単行本 - 日本文学

上演は「字」で繰り返される──柳美里『町の形見』書評

 書評を任されておきながら、正直に白状すると、実はこの本と正面から向き合うことができていない。まだ冷静に読めないのだ。本の中に震災に関する詳細な記述があり、しかもそれらがみな実際に被災した七人の体験として書かれている。実際にそれを体験した人の悲しみやご苦労を考えると、わけのわからないものが胸にこみ上げてきて平常心ではいられず、あの日に自分自身の身に起きたことまで思い出してしまい、いろいろな思いが去来して苦しくなってしまうのだ。
 本書『町の形見』に収められているのは、青春五月党による表題作「町の形見」を含む複数の戯曲である(ここでは、戯曲「町の形見」について書いていく)。この作品は柳美里が書き起こしたものだ。だから本に収められた言葉は柳美里の言葉ではあるだろう。しかしそれは元をたどれば震災と原発事故を体験した南相馬の七人の方が直接柳に話した言葉から生まれている。そしてその一部は、実際にご本人によって舞台上で発せられ、私はそれを聞いてしまってもいる。どういう気持ちで劇に参加し、あの台詞を発したのだろう。どういう過程で自分の記憶と向き合い、その記憶を柳に話したのだろう。そんなことを考えていると、やはりぐるぐると頭が回り、また胸が苦しくなる。
 私はこれまで、震災や津波を取り上げた作品をあまり見ないようにしてきた。取り乱してしまうのが事前に分かっているからだ。以前、陸前高田を題材に作られた芸術作品を見たときもそうだった。作品に登場する現地の人たちの心の傷や、これまでの苦しみや悲しみを想像すると胸が痛む。嗚咽してしまって鑑賞どころではなくなり、数日は気持ちが沈んで仕事が手につかなくなってしまった。柳美里の二つの作品、「静物画」も「町の形見」もきっとそうなるだろう。そんなふうに考えていた。
 それでも取り乱しながらあの演劇を観、書評を書くためと圧をかけて本書を読み、こうして言葉を吐き出してみると、こんな風に胸をつかえさせ、嗚咽しそうになるのを我慢しながら言葉と向き合うことこそ、「風化に抗う」ということなのではないかと思えてくる。私もあの震災で被災した。だから、こんな悲劇は誰かが語らなくても知っている、苦しみは分かっている、似たような話なら何度も聞いたことがあるなどと知ったつもりになっていた。けれども、私は知らなかった。分かったつもりになっていたのだ。そしてこう考えるようになった。こうして誰かの悲しみに触れ、ともに心を震わせることができるというのは、避けるべきことなどではなく、むしろ小さな希望になり得るのではないか、と。本作は悲劇の書でありながら、希望の書でもあった。
 私はこの本を歩きながら読んだ。なぜか地元を歩きながら読みたくなったのだ。よく晴れた十一月のある日の朝、私は本を片手に自宅の玄関を出、裏手にある古びたスナック街を抜けて海のほうへと歩いた。文字の列を追いながら福島臨海鉄道の小さな踏切を渡って工場地帯を海側へ抜け、水族館のある埠頭に辿り着く。新しくできたイオンモールを視界に捉えながら、今度は巨大な小名浜魚市場の脇を通って、小名川沿いを進んでいく。
 この町にも形見はあった。古い民家の裏のほうに置きっぱなしになっているバケツか何かのように、生活の痕跡をまといながら、あちらこちらにそっと置かれているのだ。震災の記憶もあれば、何百年前の津波の記憶もある。高度経済成長の思い出もあれば、江戸時代の伝承を伝えるものも。いざこうして歩いてみれば、町は形見だらけであった。
 そこではかつての自分とも出会えた。祖母の手に引かれて通ったショッピングセンターの前。エロ本を探しにこっそりと訪れた本屋の跡。仲間と早朝集まってジョギングをした空き地。今はもうすっかり景色は変わってしまったけれど、幼稚園児の自分や高校生だった自分と一緒にそこを歩くような感覚になった。本を読みながら歩いたからだろうか。何かのツアー演劇に参加しているかのような錯覚に陥り、見慣れた風景に幻が見えた気がした。
 形見は地名とともに存在している。本書にもいくつか地名が登場する。劇のなかで演者が叫ぶのだ。私はそのシーンを忘れることができない。文字になった地名を目で追うだけで胸が打ち震えた。例えば福島県南相馬市原町区萱浜南才ノ上(かいはまみなみさいのうえ)。例えば福島県双葉郡富岡町(とみおかまち)本岡王塚。詳細に「字(あざ)」まで書かれている。「福島県」でも「浜通り」でも、「双葉郡」でも「富岡町」でも語ることのできないものを、字(あざ)は私たちに教えてくれる。それは、大きな主語では語ることのできない、ひとりひとり異なるナラティブの存在だ。
 震災後、私たちはどれほど「福島県」や「浜通り」、「双葉郡」という地名を使っただろう。今思えば、それらは、なんとなく分かったつもりになれる都合のよい地名ではなかったか。それらを私たちは都合よく使おうとしなかったか。例えば自説を補強したい時。誰かを論破したい時。私たちは都合よく「福島」を使ってきたではないか。柳が活字にした字(あざ)たちは、容赦なく私たちに怒りを突きつける。
 地名のなかには、現状では帰還することのできない場所も存在する。すっかり景色が変わってしまったところもあるだろう。当然、震災前にも歴史はある。私たちは、本書に刻まれた字(あざ)を通じて震災のディテールを想像し、震災前から連綿と続く人と地域の関わりの、その膨大な重なりを想像する。そして、あの震災で犠牲になったのは、二万という「ひとかたまりの死」ではなく、「ひとつひとつの死」であったことに改めて思い至り狼狽するのだ。それだけではない。震災を生き抜いたひとりひとりに記憶や思い出があることや、帰れない土地はぼんやりとした「大熊町」や「双葉町」ではなく、もっと膨大で微細な「字(あざ)」の連なりであることを本書は私たちに示してくれる。
 しかし柳は、それらを鋭利な刃物で突きつけるように「事実」として示すのではない。苦しさと重みを伴う石のようなもの、「真実としか言えない何か」を私たちに飲み込ませるかのように示すのだ。受け流すことなどできない。それを飲み込んだ私たちは、時間をかけて受け止め、自分の体の中で消化していくほかない。
 柳が本書に書き出した台詞は、七人の被災者が柳に語ったことがベースになっている。元々は「事実」から生まれているのだ。しかしその「事実」には、様々な演出によって幾重にも「真実らしさ」の膜が重ねられていく。そもそも演劇だから「町の形見」はフィクションである。南相馬の七人もまた「演じる者」であり、さらにそこに六人の俳優が加わる。おまけに劇には柳美里役の俳優まで登場するのだ。演出によって、事実は事実らしさを離れていく。しかし、事実を離れるほど、彼らの言葉は真実味を帯びていくのだった。そして、私たちは「真実としか言えない何か」を飲み込まずにはいられなくなる。
 それはとても巧妙である。事実から離れることで七人の話者を守ろうとしたのかもしれない。地元の人を巻き込んで福島を作品化するには、これほどの慎重さを要するということでもあるのだろう。しかし、柳は「作らない」という選択肢を取らない。あえてここまでして作品化する。その表現者としての態度には畏怖の念を禁じ得ない。震災をこのような形で作品化してしまう。作ってしまう。作家とはこのような残酷な生き物なのかと改めて感じずにいられなかった。もしかしたら柳は、自らの内にあるその残酷さと一人孤独に向かい合ったのかもしれない。
 だから、本書を手渡された私たちも考えずにいられないのだ。震災を含めた字(あざ)の記憶の継承を。あの震災で誰もが傷を受けた。傷つかなかった人などいない。福島に住んでいた人も、東京に住んでいた人も、町が津波に飲み込まれるシーンをテレビで見た人も、前代未聞の爆発事故を起こした東電の幹部ですら傷ついたことだろう。その傷を語ろうとすれば、話し手にも聞き手にも新しい傷を残す。だから私は震災を取り上げた作品からできるだけ距離を置いてきた。自分が傷つきたくなかったからだろう。
 しかし、先ほど冒頭で書いたように、誰かの悲劇に触れることは、苦しみや悲しみばかりを生み出さない。むしろ悲しみを共有することで生まれる希望があるからだ。誰か一人の内にあった悲しみが傷となって誰かに残る。そう、大切な形見を誰かに受け渡すように、その人の生きた証が別の誰かに残るのだ。柳によって掘り起こされた悲しみは、本書を通じて多くの人と共有されることだろう。悲しみは、その人だけのものでなくなったとき、希望へと姿を変える。柳は、悲劇は「お葬式」なのだという。
 では、そこで語られなかった言葉には光は当たらないのか。そうではない。語られた言葉は、語られなかった言葉にこそ逆説的に光を当てる。柳は繰り返し(本の帯にもあるように)、「あなたは、あのとき、なにを、していましたか?」と問い続ける。本書で語られた言葉の、その外側にある膨大な数の言葉は、誰かに見つけられるのを密かに待っているのではないだろうか。
 本書を手にした人は、ぜひ、自分の暮らす町や自分が生まれ育った土地を歩いてみてほしい。そしてまた、双葉郡のあちこちを辿りながら読んでみてもらいたい。その場所に行かなければ、そこを歩かなければ感じられないものがあるからだ。私たちが字を歩くことで「町の形見」は上演され続ける。脚本は柳美里。演出はそこを歩く人の数だけある。そうして訪ね歩いた人の数だけ異なる上演が積み重なり、その上演の記憶もまた、形見としてそこに残っていく。
 戯曲は演じられるのを待っている。本書の文字を追うだけでも十分ではあるだろう。けれども、やはり戯曲は上演されてこそだ。会場を押さえて俳優を手配する必要はない。本書を読み、町をめぐる。そこに眠る悲しみの痕跡を辿る。それだけでいい。そんな上演を、本書は心待ちにしているのではないだろうか。柳美里が店主を務める本屋「フルハウス」のある南相馬の小高から、本書に書かれたあちこちの「字(あざ)」に足を運んでみるのもいいかもしれない。形見は、もう私たちの腹のなかにある。上演は、字(あざ)で繰り返されるだろう。

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著者

小松理虔

ローカルアクティビスト。79年生。著書『新復興論』

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