女王様じゃないんだから、そんな丁寧なお辞儀、する必要はないよ」

 優しく諭したが、ブルブルと首を振る。やや飛び出した目と、二本の大きな前歯がまるでげっ歯類のようだ。

「ナ、ナンバーワンの方ですから。尊敬してます。凄いです」

「凄くなんかないよ」

「いえ、あたしなんかにしてみれば、もう神様みたいな人です」

 瞳がヘルプで同じテーブルについたことがあった。ガチガチに緊張していて、まるで接客になっていなかった。客から話しかけられても「はい」としか答えず、会話が続かない。客は五秒で興味を失い、背を向けた。瞳は誰も気に留めない棒切れのように、ソファに置き去りにされた。

 客ばかりでなく、キャストも瞳を露骨に無視するようになった。あの子と一緒のテーブルにつくと、場が暗くなるからNG、と忌避するキャストも一人や二人ではなかった。

 見かねたあさ美が、もっとリラックスしなさいと注意したが、しているつもりなんですけど、と小さな声で答えた。

「そもそも、なんでこの仕事を始めようと思ったの?」

「実はあたし、結婚してるんですけど、ダンナがクビになっちゃって、ともかくお金稼がなくちゃいけなくて。家、買っちゃいましたから。ローン残ってるし」

「家を買ったの?」

「はい。鶴目区のほうに」

 鶴目はここからなら電車で十五分ほどで行ける。昔ながらの風情が残る、庶民の街である。

「中古の戸建てです。不動産屋さんに掘り出し物だって勧められました。今月中に契約しないと、別の人に取られるかもしれないって」

「失礼だけど、ご主人いくつ?」

「二十六です」

 その若さで戸建てを買うとは、英断をしたものだ。とはいえ正也も、二十代後半で新居を構えた。

「ダンナは技術者で、正社員の仕事探してるんですけど、なかなか見つからないんです」

「苦労してるんだね」

「ですからダンナが仕事見つけるまで、あたしが気張らなくちゃいけないんです。ここ、クビになったら、もう行くとこありませんから」

「肩の力を抜いてやれば、いずれ慣れるよ。最初はみんな緊張してるから、一緒」

 とりあえず励ましたが心配だった。

 ある日、出勤したばかりのあさ美に、瞳から連絡が入った。欠勤の報告かと思いきや、そうではないらしい。とはいえ、はっきり物を言わないので、何のために電話してきたのかよくわからない。

「駅にはいるってことなのね? どうしたの? 気分でも悪くなった?」

「いえ、気分が悪くはないんです……ただ、ちょっと」

「お店には来れないの?」

「行きたいんですけどぉ、果たして行っていいものかと……」

 電話ではらちが明かなかった。スタッフに断って、最寄りの駅にいる瞳を迎えに行った。

 改札の脇で瞳は待っていた。生まれたてのような小さな赤ん坊を抱いている。あさ美の姿を認めると「ごめんなさい、あさ美さん」と悲壮な顔で頭を下げた。

「ダンナが、仕事に呼ばれたんです。夜のシフトに欠員が出て、緊急だったみたいで。断れなくて。もしかして正社員で雇ってくれるかもしれないところでしたし、その会社のこと、とても気に入っていましたし。普段はダンナがひまりちゃんのこと、面倒見てくれてるんですけど、他に誰も見つからなくて。でもお店、休めないし。もうどうしていいかわからなくなって、連れてきちゃったんです。どうしましょう……」

 すがるような瞳で見つめられた。とりあえずお店に行こう、と答えるしかなかった。

 ひまりちゃんを抱いた瞳が店に現れるなり、スタッフやキャストが、いっせいに振り向いた。

「おいおい、これは……」

 奥から店長が出てきて、瞳と赤ん坊に目を丸くし、あさ美に視線を移した。瞳を着替えに行かせ、店長の腕を取って店の隅に連れていった。

「今回だけ、認めてあげてください」

「しかし、もし何かあったら、店は責任持てんよ」

「持つ必要ないですから」

「だけど、あんなに小さな赤ん坊じゃないか。誰が面倒見るんだ」

「店で面倒見るんですよ」

「いや……それはちょっと無理なんじゃないか」

「じゃあ、あたしたちで面倒見ますから」

 勝手に口をついて、威勢のいい台詞が出た。とはいえ、具体的にどう面倒を見ればいいのか、良案があったわけではない。

 更衣室に入ると、キャストたちが瞳を取り囲んでいた。百五十センチほどしかない小柄な瞳は、女たちの背中にすっぽりと隠れていた。

「ちょっと、どうしたの」

 金髪で大柄な女が振り向いた。店ではナンバー3のじゅんなだ。

「こういうことして、いいんですか?」

 じゅんなが眉を吊り上げる。

「理由があったんだよ」

「あたしだって、息子いるんですよ。でもお店には連れて来れないから、出勤の日には近所に住んでる姉にあずかってもらってるんです。いくらお姉ちゃんとはいえ、気ぃ遣います。向こうにだって小さい子ども、二人いるし」

「あのお……あたしにも、二歳の娘がいます。保育園なんていつになったら空くかわかりませんから、実家に預けてます。ここから電車で一時間半のところです」

 声を上げたのは、ナンバー6と10の間をうろちょろしているさりなだ。濱乙女には、他にもヤンママがいる。十代の頃できちゃった婚をし、その後亭主に逃げられたシングルマザーも多い。彼女たちからしてみれば、子どもの面倒を見てくれる夫がいるだけでも、幸せということなのだろう。

「ともかく、お店始まるから。みんな、準備して。仕事終わったらまた話そう」

 女たちはブツブツ言いながら、着替え始めた。瞳は控室でひまりちゃんをあやしていたが、お呼びがかかれば、テーブルに着かなければいけない。控室には常時二〜三名のキャストがいたので、瞳が仕事の時は、彼女たちが預かった。

 不安だったが、どうして、女たちはよくひまりちゃんの面倒を見た。多くが育児真っ盛りの現役世代だ。要領を心得ている。

 大泣きするので、困惑していると「あさ美さん、かして」と女たちがひったくり、ゆさゆさ揺らし始める。

「いないいない、ば〜っ」

 大口を開け、顔面を近づけるや、ひまりちゃんは、きゃっきゃっきゃっとうれしそうに笑った。接客ではナンバーワンのあさ美も、育児では立つ瀬がない。

 何とか一日を乗り切り、瞳はキャストやスタッフに深々と頭を下げ、帰って行った。

 ところが翌日も瞳はひまりちゃんを連れて来た。

「しばらくの間、夜のシフトでやってくれっていわれたみたいで。今はバイトですけど、働きがよければいずれ正社員にするからって。正念場なんです。あたしも、応援したいって思うし」

 瞳がハツカネズミのような目を、ウルウル震わせた。

「でもねえ……」

 亭主の都合を優先させ、こちらにしわ寄せを持って来られても困る。

「ダンナさんが仕事始めたんなら、こっちの仕事は休めるんじゃないの?」

「いえいえ。バイトですから、給料、ぜんぜん安いし、家のローンも残ってるから、共働きじゃないと生きていけません」

「保育所とかないの?」

「家の近くに二十四時間営業の保育所ができることになってるんですけど、住民の反対とかがあって、なかなか進展しないみたいで」

 案の定、その後ぞろぞろと店にやってきたキャストたちから大目玉を食らった。

「また今晩もですか? うちは、キャバクラですよ。夜間託児所じゃないんです」

「ベビーシッターまでやれとは言われてないんで、特別手当、もらいたいんですけど。店長と交渉してくれますか」

 瞳がオロオロしながら、あさ美を見上げた。あんたの保護者じゃないんだから、いい加減にしなさいよ、と口もとまで出かかった。

「まあまあ、落ち着いてよ、みんな。連れて帰れとはいえないじゃない。またみんなで面倒見てあげようよ」

「じゃあ、あたしも明日、息子を連れてきますから」

 じゅんなが言った。

「あたしも、娘連れて来ていいですか?」

 あたしもあたしも、とあちこちから声が上がった。

「いいわよ。全員連れてきたら」

 ヤケクソ気味に答えると、じゅんなが「いい加減なこと、言わないでください」と眉根を寄せた。

「そんなにたくさんの子どもを受け入れられるスペースが、どこにあるんですか? ただでさえ狭いバックオフィスなのに」

「……」

 返す言葉もなかった。とはいえ、女たちはその晩も、ひまりちゃんの面倒を見た。赤ん坊に罪はない。店長があさ美を部屋に呼びつけた。

「このままじゃ、やっぱりまずいよ」

「本人に言ってくれませんか」

「おいおい、昨日はあれだけフォローしたのに、見捨てちゃうのか。もう赤ん坊を連れてこないよう言って聞かせるか、それがダメなら、キャスト同士でローテーションを組んで、事故が起きないようにきっちり世話をする体制を整えろ」

「あたしは総務部長ですか?」

「みたいなモンだろう。っていうか、これからはそういう仕事もしてくれ。お前は、この店のナンバーワンで、年長者だろう。給料、上げてやるから。そんなに上げられないけど」

 面倒なことは全部こちらに押し付ける腹づもりらしい。

 皆の善意を受けた瞳の接客ぶりは、相変わらずだった。女性らしいしなやかな身のこなしやエレガントさなど、微塵も感じられない。

「どうしてそんなに、いつも緊張ばかりしてるの。お客さんは、あんたのこと、取って食らったりはしないよ。この仕事、向いてないんじゃないの?」

 口調が知らず知らず、とげとげしくなっている。瞳は固く目を瞑り、何度も「ごめんなさい」と頭を下げた。

 気が付くとあさ美の客が減っていた。

 LINEでの、他愛もない連絡も途絶えた。理由はわからない。あれだけあさ美に執心だった、ツルツル頭の斎藤さんも、店には随分ご無沙汰している。

 邦彦ともしばらく会っていなかった。普段は自分のほうから連絡することはないのだが、思い切って電話をかけてみた。不在だったので、メッセージを入れた。数時間待ってもコールバックはなかった。

 しかたなくもう一度メッセージを送った。「なんだか近ごろ気が滅入る。寂しい。会いたい」。面映ゆかったが、心の内をさらけ出した。

 邦彦から返事は来なかった。

(続きは書籍でお楽しみください!)
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