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【6/29発売】ノーベル賞作家・フォークナーの記念碑的大作が94年の時を経て初の邦訳!ーー『土にまみれた旗』訳者・諏訪部浩一による「訳者あとがき」を先行公開

 

  米南部に生きる者たちの苛烈さを描き、ガルシア=マルケスや中上健次ら次世代の巨匠たちへ影響を与えた、20世紀最大の物語「ヨクナパトーファ・サーガ」。その記念すべき第一作『土にまみれた旗』の初邦訳が、今月末に刊行されます。
 米本国でも、本作が完全な形で一般の読者のもとに届くことになったのは、1927年の完成からじつに約80年後のことでした(それ以前には、当時の出版社により約1/4を削除された形で『サートリス』として刊行されていました)。邦訳で560ページにおよぶ本作は、「若さ」と過剰なまでの「豊かさ」にあふれ、その後ノーベル賞を受賞する作家・フォークナーのすべてが詰まった、壮大にして野蛮な傑作です。
 その紹介に代えて、本書の翻訳者であり、フォークナー研究の第一人者である諏訪部浩一さんによる「訳者あとがき」を先行公開します。

 

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訳者あとがき

本書はウィリアム・フォークナー(一八九七―一九六二)が第三長編として執筆した『土にまみれた旗』―これまで日本の読者には『サートリス』として知られてきた作品のオリジナル版―の全訳である。

『土にまみれた旗』は、フォークナーがその作家人生のほぼ全期間にわたって執筆を続けた「ヨクナパトーファ・サーガ」の起点となる、重要かつ記念碑的な小説であるのだが、本書は初の日本語訳となる。そこで、まずは原著の出版に関する事情を紹介しておきたい。
一九二〇年代後半、フォークナーは帰還兵を扱った『兵士の報酬』(一九二六)というロスト・ジェネレーション風の作品と、芸術家達を中心とした風刺小説『蚊』(一九二七)をボーニ・アンド・リヴライト社から出版したあと、先輩作家シャーウッド・アンダソンからの「自分の知っていることを書くべきだ」という旨の助言もあって(『サートリス』はアンダソンに捧げられている)、故郷ミシシッピ州の田舎町オクスフォードをモデルとした地域を舞台とする二つの小説をほぼ同時に書き始めた。そのうちの一つ『父なるアブラハム』はほどなくして中断されてしまうが(その構想は一九四〇年出版の『村』に引き継がれる)、もう一方の執筆は順調に進められ、フォークナーは『土にまみれた旗』と題された作品のタイプ原稿を一九二七年九月二九日に完成した。
しかしながら、フォークナーは作品のできばえに自信を持っていたものの、リヴライトには出版を拒否されてしまう。彼はショックを受けながらも改稿に着手するが、第四長編『響きと怒り』(一九二九)の原型となる作品の執筆などで忙しくなり、翌一九二八年には長年の友人だった代理人ベン・ワッソンに、他社への売りこみを依頼した。ワッソンは一一社に断られたあと、ハーコート・ブレイス社に、全体の四分の一を削除することを条件に―その作業はワッソン自身が一六日間でおこなったといわれる―出版の契約をとりつけ、この「短縮版」が一九二九年に『サートリス』というタイトルで刊行されたのである。
かくしてそれから半世紀近くものあいだ、『サートリス』がヨクナパトーファ・サーガの第一作とされていたのだが、フォークナーは原稿を保管し続けていた。そして作家の死後一〇年あまり経過した一九七三年、とうとう『土にまみれた旗』がランダムハウス社から刊行されることとなった(以後、アメリカでは『サートリス』は古書店以外では入手できなくなる)。だが、出版直後から、この「復元」されたテクストに対して多くの研究者から強い非難の声があがり、ようやく「決定版」が出たのは二〇〇六年のことだった。本訳書は、そのライブラリー・オヴ・アメリカ版(Novels 1926-1929)を底本としている。

いささか冗長な説明になってしまったかもしれないが、こうした出版の経緯を知っておくことは、『土にまみれた旗』という小説の魅力を確認するのに無駄ではないように思う。その魅力とは、簡単にいってしまえば「若さ」であり、その勢いから生み出された、過剰なまでの「豊かさ」である。『土にまみれた旗』がリヴライトに拒絶された主な理由は「散漫で統一性がない」ことにあるとされ、ワッソンもそこには「六冊ほどの本」が詰めこまれていると感じたという(そして彼は特にホレス・ベンボウに関するストーリーから多くを削り、例えばジョーン・ヘプルトンは『サートリス』には登場しなくなっている)。
『土にまみれた旗』に対するこうした同時代の否定的な反応は、少なくとも部分的には、二〇年代というモダニズムの時代における文学観が影響していたのだろう。当時のアメリカ文学を代表する作品といえば、アーネスト・ヘミングウェイの『われらの時代に』(一九二五)やF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(一九二五)がすぐに思い浮かぶが、これらは―「すべてがあるべきところにある」というフレーズで閉じられる『響きと怒り』を含めてもいい―夾雑物と見なされかねないものを極力そぎ落とした、スリムな本となっている。「純粋さ」を可能なかぎり追求する姿勢が、文学を「芸術」にするには必要であると思われていたのだ。
そうした文学観からすれば、「六冊ほどの本」が詰めこまれているという『土にまみれた旗』がいびつな失敗作に、あるいはあまりにも洗練を欠いていると感じられたとしてもおかしくはないだろう。これは内容だけではなく、文体レヴェルにおいてもそうであり、この小説のフォークナーは、その若さゆえということもあるだろうが、かなり肩に力が入った文章を書いている。修飾語を執拗に重ねるかと思えば、説明を意識的に省いていることも多い。同一表現の反復も目立つ。主語が頻繁に(センテンスの途中でさえ)変わるというのも顕著な特徴だ。こうした現象は、死後出版となった本作が、いわば「生」のままのものであることにも起因するのだろう。実際、訳者がとりわけ翻訳にとりかかったばかりの頃に繰り返し思ったのは、フォークナーが本書のゲラを読む機会を与えられていたら、全体にわたってさまざまな箇所に手を入れ、もっと「洗練」された小説に仕上げていたのではないかということだった。
そのような印象は、この「訳者あとがき」を書いているいまになっても、完全に払拭されたわけではない。だが、それ以上に強く感じるのは、この小説はこのようにしてしか書かれ得なかったのであり、フォークナーも(多少の手直しはするかもしれないが)これはこれでよいと思ったのではないかということである。例えば、あるものを描写するとき、修飾表現を重ねて正確なイメージをつかもうとするも「失敗」し、それが逆説的にも「真の姿」を「イメージ」の彼方に担保することに通じるというのは、全盛期のフォークナーが鍛えあげて自分のものとしたスタイルであり、そうした個性がここですでにあらわれ始めていることを積極的に評価できるように思うのだ。
『土にまみれた旗』はモダニスト的な「芸術」としては傷が目につく作品かもしれない。だが、これはまぎれもなく、フォークナーにしか書けない小説になっている。そこで訳者としては、読みやすさに関する一定の配慮はしても(原著にはないサートリス家関連の家系図を付したのはその一例である)、原文のトーンはなるべく損なわないように努めることとした。もっとも、未読の読者のためにあえて強調しておくと、本書はいわゆる難解な作品ではまったくない。実験的手法としては、ときおり視点人物の「意識の流れ」が提示されることくらいであり(その際、前後にスペースが挿入されることもあるが、一貫してはおらず、これも「生」の原稿であるがゆえの現象と考えてよいかもしれない)、人によってはすいすい読めるような小説だろう。ただし、ゆっくり、そして繰り返し読むだけの価値が十分にある、まことに豊かな小説であるとはいっておきたい。この小説の文章には、そのように大事に読んでほしいという作者の熱い気持ちがあふれているように思えるのである。

いまも示唆したように、『土にまみれた旗』は普通に読んで理解しがたい小説ではないのだが、「六冊ほどの本」が入っているということで、以下、その「豊かさ」を損なわない程度に整理しておきたい。
フォークナーの小説には単独の主人公を擁する作品がほとんどなく(したがって、「複数冊の本」が入っていること自体は常態だともいえるわけだ)、本書もそのように構築されている。おそらく最も「主人公」らしい人物はヤング・ベイヤード・サートリスだろうし、事実というべきか、手書き原稿の段階では、冒頭にヤング・ベイヤードに関する叙述が据えられていた。つまり、『兵士の報酬』と同様、「帰還兵もの」として書き始められたわけである。双子の弟ジョンに目の前で死なれるというトラウマ的な戦争体験は、この若者をずっと苦しめ続けるのだし、自暴自棄な行動を繰り返す彼の運命は、読者にとって主要な関心事であり続けるだろう。
だが、ヤング・ベイヤードの物語は、この小説の一部でしかない。まず留意しておきたいのは、もう一人の戦後を生きる帰還兵として、ホレス・ベンボウという人物が登場する点である。芸術家肌の彼は、自らを「失敗した詩人」と呼んだフォークナーの自己パロディ的なキャラクターであるともいわれるが、まさしくそのような人物であるがゆえに、ヤング・ベイヤードと対照的な存在となる。ヤング・ベイヤードが「悲劇」へと突き進むロマンティックな行為者だとすれば、ホレスは「悲劇」などないという醒めた自意識を持つ傍観者である。そのように対比的な存在として、ホレスの物語はヤング・ベイヤードの「悲劇」を相対化する機能を担っている。ヤング・ベイヤードがジョンを求めて破滅へと突き進むのに対し、ホレスがナーシサに示す近親相姦的な愛情は、妹と結ばれることなど不可能だと知った上での演技にすぎないとさえいえるだろう。彼が妹を想って呟く「汝、いまだ汚されざる静寂の花嫁よ」という言葉にしても、彼女の純潔がやがて失われることを前提としているのだ。
ただし、ホレスのこうした自意識的な「演技」は、彼自身が思っているほど完璧ではない。彼がベル・ミッチェルやジョーン・ヘプルトンといったファム・ファタール的な女性に惹かれること、そしてバイロン・スノープスがナーシサに向ける異常な愛情がホレス自身の欲望をグロテスクにパロディ化したものに見えることなど、フォークナーはさまざまなやり方でホレスの戦略―進んで幻滅してしまうことで「現実」をやりすごそうとする、戦後世代らしい処世術―の綻びや限界を示唆している。もっとも、それは本書ではあくまで「示唆」にとどまっているという見方もできるだろうし、だからこそフォークナーは、本作の約一〇年後を描いた続編『サンクチュアリ』(一九三一)に再びホレスを登場させ、彼に醜い「現実」を突きつけたのかもしれない。
本書のホレスが明らかに重要人物でありながら、その物語が同じ帰還兵であるヤング・ベイヤードのそれと比べていささか弱く―『サートリス』では大きくカットされてしまうくらいに―感じられるとすれば、それは主として、彼のサートリス家との関わりが主に妹を介しての間接的なものであり、それ自体としてあまり強くないためだろう。逆のいい方をすれば、ホレスではなくヤング・ベイヤードが「主人公」に感じられるのは、彼がサートリス家の末裔であるからに他ならないわけだ。
そのように考えてきて興味深く思われるのは、フォークナーが小説をヤング・ベイヤードに関する叙述ではなく、二人の老人によるジョン・サートリス大佐―フォークナーの祖父がモデルとされる―についての回想で始めることにした点である(その結果、ヤング・ベイヤードの登場は第一部の終わりまで遅延させられた)。これはヤング・ベイヤードという「主人公」を「帰還兵もの」というロスト・ジェネレーション的なコンテクストのみに収めるつもりがない(あるいは、なくなった)こと、そしてもう一つのコンテクストとして「サートリス家の物語」が採用されたことを意味するだろう。
では、この「サートリス家」とは何なのか。それは「南部」の謂である、というのがひとまずの答となるだろう。実際、フォークナーがこの第三長編で「南部」を発見したというのは定説であり、そのことは、後年(一九五五年)の彼が述べた有名な言葉からもうかがえる―「『サートリス』をもって、私は自分自身の小さな郵便切手ほどの生まれ故郷の土地が、書くに値するものであること、そしてどれほど長生きしてもそれを使い尽くせはしないことを知りました」。南部の風景を彩るさまざまな動植物が詳しく描かれ、南部社会の多様な風俗が紹介されもする本書は、南部文化に関する最良の入門書でもある小説だが、自己の作品世界にそうしたリアリティを付与したことが、以後のフォークナー文学にもたらした厚みははかりしれない。
したがって、そのように発見した「南部」を、フォークナーが「私自身の宇宙」と呼んだことも理解できるのだが、ここではさらに、その「宇宙」の創造者として、彼が「空間だけでなく時間の相においても、[その世界にいる]人々を、神のように動かすことができる」と述べた事実にも注目しておきたい。フォークナーにとって「南部」の発見が決定的に重要だったのは、それが作品に空間的な広がりだけではなく、時間的な奥行きをもたらしたためだった。これは単に「歴史/過去」を題材にできるようになったということではない。「「かつて(was)」などというものはないのです―「いま(is)」だけがあるのです」という彼の最もよく知られた発言をふまえていえば、登場人物が生きる「現在/現実」を、常にすでに「過去」が織りこまれている重層的なものとして提示できるようになったということである。
その効果は、さっそく『土にまみれた旗』にあらわれている。つまり、ヤング・ベイヤードはトラウマを抱えた帰還兵であると同時に、滅びゆく南部名家の末裔としての運命を背負わされているということだ。おそらくフォークナーの狙いは、ヤング・ベイヤードを二つの「物語」の中心人物とし、その二つの物語―南北戦争(後)の物語と第一次大戦(後)の物語―を衝突させ、そこから「南部」を浮かびあがらせることだった。こうしたプロジェクトに鑑みれば、新世代のヤング・ベイヤードがサートリス家の伝統というものをほとんど意識していないように見えること、そして旧世代を代表する女家長ヴァージニア・デュプレ(ミス・ジェニー)がヤング・ベイヤードの戦争体験を結局は理解しない/できないことが、必然だったとも思えてくる。「南部」を包括的に扱おうとするなら、一九世紀の「旧南部」(厳密には南北戦争までの南部だが、ここでは南北戦争を経験した世代が中心の時代を指すこととする)と二〇世紀の「新南部」を簡単に融合させるわけにはいかないが、小説という場であれば、二つの南部=新旧世代それぞれの物語が互いに相対化しあうという形で、その「融合しがたさ」を昇華できるとも考えられるからだ。
とはいえ、『土にまみれた旗』におけるフォークナーの企図をこのように整理することが可能だとしても、新旧南部の物語をともに詰めこんだ上で一冊の小説としてまとめあげるのは、若い作家にとって難事だったことは間違いない。あらためて小説を俯瞰すれば、半世紀以上にわたる「サートリス家の物語」が全体を覆い、新南部の諸問題がややかすんでしまった感は否めないだろう(これはホレスの物語が後景に退いているという印象とも合致する)。もっとも、そこにこの小説のリアリティを感じることもできそうに思える。これは新興階級の勃興という新南部の生々しい現象を扱う『父なるアブラハム』が中断された事実とも整合するが(その痕跡はスノープスという姓を持つ数人の登場人物という形で本作にも残っているが)、自身が没落名家の末裔だったフォークナーにとって、「滅びゆく(旧)南部」という主題こそ、感情移入しやすいリアルな問題だったはずだからである。
ただし、むしろ強調しておくべきは、この段階のフォークナーに旧南部の魅力をその終焉まで含めて美しく描きたいという気持ちがあり(それは次作『響きと怒り』において見事に達成される)、それがときにノスタルジックな雰囲気を醸し出すにしても、彼が二〇世紀作家としての意識を手放してはいないことかもしれない。ミス・ジェニーが回想する死んだ男達の物語は、「サートリス神話」と呼べるほどに豊かではあるが、それが結局のところ「フィクション」でしかないことを、フォークナーは隠そうとしていないのだ。生き延びてしまった旧世代の男達―オールド・ベイヤードやウィル・フォールズ―はその「神話」の一部になりたがる(なお、若かりし頃のオールド・ベイヤードの姿は、のちに『征服されざる人びと』[一九三八]で描かれる)。だが、ヤング・ベイヤードは先述したように一族の伝統を意識することがほとんどない。戦死したジョンはまさに典型的な「サートリス」に見えるかもしれないが、これは彼が死んでいるために、都合よく「神話」に組み入れられたと考えることも十分に可能だろう(示唆的なことに、一九三一年発表の短編「みんな死んでしまった飛行士たち」に登場するジョンには、「サートリス神話」の人物に相応しい剛胆さや陽気さは稀薄である)。
ジョンとベイヤードがそれぞれ新世代としての問題を抱えていたとしても(あるいは生き続ければそうした問題に直面せざるを得なかったとしても)、彼らは死んでしまったために「サートリス神話」の「登場人物」として、伝統の中に吸いこまれる。この神話生成のメカニズムを小説内で体現するのは、もちろんミス・ジェニーである。彼女は自動車や医療に対する態度が示すように、時代の変化を頭ごなしに否定する女性ではないのだが、ことサートリス家の男達に関しては、その無茶をして華々しく死んでいく運命を、不変の宿命と見なしている。
こうしたミス・ジェニーの態度は、ヤング・ベイヤードを生前から「サートリス神話」の中に組みこんでおり、それはすなわち、彼をすでに「死者」と見なしているということになるだろう。これは一種の諦念であり、酷な見方をすれば処世術でもある。「サートリス神話」の語り部であることは、多くの死者達を見送ってきた南部淑女にとって、悲しみを誇りに変え、強く生きていくために必要なアイデンティティなのだ。
そしてこのように考えてくると、「サートリス神話」とは、ミス・ジェニー個人に限らず、南北戦争後の「南部」が必要としていたものだったと理解される。南北戦争に敗れた南部は、北部主導による屈辱的な再建期(一八六五―七七)が終わっても、経済的・文化的に後進エリアであり続けた。「古きよき南部」という美しいイメージは、そのような暗く惨めな時代に必要とされ、生み出され、広まった「神話」に他ならない。現在の観点から、それを「フィクション」にすぎないというのはたやすい。それどころか、その罪深さを指摘することさえ可能だろう―その現実逃避的な「神話」が、例えば黒人への差別を正当化するように働いたことを、本書から感じることもできると思う。
この小説を書いている時点のフォークナーが、その「罪深さ」をどこまで意識していたかはわからない。彼が旧南部の「神話」を徹底的に解体するのは、『アブサロム、アブサロム!』(一九三六)においてである。ただし、その「神話」がすでに機能しなくなっていることは、おそらく認識していたと思われる。小説の結末において、ミス・ジェニーの「サートリス神話」の語り部としての役割が新世代のナーシサに継承されたかどうかは曖昧だが(二人の「その後」が気になる方は、『サンクチュアリ』と、一九三三年発表の短編「女王ありき」をお読みいただきたい)、その「曖昧さ」を不徹底だと批判しても、さして意味はないだろう。この豊かな小説は、「神話」を必要とした旧世代への挽歌であり、そこから先に進んでいくしかないという新世代の宣言なのだ。そのような意味において、本書はまさしくフォークナー文学の故郷なのである。

最初に述べたように、本書は『土にまみれた旗』の初訳だが、『サートリス』には二種類の既訳があり、随時参照させていただいた。また、一九七三年版も(テクストの異同があまりに大きいので驚いたものの)解釈の助けとなったことを記しておく。注釈本としては(一九七三年版が対象だが)Linda Elkins McDaniel, Flags in the Dust (Garland Publishing, 1991) を利用し、固有名詞の表記は原則として日本ウィリアム・フォークナー協会編『フォークナー事典』(松柏社、二〇〇八年)に従っている。
個人的なことを書かせていただくと、訳者は二〇一〇〜一九年度、勤務校の大学院において、『土にまみれた旗』を精読する授業をおこない、多くの熱心な受講生に恵まれた。若い彼らから受けた示唆や刺激が、おそらくは訳者の意識をこえたレヴェルで、拙訳の随所に反映されていると思う。優秀な学生達に感謝したい。
授業の予習として翻訳を始めたときには、もちろん出版のあてなどまるでなかったのだが、まもなく読み終えるというタイミングで、河出書房新社の竹花進氏から何か訳してみたい小説があればという、まことにありがたいお声がけをいただいた。深く感謝する次第である。この僥倖により出版が決まったときには、原著が刊行されるまでの長い経緯を思わざるを得ず、フォークナーに対していささか疚しいような気持ちにもなったのだが、いまはただ、ダイヤの原石と呼ぶに相応しいこの小説を、一人でも多くの方が手にとってくださることを願っている。

二〇二一年三月
諏訪部浩一

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著者

諏訪部 浩一(すわべ・こういち)

1970年生まれ。アメリカ文学者。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。著書『ウィリアム・フォークナーの詩学』『アメリカ小説をさがして』『カート・ヴォネガット』他、訳書『八月の光』。

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