単行本 - 外国文学
演劇の本質を用いて描かれる小説的な小説──『リンカーンとさまよえる霊魂たち』書評
評者・岡田利規
2018.10.11
小説では登場人物がその世界の中で発した言葉のことをせりふと言うけれど、演劇だと舞台上で役者が発する言葉のことをせりふと言う。ふたつは全然違う。役者が舞台上で発する言葉が、その役者が演じる登場人物が作品世界内で発する言葉だとは限らないから。小説では地の文というのはせりふとは区別されているけれど、観客に直接話しかけるという仕方で状況を描写する性質の言葉だとしても、役者が舞台の上で発している言葉である以上は演劇ではそれはせりふだ。
ジョージ・ソーンダーズの『リンカーンとさまよえる霊魂たち』は、演劇における意味でのせりふで書かれた、南北戦争まっただ中のアメリカを舞台にした小説である。この小説の舞台(舞台セットは墓地)に登場してせりふを発するのは霊魂たちだ。彼らはこの小説の登場人物であるが、それ以上にこの小説の役者であると言うのがふさわしい。役者と登場人物とは異なる。役者は小説では地の文と呼ばれるところの状況描写のせりふを舞台上で発することもあるし、そもそも役者として舞台に出てくるわけではない登場人物というのもいる。本書においてはリンカーンがそうだ。
この小説で描かれるメインのエピソードは、大統領エイブラハム・リンカーンとその息子ウィリーの霊魂をめぐるエピソードだ。たった十一歳で逝ってしまった息子への、抑えきれない父親の思いが、それを傍らから眺めていた霊魂たちによって語られ、胸を打つ。霊魂たちはリンカーンをただ傍観しているだけではない。その中に入り込んで、彼の心身を導こうとするときもある。リンカーンの身体の中に入って、身体の動きをリンカーンと同化させるのだ。霊魂たちの生きている世界では、そういうことができるらしく、僕の生きているこの世界では視覚化することの難しいそうした描写が、しかしこの小説の中では生き生きと、手に取るように克明に行われている。この小説家は、描写力がすばらしい。
霊魂たちはときに一行単位でテキストを分担して発するような仕方で、ときに誰かひとりの長ぜりふという仕方で、リンカーンのことのみならず、自分たちのことも語っていく。彼らの今いる死後の世界のありようをこの小説の読者に対して、というよりもこの小説の観客に対して伝える。それぞれの霊魂がかつてどのように生きていたか、どのように死んだのか、そして今ここで、どのうな思いに苦しめられながら霊魂として存在しているか。彼らの語りからは、それにともなう身振りが見える。舞台の上で身振りをともないながら語る彼岸の霊魂たちと、観客席という此岸からそれと対峙するわたしたち読者。舞台の上はあの世にするのが容易(たやす)いというのは、演劇の本質的な特徴だ。小説において死後の世界を描き出すためにジョージ・ソーンダーズはそれを用いた。小説を演劇的にするためにではない。声なき者(ここでは、死者)に声を与えるという、文学のオーソドックスなはたらきをできるだけ力強いものとして発揮させるために、きっとそうしたのだ。それはものすごく成功していると僕は思う。
岡田利規