単行本 - 日本文学
「タイという土地の裸の姿」 タイ出身の作家が自国のデモや政変を背景に流動する国家の欲望を描く──ウティット・ヘーマムーン 著/福冨渉 訳『プラータナー 憑依のポートレート』書評
評者・小佐野彈
2019.08.29
この小説においては、すべてが「流体」である。いや、小説自体が、何色もの絵の具が溶かされた、極彩色の「水」なのだ。
時系列も、空間も、性も、そして主人公である「彼」自身の肉体や精神も。常に流動し、混ざりあっている。
冒頭、カラヴァッジョの「ナルキッソス」さながら、水面に映る自身を見つめていた美少年は、やがて彼を観察していた美術教師の「彼」と同化してゆく。モデルとして観察されていた少年は、いつのまにか長じて自ら美術を教える立場となり、美術家として「観察者」である「彼」になっている。
主人公の「彼」は、可逆的かつ渦巻くような複雑なときの流れのなかで、さまざまな性体験を重ねてゆく。カトゥーイと呼ばれる女装をした男性。反政府デモで出会った詩人の女性。バイセクシュアルで、本来は「タチ」であるはずの女性。「ナーム」(水)という名を持つ青年との、エロティックかつアーティスティックな関係。そして、「ナーム」の衝撃的な死を経てのち、同じく「水」という意味の「ワーリー」という名を持つ少年と官能的な関係を持つにいたる。
溶け合うような人間関係は、仏教の輪廻を想起させる。
あなたは、わたしであり、わたしは、あなたである。少年はいつかの青年であり、青年はいつかの少年なのだ。
「溶け合うこと」と「ひとつになること」への希求は、一巻を通じての大きなテーマである。「タチ」の女性に男性が「抱かれる」こと。挿入する立場とされてきた男性が、挿入「される」こと。自らの性器を自ら咥えて、自身の放った精を自身で味わうこと。
こうした官能のグラデーションの様相は、性という個人的かつ微視的な視点を超えて、タイという国家あるいは土地そのもののグラデーションという巨視的な視点と繫がっている。
タイでデモや政変が繰り返されてきたことは、ニュースを通じてわれわれもよく知るところだ。赤シャツのタクシン派、あるいは黄シャツの王党派。それぞれの立場の正当性を叫んでいるけれども、赤シャツも黄シャツも、結局はいずれかの階級に「特権」を与え、強権を奮って敵対勢力を弾圧してきた。タイという国家自身もまた、「いつかのタイ」は「いまのタイ」であり、「いまのタイ」は「いつかのタイ」であるという輪廻から逃れられないのである。
一九七五年生まれの作者は、こうしたタイのグラデーションを、最も身近で見てきたひとりだろう。流動する国家の姿態を、流動する自らの精神と肉体を通じて描く。その大胆な試みは、本作においてほぼ完璧に近いかたちで達成されているように思われる。
評者自身、仕事でよくタイに出かける。スワンナプーム空港に着陸する直前の機窓に見えるのは、数多の水に彩られたタイの大地だ。水田、湖沼、深い流れを湛えるチャオプラヤー川。タイは、流動的にして官能的な、極彩色の「水の大地」なのだ。
読了後の脳裏に浮かぶのは、悩ましくも美しい、タイという土地の裸の姿である。