単行本 - 日本文学
担当編集者が語る、『成功者K』は事実かフィクションか
羽田圭介
2017.03.30
ゆっくりと変わってくれれば対応できることも、それが一瞬の変化となれば、心がついていくものではない。人間を変化させる要因はさまざまだが、中でも芥川賞というものはこれがなかなか強敵だ。受賞したことで期待したほどの変化のないケースの方がむしろ多いのだが、一方であまりに過酷な変化を被るケースもある。綿矢さんや金原さんの人生に訪れた変化を考えてほしい。又吉さんの場合、相方の人生が変わってしまった。
これは芥川賞を受賞したことをきっかけに人生が激変してしまった作家の物語である。
本書はバウンドプルーフという、CDにおけるサンプル盤のようなものを作って事前に希望する書店員さんに配布して読んでいただいたのだが、その反響がすさまじく、驚かされた。
「あまりにも衝撃的」「本当にフィクションですか?」「精神から巻き込まれました」「めちゃくちゃ笑ったあとに、不安に突き落とされました」「夢を見ていたような気分にさせられました」……
といった反応はほんの一部で、いただいた感想コメントの数の多さにまず驚くのだが、内容を読むと、その大半が、本当にフィクションかを疑い、不安になったり、衝撃を受けたり、夢でうなされたりまでされている。これは驚くべきことだ。
殺人も犯罪も出てこない本書がなぜそれほどのインパクトを持ち得たのかが不思議なので、ちょっと考えてみたい。
よく、成功してあの人は変わってしまった、などという話を耳にするが、まさしく、この主人公も、同業者や編集者から、変わってしまった、と言われている。しかし、K自身の認識では自分は昔からこうだったと記憶している。では、K自身が変わったのか、周りが変わったのか。
K自身の認識によれば、自分はもとから、面白いことがなければ笑わないし、当たりが強いのも昔からだ、となっている。しかし、周りはそうは感じていない。以前はこういう人ではなかった、と眉をひそめたりする。では、Kの記憶が間違っていて、周囲の客観的判断が正しいのか。
これは面白い設問だ。周囲の判断が客観的であるなら、客観的判断が正しいに決まっているではないか。
では、ためしに、担当編集者であるおまえが、客観的に判断して「羽田圭介」は変わったのか、判定すれば良いではないか、という声が聞こえてくる。
ではお答えしましょう。たしかに変わりました。何しろ「羽田圭介」は街を歩けば人に気づかれ、店に入れば店員に気づかれ、などということは以前はなかったし、生活スタイルも急激に忙しくなり、打ち合わせの場所や時間も変わった。そもそも帽子やマスクをして歩くことなどもちろんなかった。つまり環境因子による変化は明らかだろう。
問題はここからだ。それを見てこちらがどう思うのかという部分だ。こちらもまた彼をテレビで時折、いや、しばしば目にしている。すでに「羽田圭介」を有名人として認知している。有名人だから、という色眼鏡はかならず入る。つまり、こちらの見る側もすでに見方が変わってしまっている、と言わざるを得ない。おそろしいことだ。観測者であるこちらが変わってしまったとしたら、客観的判断など成立しないではないか。
そうなのだ、誰も客観的に観測できるポジションになど立てない。そして、客観的答えなど誰ももっていない。これこそ、人間が一番恐れている真実ではないか。そしてそれに気付くとき、足元の地面が揺らぐ。読者が不安になるのももっともなのだ。
羽田圭介は本当にファンに手を出したのか? 本当に撮影中笑わないのか? 本当にギャラ交渉しているのか? 本当に豪邸に住んで高級車を運転するのか?
こういったありがちな疑問に対し、その答えを一番覗き見しやすい位置にいるように見える担当編集者の立場からお答えしよう。
これについては、小説執筆中から探り探りで来たのだ。「これ本当ですか?」 と何度聞いたことだろう。そして「羽田圭介」はいつもそれに淡々と答えた。しかし、告白すれば、聞けば聞くほどわからなくなっていったのだ。何が本当か? なにがフィクションか? 「羽田圭介」の答えは事実なのかフィクションなのか……。
そういう意味で、この小説はきわめて事実に基づいているのだ、と言わざるをえない。なぜなら、作者が本当のことを答えたとしても、聞く側がかえって何が本当かわからなくなっていくとしたら、小説中のKが密着番組に取材され「Kさんの本当の顔が見えない」と言われる時の苦悩そのままではないか。
それでも、羽田圭介がファンに手を出したか知りたいあなたは、もちろん罠にかかっているのだ。ただし、作者のかけた罠にかかるのは、読者だけではない。作者自身でもある。
(担当編集Y)