単行本 - 日本文学

尾崎世界観が読む、人生に影を抱えた二人の物語。木村紅美『あなたに安全な人』

 手洗いうがい、こまめな消毒、定期的な検温、それらによって、近頃はすっかり体調を崩すことが減った。もしも発熱してしまえば周囲にも大きな迷惑がかかるし、風邪はおろか、風邪気味すら許されない。この「気味」というのは、とても大事だ。感染症対策によって真っ先に奪われるのはそんな「気味」の中にある気配で、時にそれは、自分とこの世の緩衝材として作用していたと気づく。この小説を、そんな「気味」の小説として読んだ。

 本作の主人公であるたえしのぶは、訳あって東京から戻ってきた地元で出会う。そして二人には、それぞれ自分が殺してしまったかもしれない人間がいる。便利屋として依頼を受けた忍は、そのたわいない仕事を通して妙の家に出入りするようになる。殺してしまったかもしれない、死んでしまうかもしれない、そもそももう死んでいるのかもしれない、田舎特有の閉塞的で冷ややかな視線にさらされて、二人の周囲からはずっと気配ばかりが漂ってくる。その中で際立っているのが汚れだ。排水口の中、火傷の水膨れが破れて中からこぼれた「青みのあるメロンクリーム色」の膿、汗にまみれた肌着、忍の体や妙の家からは、真っ直ぐな不潔さを感じる。読んでいて食欲を失うほど、とにかく汚い。張り詰めた気配の中だからこそ、その汚さをはっきりと感じる。磨けば磨くほど逆に細かい汚ればかりに目がいってしまうように、妙は忍に徹底して厳しい眼差しを向ける。忍もまた、その汚れにとても自覚的だ。汚れ慣れているし、そんな目に見られ慣れている。まるで、不潔であることで何かに応えているようだ。

 やがて始まる二人の生活は、「気味」の中の気配に満ちている。二人の生活には細かく決められたルールがあって、それは互いが近づく為ではなく、互いが離れる為のものだ。でも、離れれば離れるほどに近づいてしまう。「気味」の中から漂ってくる気配とぎこちない会話で、二人は薄く繋がっていく。そんな二人の生活を読みながら、古い一軒家のどこにも、読み手である自分がくつろげる場所がない。そこには二人分のスペースしかなくて、小説から自分が弾かれる感覚があり、それがちょっと楽しい。二人には定期的に連絡がある。姪の瑠奈るなから忍に送られてくる馬鹿らしい脅迫メールと、元生徒であるりくの父親から妙に向けて吹き込まれる留守録のメッセージには、どこか救いがある。過去に犯してしまったかもしれない罪への容赦ない糾弾は、二人をどうにかこの世に繋ぎ止めようとするかすかな優しさだ。

 コロナ禍や三・一一を意識させながら、それだけじゃない、そこからこぼれた生や死がぼうっと滲んだ線ではっきりと書かれている。それが気配の正体だと感じた。

 ここ最近、分断を許さないことで起きる分断のせいで、空気を読むのにずっとうんざりしていたから、ひたすら気配を読む読書が幸福だった。起きたら体が怠くて寒気がする。唾を飲んだら喉が痛い。そんな風邪気味の体が、無性に懐かしい。

初出=「文藝」2021年冬季号

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