岸田繁(くるり)さん、前田敦子さん、綿矢りささん…各界から絶賛の声! 映画監督・犬童一心の初小説が発売に! 試し読み公開。

単行本 - 日本文学

岸田繁(くるり)さん、前田敦子さん、綿矢りささん…各界から絶賛の声! 映画監督・犬童一心の初小説が発売に! 試し読み公開。

「ジョゼと虎と魚たち」「のぼうの城」を 手がけた犬童一心監督の初小説『我が名は、カモン』が発売となりました!

「トラブルですよ、加門さん!」大御所俳優、おさわがせ女優、伝説の劇作家……昼夜を問わず立ちはだかる難問奇問に、ベテラン芸能マネージャー加門慶多(かもんけいた)が挑む!

★各界からも感動の声!

芝居が天職!な人間たちの、究極にわがままで究極にエネルギッシュな物語。

――綿矢りさ

お芝居への情熱がとにかく熱いこの「世界」に私も巻き込まれたい‼

――前田敦子

 

お芝居の世界が少し羨ましくなるような物語。音楽の世界でもこういう物語あるといいなあ。

――岸田繁 (くるり)

 

★第1章の冒頭を公開します。ぜひご一読ください。

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1 不幸を治す薬は、希望だけ
「我が友、世界へ」第一幕
The miserable have no other medicine
But only hope
不幸を治す薬は、希望より他にはありません。
『尺には尺を』第3幕第1場

いったいなんだ?
このすべすべとした手触り、手の先にすっぽりと収まる妙に柔らかいもの。握るに返すこの気持ち良さフルスロットルの弾力、力を込めたらきっとつぶれてしまいそうなその固さはどこか危うく、じっとこのまま握りしめ、えも言われぬその感触を味わっていたい。
いったいなんなんだ?
まだ眼の覚めぬ夢と現のはざまで中村祥子(なかむらしょうこ)はもう一度それをそっと握った。
「ゆで卵だ」
と中村は心の中で呟き、何で卵?という疑問が頭をもたげる中、しだいに深い意識の底から懸命に浮かび上がり、すでに昇った朝日の中でベッドの上に昨日のスーツのまま化粧も落とさずうつ伏せでうんと差し伸ばしたその手の先にゆで卵を大事そうに握ったまま横たわっている自分に気づいた。そして「さいあく!」と心に吐き捨て、でも、いったい、いったい、なんで、
「なんで、ゆで卵⁉」今度はほんとうに声に出して言った。
ワンルームのしんとした部屋の壁にその言葉がゆっくりと染み込んで行く。誰に尋ねるともなく声に出し結局自分に尋ねているわけだが、それに答えようと、握った卵を顔に近づけ寝ぼけ眼(まなこ)でまじまじと眺めてみる。
そうだ、新商品のキャンペーンが大きな広告賞を受賞して、昨日はそのお祝いのパーティーだった。そして、クライアントとの二次会、最後に担当営業だけの打ち上げと続いた。
中村は、皆に、笑顔を求められるのが常で、それに応えて愛想を振りまき続けるうちに、とうとう楽しさマックスに至りいつものごとくとんでもなく飲みすぎた。
中村は必死に記憶の断片をかき集める。この手に今あるのは、酔っぱらいゆえに抑制が利かず、どうしても食べたくなりコンビニで買ったおでんの卵だ。昨日の夜中、いや、すでに朝方だが、タクシーをふらふらと降り、「どうしてもおでんが食べたいの!」などと架空の誰かに甘え、一人マンション前のコンビニに行き、ろれつの回らない言葉で店員に嫌がられつつ注文をするスーツ姿の髪の乱れた小柄な女の背中が浮かんだ。「ああ、そういえば、確かにはんぺんは食べたな」と、思い至り、ダイニングテーブルを見れば白いプラスチックのどんぶりがひとつ寂しく佇(たたず)んでいる。はんぺんのあと、きっと、卵を食べようとして眠くなり、その卵を持ったままベッドに向かい、たどり着くのがせいいっぱいのところで事切れた。不思議なもので、寝落ちしながらも必死に手を差し伸ばしゆで卵を守ったのだ。
朝日に浮かぶほんの少し茶色く色づいた卵を眺めていると、「なんで、あたし、こんなことしてんだろう」という気持ちが芽生え始める。中村はちょっと悔しくなる。悔しくなって、吹っ切るように卵をひとかじりする。「うまい」と思うが、と同時に黄身にむせてしまい、水を求めてはねるように立ち上がった。

それから、三月(みつき)して中村は会社を辞めた。
あの朝、卵を見つめたときに生まれ始めた「なんで、あたし、こんなことしてんだろう」という気持ちが消えることはなかったのだ。日々の刺激と慌ただしさの中であっさりやり過ごせるはずだったのだが、そう簡単にはいかなかった。
中村は、大学卒業後業界大手の広告代理店に入り営業職についた。営業を望んだわけではなく、クリエイティブを希望したがあっさりはねられたのだ。しかし、大学時代からつき合っていた恋人との別れ、その手ひどい失恋をのぞけば、日々おもしろく、充実した日々を送っていた。
就いた上司が上下の分け隔てのない楽しい人で、担当するクライアントも誰もが知る大手。共に働くクリエイティブの担当者たちは優秀で、常に世間の注目を集めるいわゆるいけてる広告を連発していて、学生時代の仲間にそれらを手がけている事を少し高揚した気分で、でもあたりまえのような顔で話す自分がいた。ときに同期から聞かされるセクハラ、パワハラ、不倫、イジメなど、ありがちな社内の理不尽とは無縁で、「あたしって、すんごいラッキーなんだな」と素直に思っていた。
だが、結局、あの朝をきっかけに消えることなく膨らみ続けた今いる場所への疑問、その何かが満たされないという自らの奥底に隠された正直な気持ちに気づいてしまった。中村は眠れなくなった。自分の気持ちを見つめるいくつもの夜を過ごした。
中村は思った。
「やっぱり私は芝居の世界に行きたい」
中村は、大学時代の四年、その時間を惜しみなく注ぎ込んだ演劇サークルにいたときの自分を忘れられずにいたのだ。
「どんなカタチでもいい、芝居の側にいたい」

その思いはつのり、それに抗うことはできなかった。

さらに、二年が過ぎた。
中村は、出勤時間の込み合った人の流れに身を任せ階段を急ぎ上がって、ホーム後方に向かった。まだ慣れぬこの路線、最近やっと、後部車両の方が込み具合が少ないと気づいたのだ。
広告代理店を辞め、明け暮れたバイト生活に別れを告げ、新しい会社に入って気分転換、大学時代から住み、慣れ親しんだ街を離れた。郊外に越してちょうど一月が経っていた。十月も半ばに近づき、混んだ電車内も随分と過ごしやすくなった。
乗り込んで、ドア横をうまく確保して、ふと見るとつり革に掴(つか)まり新聞に真剣に見入っている一人の中年男性が眼についた。ほとんどの乗客がスマホを見つめ、何やら各自指先を動かして、ときに揺れると慌ててつり革を奪い合うような中で、肩下げ鞄を斜めがけにして、折り畳んだ新聞を右手に持ち、左手はしっかりつり革を掴んだその揺るぎない姿勢はどこか、校庭に起立する二宮金次郎の銅像のように孤立し安定している。中村は迷ったが、決心して次駅の乗降のタイミングで近づき声をかけた。
「加門さん」
加門は「ん」と真剣な眼をしたまま顔を上げた。
「おはようございます」中村は代理店の営業職時代に身につけた会心の笑顔で小さく頭を下げた。
加門は、「あ」と声を上げ、一瞬中村の眼を覗(のぞ)き込み、やっと誰だか理解したのか、「中村か、どうした?」と聞いて来た。
「会社に行くんです」と言いながら、「このタイミング、どう考えてもそうだろ」と思うがそれは当然声には出さない。
シニア統括マネージャーの加門慶多。中村が、難関を突破して手に入れた劇団自由演技マネージャー職の大ベテランだ。組織図でいえば中村の随分と上の方というか、一番上のあたりにその名がある。
でも、ほんのりと出たお腹、薄くなりかけて良くわかるカタチの良いおでこ、名人の一筆とも言うべき下がった目尻等が人を安心させるのか、社内の誰もが気軽に加門に声をかける。が、入社したばかりの中村はまだ、どこか加門に臆するところがある。中村からすると加門はどうも掴みどころがなく、培った営業マンとしてのスキルをどう発揮すればよいかわからず、理由なく不安にさせられる存在なのだ。
中村、話題を探して、
「えっと、新聞」
「ん」
「真剣に読まれてますね」
「まあ、そうかね」
「はい。最近珍しいですよね、電車で新聞読まれる方」
「そう?」
時代が移り変わり、周りがスマホを覗き込む人ばかりとなっていることに加門は気づいていない。まったく無頓着に気づかぬまま、あたりまえのように新聞をただただ読み続けて来たのだ。中村が、加門にそのことを話すと周りを見回し、「たしかにそうだね」と笑ってうなずくが、本気で興味を示さなかった。中村は思う。広告業の世界ではこういう無意識過剰な人とあまり出会ったことがなかった。多くの人が世間と自分との距離を掴むことに夢中で、一度掴んだら手放さないことに必死だった。こんなふうにボンヤリとただ居る人は少ない。
「俺は、見出しから見出しの間に、ふと気づく記事が大事だったりするけどな」
「ああ」、中村は思わず声に出した。
実家を出てからあまり読んでいない新聞の感触が蘇った。ふと目に止まった記事をつい読み込んでしまい、それをきっかけに興味がわいて本屋に向かったり、テレビを見たり、一時、未知の世界について思いをめぐらせる。そんな行き先がわからないことの楽しさ。
「確かにそうですね」中村は、素直にそう思った。
加門は笑って「古い男になりました。鶴田浩二の気分だね」とおどけてみせたが、中村には鶴田浩二の名前から浮かぶこれといったイメージは特になく、うまくリアクションが取れない。
加門はその微妙な間をごまかすように、
「今日も、ほら」
と、右手の新聞を差し出した。
「読んでた記事の隣にさ、あったんだ」
中村が覗き込むと、そこには劇作家で演出家の宝来真治が急逝して、その過去を振り返る長い追悼記事があった。
「え、うそ」
「月曜の夜に亡くなったそうだ。今日発表された」
「だって、先週チケットを買ったばかりです。渋谷で毎年ある年末の新作フェス、トリが宝来真治で。『レベッカの夜』という作品を書いてるって」
記事には、「80年代の小劇場ブームとともに登場し、毎回絵画的な凝(こ)った装置と新鮮な音楽の使い方でマジカルかつスピーディに物語を語り、未だに若い世代にも支持され、観客を魅了し続けた。毎年10月から12月にかけて渋谷で行なわれる『新作フェス』、新作戯曲連続三公演のトリを飾る作品執筆中に急逝した」とあり、それに続き、数人の関係者の言葉があった。
加門、「享年56」という数字に人ごとでないという思いがこみ上げる。
「宝来さんは、うちの連中も随分お世話になってる。急だったな。執筆で缶詰になってたホテルで、深夜に」
記事を覗き込んでいた中村が、
「心臓麻痺って」
「うん、宝来さんは前から少し悪かったんだよね。机に突っ伏したまま亡くなっていた、とある。すでに親族で密葬をして、明日がお別れの会みたいだ」
言葉を失った中村に加門が尋ねた。
「好きだったの? 宝来さん」
「学生時代からずっと観てました。音楽や美術、出演者の衣装もいつも洒落てて、美しくて、それが鼻につくっていう人もいっぱいいましたけど、劇場に入ったら最後の最後までずっと夢心地にしてくれるってスゴイと思うんです」
中村の言葉に熱が入る。
「うん、スゴイと思う」
加門は、素直にうなずいた。
「ほんとですか」
「ああ、とても難しいことだよ」
「うれしいです。なんか」
「ほんとにがっかりだよ。もういないんだね。二度と観れないんだな宝来さんの舞台」
それぞれにかつての宝来の舞台が蘇る。その、舞台が終わったあとの夜の風までが吹き抜ける。
「あたし、今度のチケット、記念に取っておきます」
「中村は、舞台がほんとに好きなんだね」
中村が「ええ、大好きなんです」という気持ちをどう伝えようか、と一瞬考えたちょうどそのとき、乗り換えの駅に電車が滑り込んで行く。加門はあっと思う間にいつもの通勤客に戻ると、素早く新聞を畳み、斜めがけの鞄の外ポケットに差し込んだ。その動きのあまりの職人芸に、中村は何も言えなくなってしまった。

加門が会社に到着し、デスクで郵便物の整理をしていると社長の堂本公平から内線が入った。「ちょっといいですか?」いつもの小さな声がさらに小さい。
加門、嫌な予感に自然と足取りが重くなる。若社長の堂本は、三代目になる。先代に比べ気持ちの揺れが随分と表に出やすい。まだ、四十を超えたばかりと若いが、その若さだけが理由とは思えなかった。
ノックをして部屋に入る。窓外を見ていた堂本がゆっくりと振り返った。しかも、振り返る前に一拍置いている。「ああ、なんか面倒が起きたな。それもAクラス」と加門は覚悟する。堂本が、この刑事(でか)長ポーズで迎え、さらに一拍置くときは、相当な難題を抱えているときなのだ。
「滝川さんから、今朝、直々に連絡がありました」
「滝川さんかあ」と加門の胸の内に暗雲が広がる。同時に困ったことに滝川の雨なら飛び込みたいという衝動も湧き出してくる。
堂本が、妙に落ち着いて、世間話のように話し始めた。
「恒例ですよね、渋谷の新作フェスティバル」
「はい、今月の頭から始まってます」
「最近は、渋谷の風物詩にもなって」
「私もなんですが、演劇ファンは、あれが始まると、そろそろ年末かなと思うみたいです」
と、堂本が、いきなり爆弾を落とした。
「滝川さん、参加したいそうです」
「え」
加門、言葉を失う。
堂本の目には、すでにあきらめが宿っている。
「来年の話じゃありません、今年の十二月」
加門、今朝の新聞紙面を思い出し。
「ああ、もしかして、宝来さん」
「そうです。亡くなってしまって、トリを飾る作品が消えました」
加門、瞬時にその難事の重さを身体で量(はか)る。
トリということは十二月の頭に初日だ。あとひと月半。さすがに、無理だ。だいたい、宝来真治が亡き今、新しい台本はあるのか? 「新作フェスティバル」という以上再演はありえない!
支えきれず、ふらつきそうになる気持ちを立て直し、
「依頼は谷山さんからってことですか」
「ええ、フェスのトリに華が欲しい、何とかならないかと谷山さんが滝川さんに泣きついた。いや、相談されたらしいです」
「谷山さんに頼まれたら」
「滝川さん、断れないですから」
断れないではなく、断らないが正確だ。谷山の提案となれば、滝川は、何はともあれきっとおもしろくなると、ためらわずに飛び込んでいく。滝川、谷山の関係の深さは、加門にも計り知れないところがある。
「宝来さんの台本は」
「まだ一幕の半ばまで。あきらめるしかありません」
「あの人、筆が遅かったからな」
「前に、一度書き上げられないで、その公演が中止になったことがあります。今回も、ぎりぎりまで前の芝居があって、執筆開始が遅れたので連日寝ないで書いていたそうです」
「ああ」
自分はまだ若いという過信があって、心臓の持病を軽く見てしまったのか。いや、きっとそれだけじゃない。泳ぎ続けるサメと同じで、「止まったら死んでしまうんじゃないか」そんな、不安が作家や演出家を押しつぶすのだ。加門は、死なずとも、過度な仕事量が作家の才能を台無しにして行くのをずいぶんと見た。
堂本が、どこか他人事のように言った。
「一度自分のせいで公演を中止にしてしまった悪夢が、宝来さんを追い込んだのかもしれませんね」
堂本にすれば、宝来の死を悼(いた)もうにも、言葉に気持ちが伴わない。十二月頭には初日という短期間で、期待された宝来の代わりを用意せねばならない。すでにそのことで頭が一杯なのだ。とうとういつもの愚痴がこぼれた。
「谷山さんはずるいです。勝手に滝川さんに頼んじゃうからな。もう決まったことになってこっちに話が来る。マネージメントを完全に無視してる。ほんと、ずるい」

演劇プロデューサーの谷山隆治は、元自由演技の役者で、滝川の五期後輩にあたる。役者としては芽が出ないと早くに見切りを付け、制作に回り、数年を経て自由演技から独立、フリーの演劇プロデューサーとなった。フットワークの軽さ、持ち前の明るさ、演劇への熱意、そして、加門は一番思うのだが、その平気で馬鹿になって不可能と思えることも口にできる才能のおかげで、演劇界の中心的なプロデューサーとして名を馳せていた。
谷山は、一昨年行なわれた滝川大介シェークスピア連続上演の首謀者でもある。滝川にとっては盟友だ。「リア王をやりたい」と言った滝川に、「やるなら、シェークスピアを一遍に三つやりましょう」そうそそのかしたのは谷山だ。確かに、客はそれを聞いた途端、果たして滝川はやり遂げられるのか?という別の高揚が生まれる。加門は感心した。要は、やる方がいかに真剣か、ときに命がけだということをわかりやすく示すことで、人は心を動かされ集まってくる。事実、連続公演が終わったあとの滝川は心身ともにぼろぼろで半年は何もできなかった。ただ、不思議なもので、そんな場所を常に求めているのが「滝川大介」なのだ。滝川はまた谷山の誘いにそそのかされようとしている。
「滝川さんは、十一月に地方で映画の紅葉ねらいのロケを一週間押さえられてます。でも、内容からすれば実際は二日もあればすむと思います」
「大丈夫ですか? 撮影は延びたりしませんか?」
「雨がちょっと怖いんですけど、でも監督が横山さんですから」
「あ、そうか。あの人、ロケは粘らないから」
「ええ、スケジュールはなんとかなると思います」
「まず加門さんにお願いしたいのは、今日の夜、谷山プロデューサーと滝川さんの話し合いがあるそうです。そこに出席してください。私は劇場関係者と会って興行側の意見を聞いて来ます」
「はい」
「わかってると思いますが、もし、あの二人の話が変な方向に行ったら、必ず止めてください」
堂本の目は真剣だった。

中村祥子はまだ、入社したばかりで担当の俳優やタレントはいない。デスクでパソコンに向かい、先輩マネージャーに頼まれた新人たちのプロフィールの修正をしていた。最近の出演歴、これから先の情報など、渡されたメモの内容を打ち込んで行く。
宝来の亡くなったショックが尾を引いて、仕事は、あまりはかどっていなかった。その手を動かしながら、ぼんやりと宝来の芝居を反芻(はんすう)してしまう。
中村はとくに宝来の音楽劇が好きだった。必ず生バンドが演奏していたし、ときに役者も自ら楽器を手にした。必死の練習を微塵(みじん)も感じさせない見事な演奏シーン、その魅惑の音色とともに舞台は記憶された。
芝居が終わってロビーに出ると、そこでも客を見送るためにバンドが揃(そろ)って演奏を続けていた。その遠去かる音色、そのメロディとともに夜の街に出るときを中村は愛した。終わって行く一日を慈(いつく)しみ、今この夜がロマンチックに色づくのを感じた。大学時代、つき合い出した男と初めて結ばれたのも宝来の芝居のあとだった。あの日の夜は、自分の身体の中にずっと残って行くに違いないと思えた。
うっとりと記憶に浸っていると、社長室から真っ赤な顔で出て来る加門に気づいた。興奮しているのが手に取るようにわかる。扉の前に思案顔で佇み、二、三度首を回すと、何やら小さな声で気合を入れ自分の机へと向かった。いったい何が始まるというのか? 気になりつつも、下っ端の私には関係がないと再び仕事に戻った。と、五分もしないうちに、
「中村さん」と背中から声がかかった。
「あ」とびっくりして振り向くといつの間にやら加門が笑顔で見下ろしている。
「ごめんごめん。ちょっとさ、伝えておこうと思って。今朝話した渋谷の新作フェス、十二月は亡くなった宝来さんの新作をやるはずだっただろ、そこを自由演技で埋めることになった」
「え」
「滝川さんが出る。で俺が担当」
中村は、ついさっき電車でした世間話がこんなカタチで続くことに驚いた。そして、ああ、そうだ、今自分は劇団自由演技にいるのだと我に返る。
「なにをやるんですか?」
「これから、決めてくる」
「これから? あと」
中村は指を折って残りの月を数えようとしたが、二つ目を折ろうとして止まった。折れる指はひとつだ。
「え、ひと月半?」
そして、止まったまばたきのまま加門を見た。
「そう、今日から休みなし」
中村、ただ、「すごい」と呟き、頬(ほお)に赤みが差した。
中村の高揚した顔を見た加門、その目が鋭く光り、
「あのさ」
「はい?」
「頼む。手伝って」
「え」
「まあ、中村さんしか空いてないってのもあるけど。本気で好きそうだから芝居。そんな人じゃないと無理そうな仕事なんだ」
響いた。嬉しかった。「この瞬間を私は待っていたんだ」。中村は、この三年探し続けていたものにとても近づいた気がした。
「寝られない夜がいっぱいあると思うけど」加門が申しわけなさそうに言う。
寝られないのはいい、眠れない方がずっとつらいことをすでに中村は学んでいた。
「はい」中村は笑顔で静かに答えた。

(続きは書籍でお楽しみください。)

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著者

犬童一心

1960年、東京生まれ。映画監督、CMディレクター、脚本家。監督作品に「ジョゼと虎と魚たち」「メゾン・ド・ヒミコ」「黄色い涙」「眉山」「のぼうの城」など。脚本作品に「大阪物語」「黄泉がえり」など。

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