単行本 - 日本文学

「もしかしたら有り得たかもしれないもう一つの人生、そのことを考えなかった日は一日もありませんでした」

「もしかしたら有り得たかもしれないもう一つの人生、そのことを考えなかった日は一日もありませんでした」

かつて日本中の涙を誘った傑作小説が、装いも新たに河出文庫としてよみがえりました。人生を揺さぶる最高の物語です。

冒頭部分と中盤の試し読みを公開します。
ぜひご一読ください。

 

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第二回
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初めて臼井さんを見かけたのは、万博が開催される半月ほど前でした。何かの用事でルームメイトの雨宮さんと一緒に協会本部へ立ち寄った帰りに、駐車場の方から歩いてくる彼とすれ違ったのです。
一九七〇年の春先は大阪も凍てつくような寒さが続いていました。特にこの日は前夜からの雪が降りやまず、会場のあちこちで除雪作業員の姿が見られました。雨宮さんと私は一本の傘の中で身を震わせ、互いの身体をぶつけ合うようにして歩いていました。
人生には忘れ難い瞬間というのがいくつかあるものだけれど、私にとってはこの時がそうでした。小雪がちらつく中、コートも着ずに歩いて来る彼を見た時、すぐにホステスたちが噂しているのはこの人なのだと分かりました。
雨宮さんに倣って会釈をすると、臼井さんも軽くこちらに頭を下げました。痩身で背が高く、銀縁眼鏡をかけた彼は、むっつりとして、ひどく無愛想な感じでした。それでも私はすぐにその顔が気に入りました。どう言ったらいいのか、まだ二十五歳なのに人としての充実が外見に滲み出ているといった感じなのです。臼井さんは大変な秀才だという評判だったし、一見しただけで、そうに違いないと思いました。でも、ひと目惚れしたなんて言いたくない。ただ頭がよく、見てくれがいいというだけでなく、彼にはもっと別の何かが備わっているように見えたのです。私はそれが何であるのかを知りたいと思った。
人生は宝探しに似ている、とある人が書いている。掘り下げていくほどに様々なものが見つかるのだ、と。あなたにもこの言葉を嚙みしめてほしい。宝物である以上、そう簡単に見つけられるものではないかもしれない。でも、金塊はすぐそこに眠っているのかもしれないのです。そうと知りながら、どうして掘り起こさずにいられるだろう? 黙って彼の前を通り過ぎるなんて、私にはできない相談だった。私は臼井さんを知りたいと思った。どうしても知りたかった。そして彼にも、私という人間がいることを知ってほしかった。それは十代の頃に経験した闇雲なひと目惚れとは違う、とても不思議な感覚でした。
「あの人が臼井さんよ」
すれ違ってしばらくすると、雨宮さんがそう教えてくれました。その頃の臼井さんは語学の教育係といった役どころで、彼女はその熱心な生徒の一人だったのです。
臼井さんに関する評判は、どれも驚くようなものばかりでした。京都大学の言語学研究室に在籍していた彼は、英語とフランス語、それに広東語で京都のガイドブックを書き上げ、十ヵ国語くらいは楽に話せるというのです。
「むっつりしていて何だか嫌な感じね」
私がそう言うと、雨宮さんは白い息を吐きながら「そうかな」と呟きました。これについては彼女の方が正しかったと思います。この時、臼井さんがひどい歯痛に悩まされていたことを知ったのは、しばらくたってからでした。
大した用もないのに、それから私はちょくちょく協会本部へ出かけるようになりました。一人で行ってはチャンスがないので、そんな時は口実を作って雨宮さんを誘いました。とにかく私は臼井さんと顔見知りになり、話をしてみたかったのです。話ができなくても顔だけでも見たいと思い、協会本部へ行くたびに彼の姿を探しました。そこには私と同じ目的で来ているらしいホステスがいつも何人かいました。そんな人たちを見かけるたびに、もう来るのはよそうと心に決めるのですが、それでいて私の視線はひっきりなしに彼の上に戻ってしまうのです。
邪気というものがまったくなかった雨宮さんは、何の疑念も抱かずに私のお供をしてくれました。彼女はひどく世間に疎い人で、会場内で有名人に出会っても気がつかないことがほとんどでした。オープニング・セレモニーが行われる直前に岡本太郎とすれ違った時も、雨宮さんは普通の人にするように軽く会釈をしただけでした。
「あの人が『太陽の塔』を作った人よ」
そう説明しても、頷きこそするものの、どこかピンときていない様子で、「もうじき春ね」などと言うのです。周囲の人たちはそんな彼女のことを面白がり、あからさまにからかっていました。
「雨宮さん、先週、東京で革命が起きたの、知ってる?」
四月に入って間もない頃、協会本部にいた自治省の役人が彼女にそう声をかけました。そこは中央官庁や大阪府の職員たちの溜まり場になっていたのです。
「いいえ、知りません」
雨宮さんが真顔で答えると、「やっぱり」と言って全員が笑いました。その輪の中には臼井さんの姿もありました。
近くにいた女性職員と話しながら、私は役人たちの会話に耳を傾けました。彼らが「革命」と言ったのは、三月末に起きた『よど号』事件のことでした。羽田を飛び立った日航機が赤軍派を名乗る男たちに乗っ取られ、数日間はこの話題で持ちきりだったのです。
役人たちがいかにも楽しげに話していたのは、新聞に掲載された写真のことでした。「これが犯人たちだ」というキャプションがつけられた写真には、空港のロビーでコートを着た三人の男が写っていました。めいめいに変装をしていたものの、日本刀を入れていると見られる長い筒を持っていることから、どうやら犯人たちであることに間違いなさそうです。では、誰がこんな写真を撮って新聞社に流したのか? それがこの場の話題でした。
「たまたまロビーにいた人が撮影したなんて書いてあったけれど、あれは噓だよな」
「警視庁の公安部に決まってるよ。張り込んでおきながら、みすみすハイジャックされるなんて間抜けなやつらだ」
誰かが話すたびに笑い声があがり、その都度、臼井さんも一緒になって笑顔を見せていました。むっつりとした様子はどこにもなく、むしろ愛想がいいとさえ言えるほどでしたが、それでも彼はけして社交的な人には見えませんでした。自分から口を開くことはほとんどなかったし、役人たちに話しかけられても、頷きながら一言か二言返すだけなのです。
「犯人の中には臼井くんの大学の後輩もいたんだろう?」
会話が一段落すると、ある役人が彼にそう訊ねました。
「何度か話をしたことがあります」
臼井さんが小さく頷きながら答えると、その場にいた人たちは少し驚いたようでした。
「臼井くん、ひょっとしてオルグでもされたの?」
「頼まれて本を貸しただけです。もう返してもらえないでしょうけれど」
「大事な本だったの?」
「ええ、僕にとっては」
「何という本? 何だったら、東京に連絡して探させようか」
「いえ、本自体は珍しいものではありません。ただ、あちこちに書き込みをしてあったんです」
臼井さんが答えるたびに、全員が聞き耳を立てました。役人たちは、どんな書き込みをしていたのかについても知りたそうな様子でした。
この時、近くにいた人が、やや唐突に訊ねました。
「君は外交官にでもなるつもりなの?」
臼井さんは首を振り、「大学に残れればいいと思っています」と答えました。それをささやか過ぎる希望と受けとめたらしく、役人たちは口々に「もったいない」と言い合いました。
当の臼井さんは、経費伝票に数字を書き込みながら、まるで他人ごとのように彼らの話を聞き流していました。その光景になぜだか少し感動を覚えながら、私はその場から立ち去り難くなっている自分の気持ちと戦っていました。この人のことをもっと知りたい。彼が何を思い、何を望み、そして何をしようとしているのか。どんな生い立ちで、どんな本を読み、どんな少年時代を過ごしてきたのか。どんなことでもいい、彼のことなら何でも知りたいと思った。
臼井さんは不思議な人でした。多くの人がその不思議の理由を知ろうと近づいて来るのですが、どうしてなのか、彼は他人と打ち解けることがほとんどなかったのです。

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「有り得たかもしれないもう一つの人生、そのことを考えない日はなかった……」叶わなかった恋を描く、究極の大人のラブストーリー。恋の痛みと人生の重み。

涙を誘った大ベストセラー待望の復刊!

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