単行本 - 日本文学
モテの身体性──片岡義男の小説はいつもいいにおいがする
評者・町屋良平
2018.10.04
片岡義男『くわえ煙草とカレーライス』書評
コーヒー、カレーライス、万年筆のインク、玉子サンド。片岡義男の小説はいつもいいにおいがする。いくつも登場する喫茶店は香りに満ちていて、とびきり居心地がよさそうだ。たとえばこんな描写。
〈コーヒーをひと口だけ飲んだ彼女は、自分はいま考えごとをするのだ、と思った。なにについて考えるのか。なにごとかを。このような時間が好きだ、とも彼女は思った。このような時間はコーヒーに常にともなうのか。町の喫茶店でなければいけないのか。いま自分の周囲には人がたくさんいる。しかしどの人とも関係はない。そこがいいのか。とりとめもなく考えているうちにコーヒーは半分となり、やがて飲み終えた。〉
このように魅力的な喫茶店で登場人物たちはさまざまに人生の物語に出会い、別れをくりかえす。その一大事の多くは恋愛ごとで、登場人物たちは色とりどりにモテている。
僕はどちらかというと登場人物たちがモテている小説がすきだ。恋愛感情が昂った状態には、かんたんには描写におちない神秘がある。情緒が舞い上がっていて、自分のことも相手のことも冷静にみられず、登場人物、書き手、読み手の三者それぞれに認識のズレがおおきくあって、それぞれの感情がひたすらドタバタしてしまう。つまりモテとは限定的に異常な身体感覚にある体のことだ。常に更新されつづけるあたらしい体のこと。そのさなかでしっかりと言葉との関係を結ぶのは、とてもむずかしい。書き手が通俗にまみれずに自らの身体感覚と向き合うための意識が要る。片岡義男の小説はどの作品を読んでも、運動神経のすぐれたひとの書く文章でできていると感じる。
統制できない感情がみせる風景は、どれも魅力的に混線しておりとてもおもしろい。うまくいきかけている恋愛というのは物語としてドラマや映画、小説やマンガで数多く流通しているからこそ、個々人の感じかたの違いとそれらはぶつかり、「物語とぜんぜん違う!」と驚嘆することの連続で、その戸惑うモテのどれもがいじらしくおもしろい。あたらしい恋の小説が書かれることで、僕らのままならぬあの感情も、この鬱屈も、あたらしいことばと出会っていき、ふくらんでゆく。恋愛小説と括られるものが、現在にいたってもいきいきと隆盛しているのには、そんな理由があると思っている。現実に要請されて小説は書かれ、小説に要請されて現実はふくらむ。このように〈小説〉と〈小説外の現実〉は、地続きにあり、区別できない。小説に描かれたモテと現実のモテは関係しているのである。過去の小説に描かれたモテ、未来の小説に描かれるモテは共振しあい、モテのオリジナルを「志向する」、そうしてわれわれの生きる〈現実空間〉そのものもあたらしさを「志向する」。このようにあたらしくて心地よい場所が『くわえ煙草とカレーライス』に収録された小説たちのなかに生まれ、ずっとそこにいたい気持ちになる。片岡義男の小説に書かれる、喫茶店みたいに。
町屋良平