単行本 - 日本文学

アイデンティティに苛まれて──町屋良平 著『ぼくはきっとやさしい』書評

 本作のキーワードは「男メンヘラ」。「メンヘラ」って今や多くの人が使いますが、実ははっきりとした定義がない曖昧な言葉です。でも通底した雰囲気はあって、孤独、不安、卑屈、不安定など、生きづらさを感じさせます。その要因となる様々なものの中の大きな一つが、「自分とはなんぞや」という哲学のような問題。個人差はありますが、人は「自分は○○だ」という自己像が安定すると、安心します。これは、社会の中で自分はこういう人間だ、という立ち方、つまりアイデンティティが確立されることを意味し、自分の中の「自分は何者だ」という像が、社会的にも違和感がない場合に達成されます。達成されない要素としては、自分が何者か見当がつかない場合、そして自分の中では何者かに違いないとイメージしているのに社会ではそうなっていない場合があります。

 僕は30代前半までバンド活動をしていましたが、その時はまさに、自分は特別な人間で成功するはずなのに全然成果が出ないという、自分の中の誇大的な自己像と現実との齟齬に苦しみ不安でした。さらに、年齢を重ねるにつれ、その不安を共有できる人も減り、孤独感と焦りが悪循環して慢性的に混乱。投げやりな気分で卑屈になったり、好意的に接してくれる女性に突然夢を語ったり、とても不安定だったように思います。そんな経験からか、僕は本作の主人公岳文たけふみに感情移入せざるをえませんでした。岳文は心のどこかで、自分は優れた何者かに違いないと感じています。これは、彼が普段から明確に意識しているわけではない、無意識的な「ナルシシズム」に近い感覚です。こういった感覚は、しばしば現実と食い違います。なぜなら、皆大抵凡人だから。皆が仕方なく受け入れるこの現実をうまく消化できないと、誰も自分のことを分かってくれないという孤独に包まれ、とても苦しいです。

 岳文は一目惚れをした彼女に突然、「日本じゃぼくには狭すぎる」と、それまで自分でも気づかず抑圧してきた気持ちを宣言しますが、現実は大人しめな普通の男子。相手は当然ピンと来ず、最終的に木更津の海に突き落とされます。インドでも同じようなことでガンジスに落とされたり、弟の彼女に惚れた時なんてストーカー扱い。自分の中に眠る誇大的な自己像と食い違い続ける現実に自暴自棄になり、自傷行為にさえ思える悲惨な恋を重ねながら彼の虚無は加速します。それらの出来事を綴った過去の日記を何度も編集し、自己像と辻褄を合わせようとしますがうまくいきません。そんな岳文の支えになるのは、他人に対する共感能力が高すぎて本当の自分をなかなかみつけられなかった友人や、岳文と違い身の丈に合った現実的な生活を送る弟。

 大人になるって、平凡な自分もそれはそれでいいじゃないか、と認めてあげることかもしれませんが、それに躓くととてもきつい。でもそもそも、大人になるって本当に幸せ? 自虐的な破滅ロードを孤独に疾走する「男メンヘラ」の運命やいかに。

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著者

星野概念

精神科医、ミュージシャン。共著『ラブという薬』

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