単行本 - 日本文学
インタビュー 「最初は乗り気じゃなかったんです」〜角田光代、『源氏物語』を訳す
角田光代
2017.09.14
インタビュー
「最初は乗り気じゃなかったんです」〜角田光代、『源氏物語』を訳す
聞き手:瀧井朝世
(『池澤夏樹、文学全集を編む』収録)
*書籍詳細は河出書房新社公式HPまで
*『源氏物語』角田光代訳 特設ページ
*池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 特設サイト
( 「若紫」冒頭の立ち読み、角田光代による「新訳について」、編集部からの解説などを掲載)
*youtubeにて動画も公開中
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──今回の新訳、とても面白く拝読しました。『源氏』に関しては有名なエピソードを知ってはいたものの、どうも学校の古文の授業の苦しさを思い出すことがあって、これまで敬遠していたんです。だから丁寧に読み込んだことはいちどもなかったのですが、今回、わかりやすくて、なおかつ親しみやすい訳で読めたことで、作品に対するイメージがかなり変わって驚きました。
角田 ありがとうございます。
──非常に長い作品でもあるので、相当大変な作業かと思います。角田さんが最初にこのお話をいただいたのはどれくらい前になりますか。
角田 たしか四年くらい前……二〇一三年の夏だったと思います。
──「こういう『日本文学全集』が出るんです。……で、角田さんにはこれをやってほしくて」というような?
角田 そうです、そうです。
──その依頼を受けたときはどう思われたんですか。
角田 正直、ちょっと嫌だなと思って(笑)。最初は「こういう巻立てです」というラインナップの一覧を貰ったんです。そうするとその中から選べるのかなとか思うじゃないですか。で、それを見たら、それぞれの巻の古典作品の訳者はほぼ誰かが決まっていて、選べないということがわかって。リストの中に自分が興味がある作品もあったのですが、「この作品はこの作家に決まっているのか……」「そして私は『源氏物語』なのか……」と思いました。
──あまり乗り気ではなかったわけですね。
角田 受けたのは、編者が池澤さんだから、ということが大きかったんです。他の作家の個人編集だったら「あまり興味ないので……」と断ったと思うんですけど、元々私が池澤夏樹さんを作家としてとても好きで。人生で一度だけ、サイン会に行ったことがあるんですけれど、それが池澤さんで。唯一、ご本人のサイン本を持っている作家さんなんです。その方に名指ししていただいて、はたしてお前は断れるのか、という気持ちが正直いちばん大きかったんです。
──一瞬ひるんだわけですね。
角田 はい。なぜなら『源氏』を好きな作家はとても多いと思うんです。でも、私自身は特別好きという気持ちを抱いたことはないんですよ。だからといって、嫌い、というわけでもなく。そもそも「嫌いだ」と思う根拠もないくらいに関わりがなかったんです。だから「どうしよう……」と。
三年間かけて『源氏』をやってほしいと言われたんです。でもその三年間、小説はどうするのか、他の仕事はどうするのか、三年後どうなっているのかとか、そして「あの『源氏』……?」とか、三日くらい悩みに悩みまして。でもやっぱり最初に戻って、池澤夏樹さんのお名前が挙がったからには断れない、「引き受けます」と諦めにも似た気持ちでやらせていただくことになりました。
翻訳の姿勢
──以前「今後しばらく小説は出しません」とおっしゃっていました。他の仕事をいったん中断して、ずっとこれに取りかかろうとスケジューリングしたということですか。
角田 もともと仕事を減らそうとしていた時期ではあったんですが、ちょうど二〇一五年の四月で、抱えていた小説の連載が全部終わったんですよね。そこから連載を入れないようにしました。
──いろいろ仕事を整理してこれに取りかかろうというときに、まず何から始められたんですか。
角田 飛び飛びでしか読んだことがないので、まず、物語を通読しようと思いました。
──原文で?
角田 いきなりの原文は無理でした(笑)。誰かの訳で。とにかく読みにくいという先入観があったので、イギリス人のアーサー・ウェイリーが英語に訳して、それを日本語にさらに訳した『ウェイリー版 源氏物語』をまず読み始めました。これは思った以上に読みやすかったです。でも、正直あまり夢中になれないんですよね。それを読みながら他の方の訳も読み始めて。大和和紀さんのマンガの『あさきゆめみし』も読みました。与謝野晶子や谷崎潤一郎訳、瀬戸内寂聴さん訳も。
でもいろいろ読み比べているうちにだんだんわからなくなってきて。結局これは文字を追うようにして全部読んでいるよりも、自分で翻訳する作業に入っちゃったほうが早いのでは、と思って、真面目に読み通すのはちょっとやめて、一から訳すようにしていきました。
──訳すときに他の人の翻訳はどれくらい意識されましたか。
角田 最初は本当に何も意識しないで、「こんなに訳している人がいっぱいいるなら、大丈夫。その人たちの訳を読めばいい。私の訳をわざわざ読む必要はないんだからこっそりやればいいじゃないか」みたいに思っていて、全然プレッシャーがなかったんです。
でも実際に、さあ始めようと、最初のあの有名な冒頭の一文を訳すときに、はたと困ってしまって……。どういう立ち位置で訳せばいいのかがわからなくて。そう思って他の作家の訳文を改めて読んでみると、皆それぞれ立ち位置があるんですよね。「私はここ」「俺はここ」と決めて訳している姿勢がある。
その姿勢はたぶんその人の『源氏物語』への思いなんですよね。寂聴さんだったら女の生と性の悲しみ、情念といったものを見据えて『源氏』という作品を捉えているんだと思うし、谷崎は言葉の美しさみたいなもの、日本語の貫禄みたいなものを大事にしたかったんだと思います。そういう意味でそれぞれの『源氏』の愛し方みたいなものが見えてきました。
でも私は作品に思い入れも愛もない。今から思えば、だから立ち位置が決まらなかったんですね。たとえば女性たちの視点に立って、女性の側から書くであるとか、もしくは恋愛というものを中心に書く、性愛を中心に書く、あるいは男性という立ち位置で光源氏という人の視点から書く。『源氏』が好きで訳した人というのは、それぞれの立ち位置、「私だったらこうしたい。これをずっと思っていた」というところを足がかりにして始めると思うんですけれども、私にはそれがまるっきりない。使命感がないので、どこにその取っ掛かりを見つければいいのかわからない。
──現代語訳でわかりやすくという意識はなかったんですか。
角田 もちろんあったんですけど、それもいろんな人が既に試みていて。たとえば林望先生の訳は、読みやすさで言えば一番だと思うんですよね。道具とか着物の説明も含めて、「後朝の文とは関係を持った次の朝のラブレターのことですよ」みたいな説明も含めて、すらっと読めてしまう。もう『源氏』の翻訳はありとあらゆることが既にやり尽くされているんですよ。わかりやすくするとしても、超訳にするのか意訳にするのか、それともプレーンな訳にするのか、どこを選んでいいのかすらわからないというのが私にとっての最大の難問、難関でした。
──そこから、どういう立ち位置を心がけたんでしょうか。
角田 ひとつには、その偉大な翻訳の列に自分も並ぼうと思うからいけないのであって、その列には入れなくていいじゃないか、と開きなおりじゃないですが、あらためてそう考えました。さらにじゃあ私の名前が挙がった理由は何だろう、ということを次に考えました。たぶんそれは、私にしかできないことがちょっとでもある、と池澤さんと編集部が考えてくださったから、私の名前が出たんだろうなと思って。
きっとそれは正確さではない。よもや新しい解釈でもない。こんな読み方があったのかとか、こんなところに視点をとるのかというような、新しい解釈、新しい読み解き方ではないだろうな、というのが、確信としてありました。じゃあ私に求められているものは何かなと考えたときに、やっぱり読みやすさじゃないかな、と。
私の小説はよく読みやすいと言われます。読みやすいというのは「共感する」、とかそういうことではなくて、難しい言葉をあまり使っていないので、すらすらと読めるということです。まず、それだな、と。そしてその次に考えたのは──これは私の感想でもあるんですけれども──『源氏物語』ってダイジェスト版もいっぱいあるじゃないですか。それを読んだときに、物語がちょっとわかりかけたような気にはなるのですが、でも実際作品を通読していくと、なんだか頭の中で繫がらないんですよね。物語の俯瞰した図が見えてこない、それが不満でした。
だから何とかこの長い物語を俯瞰するような面白さ、運命がこんなにもねじれていく面白さというのを全体で見渡すことができないか。一帖ずつ読んでいって見えなくなるようなことがわかるためにはどうしたらいいか。そのためにはやっぱりわかりやすくプレーンな文章で書いていったほうがいいんじゃないかというのがひとつありました。
言葉が悪いかもしれませんが、いわゆる「格式」がない訳でもいいじゃないかと思えたんです。「格式がない」というのはたしかに誰もやっていない、誰もそこは目指していないなと思って。「日本語の美しさ」だとか「王朝文学の優雅さ」だとか、そういうものはもうこの際ないことにしようと。とりあえずシンプルで読みやすくて、がんがん進めるものにしようというのが最終的に決めたことです。
──まさにがんがん読み進められますよね。会話文の生き生きした感じが読みやすいです。
いちばん基本的なところですが、「ですます」調にするか「である」調にするか迷われましたか。今回の角田さんの訳は「である」調なんですけれど、著者本人がコメントしているみたいなところは「ですます」調になっていて、それが朝ドラのナレーションみたいに思えて、ちょっとコミカルで楽しく読めました。
角田 最初はとても迷って。「ですます」のほうが収まりがいい気がするんですけど、ただ自分がこれまで書いてきた文章として「ですます」には馴染みがないので、あえて「である」にしていったんです。私はこの翻訳をやるまで「草子地」という、地の文に、作者の声がふっと混じるという文法も知らなくて。今回訳文を見てくださった藤原克己さんにとてもよく教えていただきました。その説明を聞いて私が思い浮かべたのは、マンガとかでページをパラリとめくると、コマの外側に作者と思われるようなキャラクターが突然登場する、といったような手法なんです。その人物が「そんなマンガみたいなこと、あるわけないよね」なんてあえてつっこむような。そう考えたらわかりやすかった。
そこからさらに訳していくなかで、聞こえてくる作者=紫式部の声がけっこううるさく感じるようになりました。この作者は本当に、作品の中からちょくちょく顔を出さずにいられない人なんだなって。最初は作者の声も「である」で揃えていたんですけど、私に聞こえた作者の声を生かすには、そこだけあえていちいち本人が顔を出して、それこそ朝ドラのナレーションのように「ずっと褒めてるけどしょうがないのよ」「そういう癖のある男なんですよね」とそのままにすることにしました。
──会話文の後で、ぽろっと「……と言ってしまうのは、いかにも頼りないことです」とか、主観が入るんですよね。「このあたりのことはくだくだしくなるので、いつものとおり省くことにします」とか。メリハリがあって面白いな、と思っていました。
角田 底本にしているテキストで「ここは草子地です」という注釈があるところを、わりと忠実に訳していきました。でもいちいちそう書いていない部分も多いんです。だから、厳密にそうしていないところだったり、草子地ではないんだけどなんとなく私が文章のリズムで作者の声にしちゃったところとか、そこはわりと厳密じゃなくごちゃまぜになっています。
──そういうところもすごく親しみがあって楽しめました。また、古文の授業で記憶にあるのが、謙譲語とか尊敬語といった文法のわかりにくさです。それが『源氏物語』をちょっと敬遠してしまうところでもあるかと思うんですけど、訳していて、そこはいかがでしたか?
角田 古文の敬語は、高校のとき私も覚えるのがすごく大変だった記憶があまりにも重くのしかかるので、やめよう、と思いました。受験からは遠ざけたくて、地の文ではほとんど使わないようにして。あと和歌が出て来るとき、せっかく夢中になっていて読み進めていても、いったん目が止まるじゃないですか。すんなりわからないことが多いし。訳し方は悩みに悩んで、一時は和歌だけ、歌人の方に短歌の現代語訳を外注することも真剣に考えました。でも当たり前ですけど、歌だって作者の個性があるから、自分の訳の中では浮いてしまうだろうなと思って、自分で却下して。私が下手でもいいから五七五七七に現代語っぽくしてみようかと思って、やってみたりもしましたが、でも途中でこれは無理だと断念して、結局オーソドックスに意味を書くことにしました。
──難しい言葉をどこらへんまで現代語っぽくするか、そのバランスはどう考えられましたか。
角田 それは本当に難しくて、加減がわからなくて。でも最低限にした気がします。たとえばよく出てくる身分違いの恋愛について、「格差婚」という言葉を使うとすごくおさまりがいいとは思うんです。でもそれは良くない気がして。
現代小説とつながる構成の妙
──今回、すんなり通しで読むことができて、現代小説と並ぶような、構成や伏線に驚きました。関係性の変化や、別れと再会、といったところが、ちゃんと前半でほのめかされていて。『源氏物語』に詳しい人には当たり前なのかもしれないけど、全編プロットを組んでから書いたように思えてきます。
角田 思いました。本当にそう思いました。びっくりしますよね。伏線回収してる!って。
──そうなんですよ。複雑な生い立ち、その後の権力争い、恋愛と性愛、父と母……すべてを見越したかのような設定と、覚えられないくらいの細かな人物相関図。現代作家だったら事前に細かい人物表と人物相関図を用意しておかないと書けないんじゃないかと思うくらい。どうしていたんだろうと思います。訳しながら、角田さん自身も書き手として紫式部はこれをどうやって書いたのか、ということは想像しましたか?
角田 そうですね。どう書いたんだろうとはよく思いました。とにかく物語があまりにも出来すぎているので……。それは昔、ひとつずつのエピソードとして読んでいるときは気づかなかったことなんですけど、今回、通読して、さらに翻訳して、いかに物語に細かい伏線が張ってあって、構成が実にちゃんとしているかということにびっくりしました。
よく後からいろんな人が書き換えたとか言われていますが、その説はいったん置いておいて、もし紫式部がこれを全部一人で書いたという前提で考えるのならば、私はたぶん作者が意図して自分のコントロール下で書き進められたのは「明石」の帖までだと思うんですよ。「明石」以降はちょっと自分でも思いもよらないほうにいってしまって、物語や登場人物が勝手に歩いていっちゃって、ときどきコントロールするために短い挿話を差し込んでいるんだけど、物語の大きな流れはたぶん作者の手を離れちゃったんじゃないかなという印象があるんですよね。
書き手として私が考えるのは、小説というのはたぶん自分ができるすべての力を注いでつくったとしても、できるのは百パーセントまでで──それすらも難しいんですけども──それ以上は絶対にいかないと思っていたんですね。でも小説が百パーセント以上の力を発揮することがあって、それは作者じゃなくて、小説に宿った力がそうさせることがごく稀にあるとなんとなく考えていたんです。それの超弩級版がまさにこの『源氏物語』じゃないかなって、最近は思っています。
──光源氏は自ら第一線を退いて明石に赴くというところまで紫式部は考えていたけれども、その後京に戻って以降は作者も予想外だったのでは、ということですか?
角田 都に復帰させて、栄華を極めるじゃないですか。だけど源氏自体はどこか元気がないように思うんです。蝶よ花よ、みたいな感じになるかと思えばそうじゃなくて、再び派手な生活を始めたのにどこか寂しそうで。そして思いどおりになっていたことが、またどんどん思いどおりにならなくなっていく──みたいなところから、作者と物語の乖離が始まっているように感じられるんです。こんなにいい町を作って、憎き敵も成敗して、権力も戻してあげた、あれ、でもそれでハッピーエンドにならないぞ、おかしいなという思いが、作者にあったんじゃないかなどと想像してしまうんですね。
もちろん作者だから、「明石」以後も女をみんな源氏になびかせることもできたのに、そうしない。しないというよりできなかったようにも思います。物語は源氏というスーパーヒーローを離れていく。
物語のなかで作者が彼の周りを派手にすればするほど、なんとなく源氏の影がどんどん薄くなっていくというか、源氏が別のほうに移行していってしまうという印象がありますね。もう若くないという年齢的なこともあるけれど、それだけではないような……。もっと続けたいのに、華々しく続けたいのに、なぜかそういかない……、と。後の人間から見れば、物語自体がもっと濃い意味とか深さを持ってしまったんだけども、作者としてはまだまだ源氏中心に書く気だったような気もするんですよね。あるいは、女たちのほうが勝手に生き生きと息づきはじめてしまったのかもしれない。それも作者の思惑を超えて、のような気がします。
紫式部は女に厳しい
──紫式部は作家としてどういう特徴があると思いますか?
角田 作中人物が人のことを、特に女を貶めたり悪口を言っているときに、彼女の筆が乗っている感じがするんです。そこはとても面白いですね。
──末摘花の鼻の頭が赤いだけでこんなに貶されるのか、ってなかなか容赦ないですよね。訳しているとそういうタッチもわかるんですね。
角田 はい。そんなに近しく感じるなんて思わなかったんですけど、意外に早く、「帚木」を訳しているとき「今、作者絶好調!」みたいなのが見えてきて、「あれ? 思ってたのと違う!」と思いました。
──「帚木」はいろんな女を品定めする、ボーイズトークの場面ですよね。
角田 ボーイズトークのなかに「こんな女、ダサいでしょ」みたいな作者の意見が垣間見えるんですね。「上流といったって、家が落ちぶれればどうよ」とか、言いたい放題な感じで。すっごい嫌な奴だ、こいつ!って、ある親近感を伴って思いました。
──絶対的に誰にとっても理想的な男性がめくるめく恋愛をする話かと思ったら、意外と女たちに拒まれたりもしているし、女性側からしても「好きな人に愛されて幸せ」というよりも、男を拒んだり嫉妬する女のネガティブな気持ちのほうが生々しく描かれているというところはあると思います。自由恋愛の時代でもないし、恋愛といっても政治が絡んでいるので、恋愛を謳歌するような話にならないのはしょうがないとは思いますけど、嫉妬とか拒絶するときの感情のバリエーションがすごいなと。
角田 すごいですよね。
──女の人をよく見ているんでしょうね。
角田 女のバリエーションが面白くて。この物語に出てくる女たちはだれも名前を持っていませんよね。まあ、男もなんですけど、女のほうが特徴的に、地名や役職で呼ばれたりお部屋の名前で呼ばれたりしています。本文でもだいたい女とか女君とか姫君とか書いてあったりします。女というだけで個別化は必要なくて、ただいるだけ。その女が綺麗かとか、しとやかか、教養があるかという違いだけで、誰でもいいわけです。つまり顔がないわけです。
ということはこの時代の女というのは、向こうから来る人間によって運命が決まったりする。拒むこともできるけれども、自分からは行けない。だからそういう意味で、どの女も同じ意味で名前も顔もない女たちではあるんだけれども、感情の動き、嫉妬だったり、身分の違いで卑屈になったり云々、その感情の違いだけで、女性を書き分けているわけですよね。それがものすごいと思いました。
──たしかに。「もともとの性格が勝ち気」といったキャラクター造形ではなく、立場によって生まれる感情が決められているような感じがありますよね。
角田 そうなんですよ。さらにこの物語では、男性は女性たちの場合とは違って、「感情」で書き分けられているのではなく、そうした「キャラクター造形」の差で描かれていることが多いようにも思いました。マッチョな無粋とか、お調子者とか、くそまじめな堅物とか。でも女は、性格もなく、ただ感情の機微の動きだけで人物を書く。しかも書き分けていますもんね。すごいことです。しかも現代の自分たちの感情の発露と違うのに、なるほどわかる!と共感してしまう。「空蟬」の帖でこうあります。空蟬は源氏と関係を持ったときには受領の妻であるわけですが、そんな運命になる前にこの人が来てくれていたらどんなにいい人生だっただろう……って思うというその哀しさ。本当にそのままよくわかる。
──読み進めるにつれてまた人物のイメージができあがってくるんですよね。「六条御息所」って呪い殺したり怖い女の人のイメージだったんですけど、こうやって通して読むとすごく切なかったです。「葵」の帖の、六条御息所と葵の上の一行が争う有名な「車争い」の場面なんて、通して読むと可哀想すぎると思ったり。あと紫の上も、小さい頃から「マイ・フェア・レディ」のように育てられた女性というイメージが強かったけれど、今回読んで、結局こんなに嫉妬に駆られているんだ、という哀しさを感じました。また、それに源氏が浮気も全部、彼女に告白するんですよね。
角田 それも現代的というか。そういえば、私、昔付き合っていた人があまりにも仲良くなりすぎちゃって、浮気の相談とかを私にするようになっちゃったことがあったんですよ。
──恋人である本人に? いちばん隠さなきゃいけない本人に?
角田 そうなんです。付き合いが長過ぎちゃって、浮気相談を受けるようになって。もう二人の間で関係性がわからなくなっているんですよね。そういう記憶もあって、これはなんて現代的なんだろうって。それを紫の上も小さいときから一緒にいるから、わかんなくなっちゃってるわけじゃないですか。「私はあの人がいいと思うわ」みたいなことを言ったりとかして。そういう妙に現代的なところも面白いですよね。
翻訳の深み
──翻訳に取り組んでいるうちに、面白くなりましたか。
角田 面白くなりましたね。わかったつもりになっていても、こうやってじっくり取り組むと、これまでとは違う読み方ができて面白いなと思います。それでも「いつ終わるのか……」という不安はありますが。そういえば、『源氏』訳をやることになった、ということでは多くの同業者の方が気の毒がってくれたり、心配してくれました。
──分量が多くて大変だということ?
角田 そうですね。分量が少なくても原稿用紙六千枚、っていちばん多いからということなんでしょうけど……。川上未映子さんが樋口一葉の「たけくらべ」(「日本文学全集」13『樋口一葉 たけくらべ/夏目漱石/森鷗外』)を訳し終わった後、ある選考会で会って話したことがあったんです。そのとき「一葉をやり終わってどうだった?」と訊いたら、「訳すということが読むということのすごい深いバージョンだってわかった」と言っていて、そうなんだ!と思っていたんですけど、今ならちょっとわかるような気がします。こういうふうに取り組まなければそもそも『源氏物語』に興味ももてなかったし、構成の妙にも気づかなかったし、感情のありようとかもこんなに共感したりということはなかったと思うんですよね。
面白いな、と思っているのは日本語の言葉の訳し方です。有名なのは「あはれ」とか「をかし」をどう訳すか、ですが。たとえば「なまめかし」という言葉。今の言葉にするとどうしても色っぽいとか艶かしいとか、色気のニュアンスが出てきちゃうじゃないですか。でも色っぽいという意味がついたのはもっと後の時代で、それまでの「なまめかし」は何とも言えない深い美しさ、ぱっと見たら誰もわからない、だけれども、よく見たら実は綺麗だったと気づくような美しさなんですって。
そのとき先生が言った喩えは「五月の竹藪に雨が降って、一瞬雨が途切れて、空は曇っているし、竹は濡れているし、万人が綺麗だという景色ではないけど、じっと見ていると何か美しいと思っちゃうことを『なまめかし』と言うんですよ」と言うんですよね。「わかるわかる! その感じ!」と思って。でもそれにあたる言葉はないんですよね。今の日本語ではないんだけど、感覚では私たちは共有できるんですよね、千年前と。この感じの美しさというのはそれだけでわかるのに、今の言葉がないというのは面白い現象。
「いまめかし」というのも、すごく多くの本で「当世風」と訳しているんですけど、藤原先生は「ぜんぶがぜんぶ、当世風としないほうがいいように思います。華やか、というほうが近いときもあります」と言うんです。それを国文専門の同級生に「『いまめかし』はむずかしい」と話したら、「『いまめかし』は今で言うきゃりーぱみゅぱみゅみたいなことよ」と言うんです。わあ!って思っちゃうこと。つまり、何かまだわからないけど、新鮮で、これからくるものなんだわ!という感じ。面白いですよね。これも言葉ではなくて感覚のほうがよりわかる。「いまめかし」もたぶんすっと据わりのいい今の言葉がないんだと思うんですよね。
──たしかに、きゃりーは「当世風」というよりも、これからくるものという感覚が最初に見たときにありましたよね。
角田 可愛いとかかっこいいとかまだわからなくて、定義もできなくて、「いやぁ!」みたいな「何かあるんだろうな!」という感じ。その感覚は共有できるんですけどね。本当に今の言葉で書けるならば、「ヤバい! きたっ!」みたいな感じなんでしょうね。ひとつの言葉をどう訳すのかということを、研究として考えると、その答えこそがその専門家の哲学なり人生なりになっていくのではないか、そのくらい言葉というのは重いのではないかと、藤原さんのお話を聞きつつ思いましたね。私は研究とは違うので、やはり伝わりやすく、ということを重視するだけですが。
未来の新作小説に向けて
──今はどういう進捗状況なんですか?
角田 中巻が二〇一八年五月。下巻が二〇一八年一二月を予定しています。今は玉鬘十帖の最後、「真木柱」を訳し終えたところです。
──後半は他の人が書いたんじゃないかという説があるのも、角田さんが最終的にどう思うのか、気になりますよね。古川日出男さんが『源氏物語』をベースとした『女たち三百人の裏切りの書』を刊行したときにインタビューしたら、「宇治十帖こそ式部先輩が書きたかったことを掘り当てて書いた気がする」とおっしゃっていて、そうなんだ!と思ったんです。女の人たちがあの時代に搾取されて抑圧されていた辛さを、宇治十帖になってようやく書けたんじゃないかって。
角田 面白いですね。私も自分でどう考えるか、楽しみです。
──今好きな人物や気になる人物は、この中では誰になりますか。
角田 よく聞かれるんですが、ないんです。そもそも私、自分の小説を書くときも、登場人物の誰かに肩入れすることがないんですよね。だから今回の姫君たちにも全然思い入れがない。距離があるんですよね。
でも、最後の「少女」の巻の夕霧と雲居の雁のくだりは、可哀想すぎて泣きました。それまで全然感情移入しないで淡々と訳していたんですけど、あそこにきてなぜか幼い二人が可哀想で可哀想で。そんなこと、私は今まで小説を書いていて絶対なかったんですけど、パソコンを打ちながら、気がついたらぽろぽろ泣いていて。可哀想すぎて。もう少し位が上なら良かったのに、馬鹿にされて引き離されてみたいなところが、もう本当に、とても可哀想で。今思えば、なんでそんなことで泣いたんだろうとも思うんですけど(笑)。でもそれくらいそのときは心に刺さった。たぶん初めて人間味を覚えたのかな、この訳のなかで。
──まさに『源氏』の世界に入り込んでいらっしゃるんですね。その一方で、ご自身のオリジナルの小説を書きたいという衝動に駆られることはありますか。
角田 あります、あります。
──これをヒントにこういうものを書いてみたいみたいなものがあったりとか?
角田 いやいや、まだ。まだまだです。
──これだけの量を訳すと、いざ小説を書こうとすると文章とかのリズム感などがまた変わっているかもしれないですね。
角田 百枚くらいの短編とか物足りない気がして。こんなに短くていいのかなって思っちゃうかもしれません(笑)。
──角田版メガノベルの誕生ですね(笑)。中、下巻も楽しみに待っています。頑張ってください。そして訳し終わって、新作小説も待っています。
角田 『源氏』を訳し終わると、小説が変わるから、って皆が言ってくれるんです。自分でもそれを楽しみにしながら、すがりつく気持ちでやり遂げようと思ってます。
(2017・7・10)
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