単行本 - 日本文学
多視座で世界を捉え直す試み──陣野俊史『泥海』書評
評者・DARTHREIDER(ダースレイダー)
2019.04.22
二〇一五年一月七日。フランス、パリの風刺新聞社「シャルリー・エブド」襲撃事件およびユダヤ系食品スーパー襲撃事件。イスラム過激派による犯行として日本でも連日報じられたことを記憶している人は多いだろう。この事件は表現の自由論争を引き起こしたが、『泥海(どろうみ)』ではそこには重きを置かず、犯人たち及びその妻や家族らのモノローグが羅列されていく。そこに日本の、長崎県伊佐早市出身の男の物語が加わる。本書の構造は非常に多視座的だ。世界を見て、互いを見る様々な視座。それは人間に限らない。様々な視座がそれぞれの視線を持って、重層的に、多角的に、それぞれの時間で存在している。信仰、思想といった、人間が定住社会を始めてから積み重ねてきた虚構は泥の如く僕らを取り込み、身動きすら取れなくする。Funkadelicの名盤『Maggot Brain』のレコードジャケットのように、首まで泥に埋まって叫び声をあげる。僕らはどうすれば良いのか?
レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』を読む。シベリアのハンターがエルクを狩る時はエルクの皮を被り、エルクの足を模した橇を履く。動きをそっくりにして近づくときは、エルクそのものになるように心がけるという。ハンターはしかし、完全に同一になる手前で銃を撃つ。エルクの視線になっている自分と、その自分を見つめる自分という二つの視座が存在する。
本書にはマリカという女性が書いた『光の兵士たち』という本が登場する。舞台はアフガニスタンだ。そこに描かれる夫や友人、仲間たちへの愛情の表現には不思議な既視感がある。それは同じアフガンに、或いはイラクやシリアに派遣された米兵やその妻が語る物語である。愛情のみならず、憎しみもまた。同じ物語を語る者同士が互いに殺戮を繰り返す。自分の語る物語のみが存在する世界にしがみつきながら。ただ、そこには自分の物語の向こう側、そこに同じ物語の存在を感じさせる揺らぎがある。スーパーで人質になった子供の、その先に。かつて一緒にサッカーをした誰かの、その先に。それを見えなくする光が降り注ぐ。ひとつの物語の中ではその光の源が神と呼ばれている。
ユヴァル・ノア・ハラリは、『ホモ・デウス』の冒頭で人類と他の動物の違いは「虚構」を共有する能力だと語る。狩猟採集時代に持っていた多視座、エルクに、熊に、木になることが出来た時代から大規模定住社会に至り、視線は上に集中し、窓口は一人の神となった。神から降り注ぐ光により、それまで存在した多くの視線は見えなくなる。この虚構への信仰が次々と新たな虚構を生み出していく。貨幣経済、国民国家、グローバル企業……次々と積み重ねてきた虚構の泥の海。
『泥海』の中には様々な視座が登場する。それぞれが泥の中から互いを見つめている。文字通り泥の中から見つめるムツゴロウの視線。綺麗な靴が泥にめり込み、金魚が泥の上で喘ぎ、アゲマキ貝が泥の中に生き埋めにされる。その上に幾重にも重なった虚構の泥の海。絶望的なこの世界。それでも希望は、視線の先に広がった青い空、薄茶色の瞳、そして、実は同じ物語を語っているかもしれない隣人である。