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「傷つけない、というズルさに、これほど自覚的な物語を私は他に知らない」 柚木麻子激賞! 佐原ひかり『ブラザーズ・ブラジャー』刊行記念、冒頭試し読み公開!

「相手にラベルをつけて思考停止に陥ることと、作者は全力で戦っている。傷つけない、というズルさに、これほど自覚的な物語を私は他に知らない」

――柚木麻子さん激賞!

 

朝倉かすみさん、久美沙織さん、柚木麻子さんが絶賛し、第2回氷室冴子青春文学賞大賞を受賞した、佐原ひかりさんの小説『ブラザーズ・ブラジャー』が発売となりました。本書刊行を記念して冒頭部分を公開します。

父の再婚で新しい母・瞳子さんと弟・晴彦と暮らすことになった、高校一年生のちぐさ。ある日、晴彦がブラジャーを着けているところに遭遇します。「おしゃれだからブラが好き」という晴彦を「理解」しようとしますが、ある言葉で傷つけてしまい――。性別や家族を越えて、「多様性」という言葉を越えて、ちぐさと晴彦はぶつかり合う!

繊細にユーモラスに、そして真っ直ぐに、新時代の才能が描いた傑作青春小説、是非お楽しみください。

 

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ブラザーズ・ブラジャー

佐原ひかり

 

 吹き抜ける涼しい風に乗って、金木犀の甘い香りがふわりと広がった。どこからか野焼きの匂いも漂ってきて、辺り一面に秋が立ち込める。

 百メートルほどの一本道を、すー、はー、と深呼吸を繰り返しながら歩く。

 じゅうぶん溜め込んだつもりだったけど、鍵を回して玄関に足を踏み入れた途端、つくりもののバラの香りが押し寄せてきて、うへえ、と鼻をつまんだ。残念ながら、瞳子とうこさんが持ち込んだアロマディフューザーは今日も絶好調らしい。

「ただいまあ」

 たたきには誰の靴もないけれど、一応、不在を確認してから上がる。

 リュックを開けると、お弁当の残り香と体操着の汗の臭いが同時に立ち上ってきた。こっちはこっちできついなあ、と顔をそむけると、またバラ。鼻の逃げ場がない。

 体操着の袋を取り出しながら洗面所に向かって、入り口で足を止めた。

 つま先からほんの二十センチほど先に、真っ赤なブラジャーが落ちている。奥の洗濯かごまで、あと一歩、というところだ。

 その場にしゃがむと、耳にかけていた髪がすべり落ちて、視界が黒く覆われた。受験期から伸ばし始めた髪は、そろそろ鎖骨に届く。いいかげん手入れがめんどうで、ショートにしてしまおうかと思った矢先、瞳子さんに言われた。綺麗な髪ねえ、と。それで、なんとなく切れずにいる。

 私からすれば、瞳子さんの、ゆるく波打つ栗色の髪のほうがよっぽど綺麗だと思う。ひかりをたっぷりと含んで、陽の下できらきらと輝いて。

 あかるい髪色、くりっとしたどんぐりまなこ、つやつやと赤い唇。瞳子さんがこういうブラジャーを着けているのは、なんとなく納得できる。

 それにしても、間近で見る他人のブラジャーというものは、なかなか迫力がある。カップの部分には、大輪のバラがいくつも刺繡されていて、肉厚の花弁は、細く黒い糸でふち取られている。白熱灯のやわらかな光を浴びて、ショーケースの中に並べられていてもおかしくないような高級感だ。こんな下着、今までこの家で見かけることは絶対になかった。

 手を伸ばして肩紐をつまみ上げてみようかと思ったけれど、なんとなくためらわれて、観察だけにとどめる。触っても、踏みつぶしても、放置しても。どうしたっていいはずなのに、扱いかねて固まってしまう。この感覚なんだっけ、としばらく考えて、ああ、と思い当たった。

 これは、小学生の頃、雨上がりの帰り道で沢蟹に出くわしたときの感覚に似ている。

 脇の水路から上がってきたのか、アスファルトの道路をのろのろと横断するそいつは、習字終わりに筆を洗ったバケツから出てきたみたいに、てらてらと薄墨色に光っていた。道路を横断しきる前に、そこのカーブから曲がってきた車や自転車にくしゃりとかれてしまうんじゃないかと、見かけるたび靴の中で指先をきゅっと折り曲げたものだ。

 目の前で、命がひとつ見える形で試されていて。

 こちらの選択を誰かにじっと見られているような緊張感と、そんな場にいきなり放り込まれたすわりの悪さに耐えられなくて、後ずさり、逃げ帰った記憶がある。

 そうだ。体操着。

 しわくちゃに丸めた体操着を袋から引っ張り出す。これを出しに来たんだった。

 立ち上がり、ブラジャーをまたぐのと同じタイミングで、玄関のほうからがちゃがちゃと鍵を開ける音が聞こえた。

 咄嗟とっさに、ブラジャーの上に体操着を落としてかぶせる。鏡に向かって前髪を整えるふりをしながら、瞳子さんが通り過ぎるのを待ったけれど、そのときは訪れない。

 かわりに、階段を上っていく音が聞こえる。どうやら、帰って来たのは晴彦のようだ。耳をすませると、上るにつれて、足音が軽快さを失っていくのがわかる。うちの階段は、段数が多い上に、一段一段が高い。晴彦たちは、以前マンションに住んでいたそうだから、余計にきついだろう。サイズの合っていない新品の学生服に身を包み、裾を踏んづけながら、いまいましそうに階段を上っていく姿が、ありありと想像できる。

 家族が増えるということは、生活に異物が増えるということだ。瞳子さんと晴彦がうちに越して来てから、つくづくそう思う。それはきっと、向こうにとっても、そうなんだろう。

 

 瞳子さんと晴彦を紹介されたのは、夏休みのはじめ、中華料理屋でのことだ。

 さとるくんに連れられ、夕方、駅前で待ち合わせしてからお店まではあっという間だった。気づけば、目の前にはくるくる回る円卓があって、その上にはチンジャオロースや小籠包、名前はわからないけれど、てかてかと光る油ぎった中華料理が並べられていた。

 これからは家族として同じ釜の飯を食べるんだぞ、という決意表明に参加させられているような気がして、ちらりと右隣を見やると、晴彦は身じろぎもせず、切れ長の目を憂鬱そうに伏せたままだ。細くとがった鼻先、きゅっ、と引き結ばれた唇、すっ、としたあごと、切れ味抜群の鋏で切り抜いたような、綺麗な横顔だ。

 中二って、こんな感じだっけ。

 パリッとした丸首の白シャツと、ゆったりとした生成きなりのパンツの、ややおとなっぽいオールホワイトコーデも――こんなの、高校生でもよっぽどセンスに自信がなきゃできない恰好だと思うけど――、たたずまいの清潔さと、その色白さを引き立たせていて、よく似合っている。ただ、どう考えても中華料理向きとは思えない。これ、絶対知らされてなかったやつじゃん、と同情する。

 私も中華はあんまり好きじゃないし、この円卓の向こうに透けて見える未来についても、もろ手を挙げて大賛成というわけでもないけれど、もうここまできたら、こどもが口をはさむ余地なんてない。

 結局、晴彦の分まで、私はけなげに無邪気に円卓をくるくると回し続け、油っこい料理をぱくぱくとたいらげていった。

 帰り道、べたつく体ともたれた胃に辟易へきえきしていると、悟くんがコンビニでアイスを買ってくれた。店を出てすぐ封を開け、外袋を悟くんに渡す。もうなにも入らないと思っていたけれど、棒付きのミルクアイスはやさしい甘さで、美味しかった。

 家の近くの公園に来たあたりで、悟くんが普段あまり見せないまじめな顔で、「いいかな?」といてきたので、「いいよ」と答えた。

「ほんとに? まじで?」

「いいよいいよ」

「ちぐさが嫌だったらやめる」

「いいって。アイス溶けるから話しかけないで」

 アイスをめながらおざなりに返すと、いいんだな、ともう一度訊いてきて、私は無視した。

 その一ヶ月後、二人は私と悟くんの家にやって来た。

 引っ越しの段取りや晴彦の転校手続きなんかはおどろくほどスムーズで、スピーディーだった。私に話を通す前に事を進めていたのは明らかで、なんじゃそりゃ、とあきれた覚えがある。あのとき私が「よくない」と答えたら、どうするつもりだったのか。

 体操着ごとブラジャーを拾い上げ、洗濯かごに放り入れる。

 深く息を吸おうとしたら、きついバラの香りにむせてしまった。

 私と悟くんの家の匂いと、瞳子さんが持ち込んだアロマディフューザーの匂いは、未だに混じり合えていない。

 私たちはいつか、きちんと同じ空気を吸って吐き合える家族になれるのだろうか。

 

 家族が増えた、ということを話したのはともくんにだけだ。絵美にも毬江まりえちゃんにも言っていない。わざわざ言うようなことでもないと思ったからだ。

 そもそも、二人には父子家庭であること自体告げていない。私は、晴彦のように転校するわけでもなければ、名字が変わるわけでもない。言われたほうも、それがどうした、と反応に困るだろう。もっとも、智くんは絵美のお兄ちゃんでもあるから、いつかは絵美にも話がいってしまうんだろうけど。

 智くんは、私に関するどんな些細なことも知りたがる。

 靴のサイズを知っては、ちいさい足だなあ、とよろこぶし、席替えしたとあらば、いったいどのあたりなんだとか、周りにはどんな人がいるんだとか、根掘り葉掘りと訊いてくる。私の足は智くんの足ではないし、学年も違うのだから、そんなこと知ったってしょうがないのに、智くんは知りたがる。

 だから、とっておきの秘密を打ち明けるみたいに、誰にも言ってないんだけどね、と前置きして、おかあさんと中二の弟ができたことを無難に簡潔に述べていった。

 智くんはひと通り聞き終えた後、訳知り顔で、よかったじゃん、と言って、私の頭を撫

なでてきた。

「よかったのかな」

 今のところ、素直にそうは思えない。

 見切り発車でスタートした生活に、誰も彼もがあわてて飛び乗って、まだ自分の座席も見つけられずにいる。大切なものを置いてきてしまった気もする。

「家族が増えるのはいいことだろ。それに、ちぐさの負担が減る。今まで家のことはぜんぶ、ちぐさがしてきたわけだし」

 うんうん、とうなずく智くんに、曖昧に笑って返した。

 私が父子家庭だと知った智くんは、どうやら家事のすべてを私が担っていると思っているふしがある。たぶん、智くんのうちでは、家事はおとうさんがするものじゃないんだろう。

 でも、うちでは、家事は昔から悟くんがすべてやってくれていて、恥ずかしながら、洗濯機の正しい使い方や、野菜の相場なんて私にはさっぱりわからない。包丁は調理実習でしか使ったことがないし、作り置きがない日や、悟くんの帰宅が遅い日は、コンビニのおにぎりやお弁当ですませているのが実情だ。

 けれど、智くんは、毎日のお弁当も私が作っていると信じて疑っていない。

 悟くんお手製の肉じゃがを食べて、ちぐさは料理上手だ、なんてうれしそうにしていたときはちょっと笑いそうになった。

「でも、心配だな」

 智くんがふと顔を曇らせた。

「心配? なにが?」

「弟だよ。中二の弟ができたって言ってたじゃないか。そいつ、絶対ちぐさのこと好きになるよ」

 深刻な面持ちに、思わず吹き出してしまった。よりによって、その心配とは。

「ないない。絶対ないよ」

「でも、絵美が持ってる漫画に出てくる義理のきょうだいってやつら、百パーセントの確率でくっつくぞ。それで、俺みたいなのは、相手がきょうだいだからって油断して、最後に泣きを見るんだ」

「それは漫画の話だよ」

 でもなあ、と智くんは食い下がった。

「俺が中二のときにちぐさみたいな姉貴ができたら、絶対好きになるよ。かわいいしやさしいし、そんな女の子とずっと一緒に過ごしてたら夜もまともに眠れない自信があるね」

 堂々と言い切られて、なにそれ、とこちらのほうが照れてしまう。

 思ったことがすぐに顔に出て言葉になるのは健全な証拠だ。かわいさもやさしさも、私が智くんのためにこしらえたもので、それをふるいにかけず、そのままそっくり受け取れるのは、健やかに育ってきたあかしだ。智くんのそういったところが、私はとても好きだ。

 中三の夏、初めて絵美の家に遊びにいったときも、そうだった。

 当時高校一年生の智くんは、なんやかんやと理由をつけては部屋にやってきて私の目にとまろうとしていた。顔には「好きになりました」と書いてあって、ほほ笑みかけると真っ赤になるし、目をらすとしょげかえっていて、そのわかりやすさにいとしさを感じた。

「とにかく、そういうのじゃないんだって。全然なついてくれないし、ずっと不機嫌そうに眉間にしわ寄せちゃってさ。顔立ちは悪くないのに損してるよ、あの子」

「ふうん。そいつ、かっこいいの?」

「そこそこ。かっこいいっていうより、綺麗かな。色白で、しゅっとして、つるん、ってかんじ。左目のきわに涙ぼくろがあったりしてさ。雰囲気あるよ」

「涙ぼくろなら、俺にもあるだろ」

「智くんのそれはこめかみだよ。ま、智くんのほうがかっこいいから安心してよ」

 笑って見上げると、智くんの熱っぽい瞳とぶつかって、あ、と思う。スイッチを入れてしまった。

 右手が、骨張った手にすっぽりと包まれる。

「ちぐさ、テスト勉強はどう。はかどってる?」

 声にすこし、緊張が混じっている。それに気づかないふりをして、うーん、とうなる。

「それなりかな。智くんは?」

「誰に訊いてんの?」

 智くんがいたずらっぽく笑った。

 智くんは賢い。テストの総合順位も、ずっと一桁をキープしている。それに、サッカー部のエースで、生徒会副会長。顔もかっこよく、素直で明るく友だちも多い。にくらしいほど、文句のつけどころがない人だ。

「俺はけっこう余裕あるしさ、もしちぐさが行き詰まってるなら、教えられるけど。なんなら、今からうち来てもいいし」

 なんでもないようにさらりと言ったけれど、手は汗ばんでいるし、力が入りすぎている。親切心の下から漏れ出すもろもろを、隠し切れていない。ほんとうに、考えていることが丸わかりだ。

 私だって、智くんと触り合うのは嫌いじゃない。

 智くんは普段、部活に生徒会にと大忙しだし、こうやって一緒に帰れるのも、テスト前で部活が休みのときだけだ。付き合って一年ちょっと経つし、智くんの大きな手に顔を包みこまれるのも、あたたかい唇を押しつけられるのも、かがみこまれて抱きしめられるのも、好きだ。その先も、よくわからないけれど、智くんとならまあいいんじゃないか、と思う。

 問題は、下着だ。

 私の下着は、ちっとも女らしくない。

 ブラジャーは昔、悟くんが買ってきてくれた布地のスポーツブラのままだし、パンツも綿製で、くたびれている。中学の途中で発育が止まって、特に不満もなかったから、それ以降買い換えることもなく高校に上がって、おどろいた。

 大半の子は、こんなこどもっぽい下着なんて着けていなかった。量販店のワゴンから選ぶんじゃなく、みんな、ちゃんと下着の専門店にいって、好みの下着を選んでいた。

 それから、レースや花柄の刺繡があしらわれた可愛らしい下着に密かに憧れたものの、悟くんにお小遣いをねだって買いにいくほどの気概はなかった。

 その頃、洗濯をしてくれていたのは悟くんだ。ばれずに買い換えるのは至難の業だった。自分でこっそり洗うことも考えたけれど、ばれたときの居たたまれなさや、実際の手間を思うと、そこまでして欲しいとも思わなかった。

 ところが、最近、そうも言っていられなくなってきた。

 智くんと、そういう雰囲気になることが多い。

 なる、というより智くんがその流れを作ろうとしていると言ったほうが正しいかもしれない。

 ふたりきりになったらすぐに触りたがるし、キスのときも、前よりしつこく唇を合わせてくる。隙あらば体のすみずみまで触りつくしてやろう、という気配が以前よりも格段に濃くなってきた。

 でも、こんな下着じゃ、絶対にだめだ。失望される。すぐに顔に出る智くんの、がっかりした様子が目に浮かぶようだ。そして、智くんはやさしいから、それを悟らせないよう振る舞うに違いない。そんなことをされたら、恥ずかしさで死んでしまう。

 クラスメイトみたいに専門店で買えばいい話だけど、勝手がよくわからないから、ひとりで入るのは正直こわい。絵美は智くんに話が筒抜けだから論外として、他の友だちにだって、「下着のことがわかりません、ついてきてください」なんて、お願いできる気がしない。

 洗濯の問題は瞳子さんが来てくれたおかげで解決したから、ほんとに、あとはもう、買うだけ、なんだけど。

「ちぐさ?」

「あ、ごめんごめん。範囲思い出してたんだけど、今回は自力でもいけそう。それに、今日、おかあさん出かけてるから、私が晩ご飯作らなくっちゃ」

「そっか。なら仕方ないな。また今度」

 残念そうにつぶやく智くんの様子に、ほっとする。

 私は案外、平気でうそをつける。だから、智くんとうまくやっていけるのだ。

 

 家に帰ると、瞳子さんはほんとうに出かけていた。玄関には、白い運動靴が一足だけ。晴彦は帰ってきているようだ。

 ローファーを脱いで、横に並べる。この間まではそのまま脱ぎ散らかしていたけれど、晴彦がやけにきちんと靴を揃えるものだから、なんとなくそれに合わせて揃えるようになった。

 晴彦の靴は、意外と大きい。

 今は私より背が低いけど、もしかしたらこの先抜かれるのかもしれない。つるつるとしたあのあごに、いつかひげが生えたりもするんだろうか。悟くんといっしょに、洗面台でひげを剃ったり?

 想像もつかないし、大きくなられたら家が余計に狭く感じるから、できたら今のままでいてほしいなあ、と階段を上っていく。そのまま、正面にある部屋の引き戸に手をかけた瞬間、あ、違う、と気がついた。そういえば、夏休みの終わりから、晴彦に明け渡したんだった。

 気づいても、戸をすべらせる手は止められない。ごめん間違えた、と謝ろうとして、目の前の光景に固まった。

 晴彦が、ブラジャーを着けていた。

 正座の状態から腰をすこし浮かせて前屈まえかがみになり、手を後ろに回して、ホックを留めている最中だった。

 薄っぺらく真白い、ほくろがまばらに散っている上半身に、黒いブラジャーが吸い付くようにぴったりとはりついていて、体の一部のようにさえ思えてくる。

 何度まばたきしてみても、目の前の光景に変わりはなかった。

「閉めろよ。寒い」

 声をかけられて、はっとする。口が開いていたことに気づく。よだれが垂れかけていた。

 閉めろ、と言われてそのまま閉めればよかったのに、私は何故かあわてて部屋の中に入って、後ろ手で戸を引いてしまった。その行動には晴彦も予想外だったらしく、は? と眉根を寄せた。

「えっと」

 なにか言わなくては、と焦る。

 これはあれだ、あの、保健とか、道徳の授業で習ったやつだ。LGBTってやつ。

 テレビドラマや漫画にはよく出てきていたけれど、実際に見るのは初めてだ。生まれもった体の性と心の性が異なるとか、同性を好きになるとか、そういうやつ。それに違いない。そうじゃなければ、ブラジャーなんて着けないはずだ。

「晴彦くんはさ」

「くん付け要らない。気持ち悪い」

 ぴしゃりと言葉をさえぎられ、うっ、と詰まる。そして、やっぱりそうだ、と思う。心が女の子だから、くん付けされることを嫌がるんだ。

 慎重にいかなければ。

「……晴彦は、心が女の子なの?」

 いとわしげな声音こわねにならないように気をつけてたずねたつもりだったけど、晴彦の眉間のしわはいっそう深くなった。

「はあ? なんでそうなるわけ?」

「その、それ、ブラジャー。着けてるじゃない。あの、あれ、LGBTってやつなんでしょう。体がたまたま男の子のつくりになっちゃったけど、心の性は女の子で、みたいな」

 目を泳がせながら説明したら、晴彦は意味がわからないとでも言いたげに、腰に手を置いて首をかしげた。

「おれ、どっちも男だよ。別にそのLGなんとかってやつじゃない」

「うそ」

「なに? そうじゃなかったらブラ着けてちゃだめなわけ」

「だめじゃないけど」

 いや、だめなんじゃないか。反射的に答えてしまったけれど、だって、ブラジャーって女性用の下着だ。

 はっ、とひらめく。前にニュースで見たことがある。庭先から盗んだ下着をかぶっていた、アブナイおじさんが捕まったって。ブルーシートの上に並べられた押収品の映像が、鮮烈に記憶に残っている。もしかしたら晴彦は、ゆくゆくはそういうおじさんになる素質を持った人間なのかもしれない。

 ごくり、とつばを飲み込みおそるおそる訊ねた。

「もしかして、そういう性癖の」

 言い終わる前にクッションが飛んできて、太ももに当たった。

「ちげーよ! ファッション! ふつうにおしゃれでやってるんだよ!」

「うそ!」

 思わず叫んでしまう。

「いったいブラのどこがおしゃれだって言うのよ」

「どこって……。デザインとか、形とか、おしゃれじゃん……。刺繡だって、すげえし……」

 訊ねると、晴彦は意表を突かれたようで、途端に弱った声を出し、困り切った表情を浮かべた。一足す一がどうして二になるのかを説明させられているみたいだ。

 その表情に、私のほうが焦ってしまう。あわてて、うんうん、とうなずいた。

「いや、そうだよね、おしゃれだよね。レースとか刺繡とかすごいし、着けてたら華やかな気持ちになるよね」

 そんなブラジャー着けたこともないくせに、早口で肯定する。

 否定だけは絶対にしちゃだめだって、先生も言っていた。わかってあげないといけない。変だな、なんて思っちゃいけない。

 ブラジャーが、おしゃれ。

 晴彦の言葉を、反すうする。

 あんまり意識したことはなかったけど、確かに、晴彦が今着けている真っ黒のブラジャーはとても綺麗だ。なめらかで光沢のあるカップ沿いには、羽根のような刺繡が施されていて、それ自体は控えめだけど、質感が違うからか、ひと模様ごと、くっきりと目立つ。肩紐は、鎖骨の下あたりからカップの曲線と平行を保ちながら谷間まで流れ落ちている。合流地点のカップ同士の隙間は、五線譜のような細い紐でつながれていて、全体的に締まった雰囲気がかっこいい。クラスの女子でも、こんなブラを着けている人は見たことがない。

 しばらく観察しているうちに、あることに気がついた。

「それ、もしかして、自分で買いにいったの?」

 瞳子さんのブラジャーをこっそり拝借しているのだと思っていたけれど、それにしてはサイズが小さすぎる。洗面所で見たあの真っ赤なブラジャーのカップは、こぶし一つはゆうに収まるくらいあった。

 晴彦が今着けているブラジャーは、伸ばしたてのひらをぴったりと胸に当てたみたいで、晴彦の骨や肉のラインに綺麗に沿っている。

「そうだけど」

 晴彦が平然と答えた。

 すごい勇気だ。

 女の私でさえ、あのきらびやかな店構えに尻込みして乗り込めずにいるのに、中二の男の子が自分の好みのブラジャーを選んで購入するなんて。

 それに、あの、ホックを留める慣れた手つき。

 私はホックを留めるのが苦手で、手持ちのスポーツブラの中でも、ホックつきのものは敬遠してしまう。どうしてもそれしかない、ってときでも、胸の下で留めてから後ろにくるっ、と回していて、とてもじゃないけど、あんな風に後ろ手では留められない。ブラジャーに関して言えば、晴彦のほうが私よりよっぽど先輩だ。

 先達せんだつはあらまほしきことなり。

 突然、その一文がぱっ、と脳内で再生された。

 今回の中間テストの、古文の単元だ。兼好法師の、徒然草。確か、一人で行動したお坊さんが失敗する話。

 どんなことでもその道の先輩がいてほしいよね、という結びに、絶対テストに出るよここ、とみんなでマーカーを引いた箇所だ。

 先達はあらまほしきことなり。

 いるじゃないか、先達。ここに。

「ねえ、中間テストっていつ終わる?」

「……今週の金曜には終わるけど」

 突然の話題転換についていけないのか、晴彦はげんそうな表情を浮かべている。

 頭の中で、自分の学校のテストスケジュールを思いめぐらせる。今日が月曜日で一週間前だから、来週の水曜日には終わる。ちょうどいい。

「来週の土日、どっちか空いてない? あ、それとも、部活とかある?」

 よくよく考えたら、私は晴彦が転校先でどんな部活に入ったのかも知らない。部活も、星座も、誕生日も、なにが好きで、なにが嫌いかも知らない。というより、まともな会話自体これが初めてかもしれない。

「いや、ない。おれ、文化部だから、土日とか活動しないし」

「へえ、文化部なんだ。何部に入ったの?」

「生物部」

「生物部……。生物部ってなにしてるの」

「そりゃ生き物の世話したりとかだよ。っていうかなに? 土日がなんなの」

 話が逸れてしまった。せき払いをして、仕切り直す。

「来週の休みにさ、私と一緒に買い物してくれない?」

「買い物?」

「うん。下着を買いにいきたいの」

 晴彦が、ぽかん、と口を開けた。

 眉間のしわが消えて、年相応の幼い顔つきになる。そのほうけた顔を眺めて、言葉が足りなかったことに気がついた。口早に説明を加える。

「私、かわいい下着が欲しいの。でも、今まで買いにいく機会がなかったの。だから、下着に詳しい晴彦についてきてもらえたら心強いな、って」

「一人でいけよ、そんなの」

 すげなく断られた。

 もっともだ。一人でいけるのなら、私だって一人でいく。

「勝手がわからないのよ」

「勝手もなにも、いって選んで試着して買うだけだぞ」

「それができないからこうやって頼んでるんだって」

 気づけば、じりじりと後退していく晴彦をベッド際まで追い詰めていた。

「晴彦、お願い。私、恥ずかしい話だけど今までスポブラに綿パンとか着けてたわけよ。量販店のワゴンとかで売ってる、色気もへったくれもない下着をさ。高校生女子がそれじゃあちょっとまずいの、わかるでしょ。あんたも、ブラをファッションだって言うなら、自分の姉ちゃんがそんなださい下着つけてるの、嫌でしょ」

 恥を忍んで実情をまくし立てる。

 私のなりふり構わない懇願に気圧けおされたのか、晴彦はついに、まあいいけど、とうなずいた。

「土曜はおれ、出かけるから。日曜にして」

「わかった」

 休みの日に出かけるような友だちいたんだね、という余計な一言はすんでのところで飲み込んで、お礼を言った。

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続きは佐原ひかり『ブラザーズ・ブラジャー』でお読みください!

 

激論・氷室冴子青春文学賞最終選考レポはこちら

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第2回氷室冴子青春文学賞 審査員講評はこちら

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著者

佐原ひかり

1992年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部卒。2017年、「ままならないきみに」で第190回コバルト短編小説新人賞を受賞。2019年、「きみのゆくえに愛を手を」で第2回氷室冴子青春文学賞大賞を受賞。

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