単行本 - 日本文学

【試し読み】菅野彰の新境地! 少年の左腕に残る火傷の痕に残された真実を巡る、 心揺さぶるストーリー! 『硬い爪、切り裂く指に明日』1

【試し読み】菅野彰の新境地! 少年の左腕に残る火傷の痕に残された真実を巡る、 心揺さぶるストーリー! 『硬い爪、切り裂く指に明日』1

宮城県の海のある街に暮らす高校生の平良。
もうすぐ16歳の誕生日を迎える彼は、共に暮らす極端に若く見える眞宙が実の父親ではないと気づきながらも、
かたわらに在り続けることを強く望んでいた。
眞宙と平良の本当の関係は?そして平良の選んだ道とはーー?

 

 十二月二十五日クリスマス当日の三歳の誕生日、三本の 蠟燭ろうそくの炎からまるで映画が流れ出すように、 鹿目平良かのめたいらの記憶は始まる。
 高校一年生の九月を迎えて、あと三か月で平良は十六歳になる。クリスマスに。
「涼しくなってきたな」
 宮城県の、海がある大きな市の新興住宅地に建てられた、まだ新しい建材の匂いがする一軒家のリビングで、平良は朝食のトーストをかじりながら呟いた。
「そうだね。牛乳あっためる?」
 五百戸が整然と並ぶ住宅地の、きっとどの家とも代わり映えのしない一階のリビングで、テーブルに向かい合って座っている青年、鹿目眞宙まひろも、同じ六枚切りのパンを手にしている。
「もう三杯目だよ」
 少しだけ自分より目線の高い眞宙を、明るい窓の方向に見ながら、平良は口を尖らせた。
「だけど」
「高校生になって、二センチも伸びたんだぞ?」
 おっとりと眞宙が笑うのに、自分の身長がまだ百七十センチを超えないことを少し揶揄からかっているのだとわかって、わざと平良がふて腐れる。
「眞宙の背なんか、あっという間に追い越すから。俺」
 牛乳をたくさん飲みたがるのは背が思うように伸びない平良自身だったが、自分よりまだ五センチは背が高い眞宙を挑むように見た。
「楽しみにしてるよ。そしたらその制服、買い換えないと」
 四月に夏服と冬服と一度に新調してくれた、仙台市内の大きな私立高校の白いシャツを、眞宙が軽く指差す。
 まだ夏服なのでシャツは半袖で、ズボンは生地が変わるだけで夏も冬も濃いグレーのチェックだ。冬にはここに、エンブレムのついたネイビーのジャケットを羽織る。エンブレムは校章と同じ朱雀すざくのモチーフで中国の神話に出てくる神の鳥だそうだが、君たちがやがて青年に成るという意味としての朱雀だと、学園長の意味のわからない長い話を聞いた。
 ネクタイは少し変わった鮮やかな深い青で、青藍せいらんという色だそうだ。平良は気に入っている。
「来年にはすぐだ」
 いつかは百八十センチを超えるつもりの平良が、勢いよく牛乳を飲む。
 それを笑って見ている眞宙は、ずっと家で仕事をしているからきちんとする必要がないので、髪は伸びるままにして後ろで一つに結っていた。肩甲骨に届くと結った髪ごと一度に短くするので、平良はそのときを換羽かんう期と呼んでいる。
 換羽期とは、鳥の羽毛が抜けかわる時期だ。
 眞宙の髪は、換羽期までは伸びているだけという、本当にただの髪だ。鳥の羽根のようなものだ。
 だがただの髪の割りにはたちがよく、黒が深くてほんの少しの癖もない。夜の闇よりきれいだ。
 逆に若干だが色の薄い髪を、平良はごく普通に耳に掛かっては眞宙にバリカンで梳いてもらっているが、平良の換羽期と眞宙の換羽期では、床に落ちる羽根が全く違う鳥の羽根だった。
 眞宙は川面を波打つように過ぎ去る鶺鴒せきれいのようで、平良は自分をたか だと思っている。
「じゃあ、制服貯金しなくちゃね」
 子どもの頃眞宙と山を歩いたときに、川の上流で鶺鴒を見た。きれいな鳥だけれど鋭利で、美しいのか怖いのかと惹きつけられいつまでも目で追っていたら、「鶺鴒だよ」と眞宙が教えてくれた。
 いつも驚くけれど、眞宙はただ家にいるだけなのに本当によくものを知っている。鶺鴒は神様に子どもの作り方を教えた鳥で、だから国が生まれたのだとも、そのとき眞宙は平良に話した。
 川べりの石を たわむれのように長く歩いていた鶺鴒は、不意に飛び立った。その尻尾が長く伸びた美しい形から、まっすぐ飛んで行くと平良は思い込んで見ていたら、まるで違った。
 惑わせるように、羽ばたいたり波打ったり、何処へと思わせて鶺鴒は空に消えた。
 あの白と黒がきれいに分かれているようで境目が曖昧な鳥は眞宙だ。
 神様に子どもの作り方を教える美しく賢い鳥は眞宙そのもので、自分は鷹だ。
「私立だから、制服高いよな。ごめん」
 自己認識は常に過剰にも不足にもならないように、平良は注意深く己を見張っていた。
 自分はまだ、子どもの鷹だ。
 鷹だけれど子どもだから、強くはない。だけど鷹だ。
「なんで謝るの。他にお金使うことなんか何もないよ、平良のことの他に」
 やさしい、やわらかい、何故なのか何処かガラスの破片のような眞宙の声が、けれど平良は好きだ。
「眞宙」
 眞宙が毎朝作ってくれる、ベーコンエッグとトーストとブロッコリーという朝食を食べ終えて、残っているインスタントのスープを手に取りながら平良は眞宙を呼んだ。
「なに?」
 やわらかいきれいなガラスのような声をたてる父が平良はとても好きだけれど、眞宙は全く、世間でいうところの父親というイメージではない。眞宙はそこから懸け離れて一点も重ならない。
 だが、眞宙は平良の、実の父親だった。
「いや、なんでもない」
 足下の濃紺の学校指定バッグの中に、一枚のプリントが二つに畳んで入れられている。
 その紙には、二年生に向けて進路相談のための三者面談連絡が書き込まれていた。
「平良はよく、それ言うね」
「どれ?」
「なんでもない」
「気になるか?」
 まっすぐ眞宙を見て、平良は尋ねた。
 小学校三年生まで、平良は眞宙を「パパ」と呼んでいた。名前で呼ぶように意識して変えたのは、外で平良が眞宙を「パパ」と呼ぶと人はおかしな顔をすると気づいたからだ。
 平良が今最も関心のあることは、十六歳の自分の精子でもきちんと受精に至るかということだった。
 自分の体は今現在、完全な大人の雄だと平良は思えなかった。身長のことだけではない。眞宙がどんな十六歳だったのかは知らないけれど、自分より大人だったとはとても想像できなかった。
 平良は三か月後に十六歳になるところで、眞宙は「うっかり十六歳で平良ができたんだ」としか言わないが、そうすると現在三十二歳だ。平良が十歳のときに思い切って歳を訊いたら、二十六歳だとあっさり答えが返った。
「平良が本当になんでもないなら、気にならない」
 笑う眞宙は、今やっとそのくらいに見えるか見えないか、そんな感じだ。
 十歳のとき平良は眞宙に年齢を聞いて、学校にあったパソコンで、二十六歳の芸能人やスポーツ選手を検索して片端から顔を見てみた。男も見たし、女も見た。外国人まで見た。
 どう見ても眞宙は二十代の人と同じに見えず十代に見えたのだが、そういうこともあり得るのだろうかとブラウザを閉じた。
「本当になんでもないよ」
 自分は眞宙がいくつに見えてもかまわないが、十ほどしか離れて見えない実父と三者面談に行くのが厄介だとは知っていて、平良は足下の鞄を見ることもしなかった。
 キッチンと繫がっているリビングのテレビボードの引き出しに、判子が二つ入っている。大人びた筆跡で欠席の理由を書いたり委任状を書いたりして、眞宙の名前を書いて判子をつくことに平良はすっかり慣れている。
 そのこと自体は、平良にとってたいした苦労ではない。
 老けて、太って、禿げて、その辺のおじさんみたいになってと、そんなことを願っていた時期は、とうに通り越していた。
「今日も家で仕事か、眞宙は」
「うん」
 二階にそれぞれの寝室が二間、一階にこのリビングやバストイレと、奥に眞宙の仕事部屋が、この家の中にはあった。
 仕事部屋には鍵が掛かっていて、それは四年前にこの家に越してくる前に仙台市で住んでいたアパートでも、その前に東京の何処かで住んでいたアパートでも、その前にやはり東京の何処かで住んでいたアパートでも、更にその前に東京の何処かで住んでいたアパートでも、同じだった。
 どんな小さなアパートでも二間はあって、その一つに眞宙は鍵をつけて仕事をする。
 そして、月に一度ほど、平良が布団に入った頃に誰かが訪ねてくる。時間、足音、ほんの少し漏れ聞こえる声から、その誰かは変わらず同じ人物だとはわかった。
 その鳥がどんな鳥なのか、平良はまだ一度も見たことがない。見たことはないが、からすのように感じていた。
「眞宙、引き籠もりだな。陽に当たれよ。白いよ。白い白い。……ごちそうさま」
 その鍵つきの部屋が必ずあることも、その部屋で眞宙がどんな仕事をしているのか全くわからないことも、知らない鴉が来ることも、平良にはもはや苦ではない。
 椅子から立ち上がってキッチンに立って、平良は自分の分の食器を洗った。
 ずっと平良と眞宙は二人きりの親子で、それぞれできることはこうしてできるときにできる方がやる、とても気楽ないい家族だ。
 そう、平良は思っている。
「印鑑一つ、借りるよ。青いケースの方」
 洗い物をして濡れた腕を掛けてあったタオルで拭きながら、平良はテレビボードへと歩いた。
「借りていいか?」
 返事がないので振り返ると、まだ少し濡れたままの平良の左腕を、眞宙はぼんやりと見つめている。
「いい?」
「うん」
 もう一度尋ねると、眞宙は小さく笑って頷いた。
 引き出しから印鑑を取って、右手で左腕の湿りを払ってから三者面談のプリントが入っている鞄を持つ。冬服になれば制服の白いシャツに隠される平良の左の腕の肘から先には、引きれた酷い火傷やけどの痕があった。広範囲ではないが、腕に沿って縦に長い。
「いってきます」
 鞄を肩に担いで、眞宙に告げる。
「いってらっしゃい」
 何という会話はないけれど、眞宙とこうして当たり前の言葉を交わすのが、平良は好きだ。
「気をつけてね」
 出て行く平良の背に声を掛けてくれる眞宙は、いつでも平良にとても、甘くやさしい。
 平良は眞宙が大好きだ。
 何も停まっていない駐車スペースから自転車を路地に出して、平良はひらりとサドルに跨がった。家の中より外は涼しいというより少し寒く、自転車を勢いよく漕ぐと秋の気配を感じた。
 それでも海から十キロ以上離れている分、海風が来ないからましだと近所の誰かが言っていた。
 広大な土地がきれいに区切られて、同じような二階建ての一軒家が建つアネモネホームタウンには、五百戸もの新しい家が並んでいる。
 アネモネの花言葉は、希望だそうだ。
 何故そんなに一度に新しい家が建ったのかというと、七年と少し前にこの街でたくさんの家が失われたからだ。この街だけではない。隣の市でも、両隣の県でも、東京でも古い家は駄目になったところがあった。
 その三月、小学校二年生だった平良は眞宙と東京の古いアパートにいた。東京でも尋常ではなく揺れたし、本や食器が落ちて来て危なかったので今でもはっきりと覚えている。
 この僅かに届く気がする海風がやってくる東の果てで何が起こったのかを、眞宙と二人でテレビで見た。
 家一軒まるごと、車、火も、人も、たくさん海からの大きな波に流されて吞まれた。
 多くの人々と同じに、平良は恐ろしいことが起こった日としてその日のことを覚えているが、一番恐ろしい記憶はテレビの映像ではない。
 現実とは思えない映像を見ていた、眞宙の横顔だった。
「……衣替えもうすぐだな。冬にコート、着るか着ないか。悩むな」
 駅まで二十分弱の道のりを自転車で駆け抜けながら、ようやく体が熱くなる。
 このホームタウンは通りが一つ一つ広くて風がよく通るからなのか真冬はとても寒いが、電車に乗って仙台駅に着いたら、東京に住んでいたときよりましな気がした。
 雪は積もらないがそれでも北は北なのに、死ぬほど寒いかと言われるとそこは日による。それもあってか中学のときも男子はコートを着ないのがかっこいいという風潮だったが、構わず平良はコートを着た。着ないより着た方が、冬は冬なのだから寒さへのストレスがないと思った。
 おまえマイペースだなと、誰かに揶揄からかわれた。気づくとクラスでコートを着ている男子は、自分一人になっていた。平良はいつでも、ほとんど人の目が気にならない。そういった細かに思えることでは。
「おはようございます」
 小学生の集団登校を見守っていた毎朝擦れ違う老人に、平良は朝の挨拶をした。
「おはよう」
 穏やかに笑ってくれる老人は、もちろん平良を覚えている。
 人の目が気になりはしないが、このホームタウンに移り住んで四年、いつからか人が自分を覚えることが気になり出した。
 ここに住むまでは一つのところに長く住まなかったし近所づきあいもなかったが、眞宙はどうやらあの一軒家を買ったようですぐに引っ越す気配はなく、眞宙も街の人に覚えられている。
 平良の兄として。
 眞宙は平良には自分たちは間違いなく親子だと言うが、自分たちを覚える人には躊躇ためらわず兄弟だと言った。込み入った説明は与えられず、自分が若く見えすぎるから面倒だと、眞宙は平良に笑っただけだった。
 ご両親はと尋ねられると、眞宙は「あの三月に」と答えて、そうすると皆辛そうに頷いて口を噤む。お悔やみや慰めを与えられることもある。それ以上を尋ねる人はいないし、この新しい家々に住む人たちも、命の喪失の記憶を抱えていることが多い。
 東京から仙台市に移ってからもそのことを知る機会はあったが、港と市場がある海と生活が繫がっているこの街に来てからは、以前よりもっとここで何があったのかが平良には現実になった。
 ちょうどいい。
 この、知らない者同士が五百戸に住む、それぞれが七年前に何かしらの喪失を抱えている、兄弟だけで住んでももの問われることのないホームタウンができたのを知ったとき、眞宙はそう呟いた。
 同じ顔をした家々の中に敢えて埋没するようにここで暮らし始めて、平良は眞宙が何をちょうどいいと言ったのかが、段々とわかってきた。
 その「ちょうどいい」は恐らく、酷く冷酷な、心のない「ちょうどいい」だ。
 そして七年前の三月十一日に、この街で何が起こっていたのかを見つめていた眞宙の横顔は、確かにそういう顔だったと、平良は覚えていた。誰にも同情しない、あわれまない。
 それでも眞宙は、平良にはいつでも夢のように甘く、ただ、やさしい。
 平良は眞宙が、大好きだ。

 

 耳の中に突き刺さるようなサイレンで、少年は薄闇の夜に目覚めた。
 古い今にも崩れそうなアパートなので、違う部屋からでも、サイレンなどすぐそばにあるようによく聞こえる。
 少年はとても腹が立った。
 昼間、いつもの民生委員というものが訪ねてきたので、二階のこの部屋の窓から外に出て、その年輩の女がいなくなるまで真夏の暑い街を彼はうろつく羽目になった。
 小学校に行かないといけないわ、あなたはまだ五年生なのよと、四月からその女は言う。
 そういう女がうるさいので学校には二度行ってみたけれど、何かが人と違うとすぐに気づく集団が少年を狩り立てようとしたので、一度目は手に触れた椅子と机をそのまま彼らに投げつけて帰った。二度目はもっと教室自体を破壊する羽目になった。
 狩り立てようとした彼らが悪い。その後どうなったのか少年は知らないが、興味もない。
 ただ、人が集まるところに行くのはもうご免だった。狩られることはよくわかったし、それに反応すると恐らく何処かに閉じ込められる。二度とも、しつこく追われた。
 最近頻繁にアパートにくるあの女は随分親切そうな声を出すが、学校という場所に行ったら結果少年が監獄に入ることになるのをまるでわかっていない。
 どうやら法律というものが自分に味方しないことを、部屋に置かれた古いテレビから少年は学んでいた。だから自分を狩る者に対して正当な対応をできないこともわかるので、女からは逃げている。
 真夏の街をうろついたので、少年はすっかり疲れてアパートに寝転んでいた。テレビをつけようか少し悩んで、疲れが酷いのでやめる。
 テレビは少年にはとても大切な存在だった。自分がどういう世界で生きていて、攻撃されたときに意思に従ってそのまま行動するとどんな目に遭うのか、生き残り方を教えてくれる。テレビは一つのことに対して必ず同じ答えをよこさないとあるとき気づいて、様々な番組をランダムにつけて少年は生き残る答えをこの薄い板から学んでいた。
 だが今日は、それも休みだ。
 すり切れたデニムの上に着ているTシャツは、真新しくて石油の匂いがする。昨日この家の女が連れ込んだ若い男が、クレーンゲームで取ったが小さ過ぎると投げて行った。西日に焼かれた気配がまだ残る夜の部屋で目を凝らすと、毛羽だった畳に千円札が二枚捨てられたように置いてある。
 それで生きろということなのは経験的に知っていたが、いつまでこの二枚の紙でもたせなければならないのか知らされたことはないので二枚はとても少ないと、余計に少年は苛立った。
 サイレンのそばには誰もいないのか、隣の部屋から響き渡る音が本当にうるさい。
 しばらく少年は待ってみたが、サイレンは止む気配がなかった。
 仕方ないと、少年は手近にあったタオルを摑んで、畳から立ち上がった。
 お互いに窓が開いている。だからこんなによく聞こえるのだ。サイレンが。
 窓から出入りするのには慣れていた。玄関から来た者に対応したくないときに窓を使う。ささやかな柵をつたって、少年は身軽に隣の部屋を覗いて、すとんと入り込んだ。
 うるさいサイレンを止めるために。
 夜が訪れると、サイレンだけを置いて隣の女もいなくなるのを少年は知っている。そしてここのところ少年はそのサイレンに何度も起こされていて、今日という今日は止めようと、疲れと暑さであっさりと決めた。とても不快なだけでなく、眠れないので体がもたないから止める。
 自分が止めても気づかれない自信はあった。まず指で何かに触るまいと、最初からこのタオルを持っている。それにサイレンを止めたのが、「まだ五年生」の自分だと想像する者はいないとも、少年は知っていた。
 サイレンを発している源は、畳の上に敷かれた長い座布団の上に在った。
 バスタオルが敷いてあって、その上でサイレンは相変わらずよく鳴っている。近くで聞くと当たり前だがもっとうるさい。
 さあ、止めてしまおうと少年は、躊躇わずサイレンに近づき、鳴っている場所にタオルごと右手を伸ばした。
 ふいに、サイレンが止んだ。
 どうしたことかといぶかしんでサイレンを見ていると、二つの黒い透き通る玉がまっすぐに少年の方を向いていた。
 玉が涙に濡れていることは、全く気にならない。
 それより驚いたのは、サイレンが小さな手を伸ばしてきたことだ。
 サイレンを鳴らしていたはずの小さな線の両端が、上に向かって弧を描いた。
 サイレンだったはずの音が丸くなって、小さな鈴を鳴らすような声がこぼれ落ちた。
 そのまま少年はサイレンだったはずのものを、膝を抱えて、ただじっと眺めていた。
 いつ生まれたのだろうと、汚れた産着うぶぎくるまれた小さな人間を、飽きないので少年は見ていた。

 

『硬い爪、切り裂く指に明日』2に続く

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著者

菅野彰

福島県出身。少女向け小説からエッセイまで幅広く執筆。エッセイに『海馬が耳から駆けてゆく』(新書館)、小説に『毎日晴天!』シリーズ(徳間書店)、『小さな君の、腕に抱かれて』(新書館)など多数。

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